クラゲと呼ばれた人について思う。

文字数 1,878文字

 藤本瀬里奈が死んだという報せを訊いたのは、金曜日の夕方だった。僕は家に帰宅してシャワーを浴び、ボロネーゼのパスタと共に白ワインを飲もうとしていた所だった。
「いつ死んだんだ?」
 僕はスマートフォンの向こう側にいる柴崎に訊いた。彼とは同郷の同級生で、小学校時代を一緒に過ごした相手だ。僕は地元の千葉県山武市を離れたので四年程疎遠だったが、去年の耐風被害の事が気になって連絡を取ったのが一番最近だ。その時は建物の被害は出たが無事だという報せを訊いたが、二回目は訃報を聞かされるとは思っていなかった。
「今日の昼過ぎだ。藤本のお母さんから訊いたよ。知っている連中全員に連絡しようと思って」
 柴崎は落ち着いた様子で続けた。すでに所帯をもって物怖じしない人間になったからだろうか。
「いつ行けばいい?通夜の日程とかは決まっているのか?」
「それはまだだよ」
 僕の言葉に柴崎は腹を立てたような言い方で答えてさらに続ける。
「とにかく、こっちに来て顔を合わせてくれ。手を合わせるくらいの事はしてくれよ」
「わかった。明日は予定が入っていないから向かうよ」
「頼む。何かあったら俺に連絡をくれ」
 柴崎のその言葉を最後にして、僕は電話を切った。明日は遠出をせず、小説を書いたりネット配信の映画などを観て過ごす予定だったのだが、中止にしなければならない。僕は用意した食事とワインを飲んで、香典の袋と黒いネクタイなどを用意して眠りに着いた。


 次の日は朝の午前六時半に目覚めた。僕の住む東京の西が丘から千葉の山武までは、車で一時間半は掛る距離だ。もしかしたら一泊になるかも知れないと思い、僕は必要な荷物を中古で買ったメルセデス・ベンツのCクラスに積み込み、運転席に乗り込んで住んでいるマンションの駐車場を後にした。時間を節約するために、王子から高速に乗り、首都高から外環、東関道へと車を走らせた。まだ瞼の上がり切っていない、春の匂いが次第に強くなる灰色の街を見下ろしながら、僕は故郷で過ごした事と、藤本と過ごした時間を思い返す事にした。

 藤本は僕の住んでいる山武市に、小学校入学時に東京から引っ越してきた女の子だ。引っ越してきた理由はお父様が航空会社の国際線業務の仕事をしており、成田空港近くのこの街に引っ越してきたらしい。初めて顔を合わせたのは小学校二年生の時で、その時は転校生を排斥する事もなく、あまり接点を持つ事もなかった。
 それから三年が経ち、小学校五年生に進学したころから、クラスの何人かの生徒が藤本の事を『クラゲ』とあだ名をつけたのだ。つかみどころのない、透明で注目されもしない存在。というのが由来らしかった。女子児童のあだ名としてはあまりいい感じの名前では無かったが、当時の僕にはかばう気持ちにはなれなかった。だが不当に彼女が卑下されているという違和感と疑問は、僕の中でクラゲの触手が痛みを伴わずにまとわりついているような違和感を抱かせ続けた。
 六年生に進学して一か月程経ったある日、僕と藤本は掃除当番で理科室の掃除を行っていた。他の児童が理科室を、僕と藤本が準備室を掃除している時、藤本は突然僕に言った。「私のあだ名、クラゲって言われているのは知ってる?」
 突然の言葉に僕は息を呑んだ。成長した今その時の気持ちを形容するならば、夜道で殺人事件の目撃者になってしまうくらいの衝撃があった。
「知っているよ。俺は呼ばないけれど」
 僕は自分の知っている事実と立場を言った。
「本当?」
「ああ、嘘をついても仕方ないだろ」
 僕は会話を終わらせるようにぴしゃりと言い放った。彼女の事は特に大切な相手でも無かったし、かといって故意に険悪になりたい関係でも無かった。
「そう。あたしをクラゲって呼ばないんだ」
「ああ。呼んで欲しいの?」
「別に」
 僕と藤野の会話はそれで終わった。



 今思えば、何故彼女がクラゲと呼ばれていたのか、そして理科室の一件以降殆ど会話を交わしていない事を思い出した。そして僕は彼女の死をきっかけにして生まれ故郷に戻っている。全てがちぐはぐだ。何故だろう?クラゲのまとわりついた触手が、今になって痛みを生んでいるのだろうか。くだらないことだ。彼女は死んでもう僕に触手をまとわりつかせる力すら失っている。今はもうブヨブヨで掴みどころのない透明な存在だ。
 僕は藤本が単なる大海原のクラゲに成り下がった事を実感して、気分が楽になった。

                                     (了)
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