第1話

文字数 1,795文字

「カメラ」「鈍感」「ユートピア」
Saven Satow
May, 16, 2023

「さて、三題噺ということだから、『三角関数』を持ってこなければならぬ。『三角関数』というのは「佐奈確報」だの『三角測量』だのが幅をきかしていた時代からの悪いネーミングで、別名を『円関数』と言う。円運動の周期性にかかわって、天文学のなかで生まれたからだ」。
森毅『「住専」「隕石」「三角関数」』

 森毅は、『実業の日本』1996年4月1日号から97年3月1日号まで三題噺批評を連載している。三題のうち、一つが数学の概念、残りは時事的話題などである。「『為替』『いじめ』『ゼロの発見』」や「『ベンチャー』『プリクラ』『2進法』」といった具合である。内容は社会時評で、それを数学と関連させて論じるというものだ。数学が隠喩となって、時事的話題にありきたりではない見方が提示される。

 どうせ役に立たぬと白い目で見られてきたおかげで、あまり現実にまきこまれずに枠を考えるのに慣れている。ものを考えるのに、距離をとりながら、自分なりの枠組みをかなえようとするのが、数学という商売の癖。世のなかの役にならぬのは、けっこうなこと。なんでも役にたてようとしすぎるから、ものを考えられぬ。もっと数学で頭をむだに使いましょう。
(森毅『「社会」「経済」「数学」』)

 お客がリクエストする三つのお題を織りこみ、よいオチをつけて一つの物語にこさえるのが三題噺である。即興で語る場合だけでなく、一旦持ち帰って次の高座の時に披露する場合もある。

 幕末を中心に栄えたものの、大半は即席の消耗品でしかない。もっとも数が多いだけに、傑作として今日まで伝わっている噺もある。その一つが落語の中興の祖と呼ばれる三遊亭圓朝作とされる『鰍沢』である。ただし、三題が何だったのかははっきりとしない。

 『鰍沢』は発表当初から人気を博し、他の演者が芝居噺にしたり、河竹黙阿弥が後日談を作ったりしている。三題噺の制約上、改編の裁量権は限定的である。ただ、下げにお題が入っていなければ、オチの変更も許容されている。『鰍沢』は代表例で、噺家によって展開や結末が異なる。

 三題噺の創作には、日頃の訓練や長年の経験、頓智頓才が必要なので、人間委は難しい。だからこそ、後世にまで語り継がれる作品は少数である。しかし、膨大なデータを学習できるAIにとっては容易な作業だ。短期間で大量生産が可能なので、『鰍沢』が現在まで伝わっているように、一つ二つ出来が良いものも生成するだろう。小品ならなおさらそうだ。

 しかし、論理が相関性のみのAIは見逃したパターンを見つけても、隠れた変数を見出せない。それはクリティカル・シンキングに欠ける。チャットボットは批評が苦手だ。森毅の三題噺批評はその意味で現代的である。

 さて、『「カメラ」「鈍感」「ユートピア」』の三題噺批評である。人類史上、現代ほど写真が撮られている時代はない。それを可能にしたのはカメラ機能付きの携帯端末の普及である。好きな時に手軽に何枚も撮れるだけでなく、加工も容易だ。しかも、その写真をSNSに投稿して、その喜びを他者と共有することができる。

 SNSの写真は理想像に溢れ、さながらユートピアである。しかし、それはディストピアでもある。カメラは具体的で個別的な事物の表面しか写せない。承認欲求に駆られた投稿者は醜悪や羞恥といった負け犬の姿を隠し、場合によっては盛っている。いい写真が撮れたから投稿するはずが、逆になる。評価が欲しくて、いい写真を求める。写真の世界を到達すべき理想として現実とのギャップに、疲弊してしまう人も少なくない。

 メディアも時折伝えるそうした隠れた問題を考えすぎと冷笑するとしたら、鈍感すぎるというものだ。誰にでもできるとすれば、それは目指さなければならない。可能は当意にしばしば転換して人を抑圧する。夢はいつでも悪夢になり得る。そのため、あるがままの自分を認める自尊感情の発達途上にある未成年の利用規制を各国政府が検討するようになる。もはや隠れた問題ではない。

 隠れたものを見出すことが今後さらに求められるようになるだろう。しかし、それこそが人間ならではの認知行動である。
〈了〉
参照文献
榎本滋民他、『落語ことば・事柄辞典』、角川ソフィア文庫、2017年
森毅、『ぼちぼちいこか』、実業之日本社、1998年
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