#4

文字数 4,986文字

 それは突然の出来事だった。その瞬間までサンデルの配属地では前線への補給物資が淡々と整理されていた。戦争らしさといえば自分たちが身に着けている軍服とテントに配備されている重火器、そして職業軍人の規律正しく勇ましい掛け声だった。それが一つの爆発音を開始の合図として、本当の戦争に大きく近づいたのだ。兵士を本職としている者たちは誰一人として余計な騒ぎを起こさずに、銃を携えて遠くで撃ち合っている。一方で戦闘を知らない軍人たちは3種類に分かれていた。一目散に逃げだした者、物陰に隠れて身動きが取れない者、そしてすでに絶命している者だ。サンデルは岩陰に隠れ、恐怖に身体を支配されていた。全身どころか首から上も動かすことができずに、ただただ爆発音と銃撃の音とハッキリ聞き取れない号令を受動的に聞いているだけだ。そんな中でかすかに耳に届いた、すすり泣く声がサンデルの視線に自由を与えた。右前方の木陰に同僚であるケイネスが自分と同じ状態で硬直していた。その姿を見た途端、サンデルの身体は興奮剤を打ったかのように奮い立ち、動き出していた。
「来い!さっさと逃げるぞ!」
 ほとんど反射的にケイネスの前に移動したサンデルは、彼の左手首を強引に引っ張り上げていた。
「兄貴…。兄貴!」
 この地に配属されてからどんな経緯だったかはよく覚えていないが、自分のことを「兄貴」と呼んで慕ってくれていたケイネスとは、配属先の仲間の中で一番深く交流していた。逃げ出したことで叱責されようが、サンデルは彼だけでもこの死地から遠ざけたいと必死だった。戦闘の足音が徐々に近づいているなか、無我夢中で繋いでいた手は無情にもケイネスが石に躓いて転んだことで離されてしまった。サンデルはそのことにすぐに気が付き、ケイネスのほうを振り返る。2人ともここから逃げることに必死だったがゆえに、ケイネスの近くに落ちた砲弾を認識できなかった。激しい爆発音が鳴り響き、サンデルは反射的に右耳を爆発のほうに向けて目をそらした。しかしその衝撃はすさまじく、サンデルはそのまま意識を失った。最後に彼がハッキリと視認したものは、四つん這いになりながら爆裂に飲み込まれていくケイネスの姿だった。この戦闘では何とか敵を退けることに成功したらしい。

 今日も食事室ではいつもと変わらない流れがあった。心療に尋ねたセリアがいつもと変りないか、何か困ったことはないかをフォレナに聞き、フォレナが「特にありません」と答える。それから小一時間の雑談が始まる。しかし、以前はフォレナの話をしっかりと聞いていたセリアは、この頃は別のことに意識を持ってかれることが多くなった。
「セリアさん…どうかしました?」
 正面からやや右を見ながら、難しい顔をしているセリアにフォレナは話を切り上げて声をかけた。それに気づいたセリアは慌てて意識をフォレナのほうに向けた。
「すいません…その…考え事を…。いえ、続けてください。」
 フォレナはさすがに平生でいられていないセリアを見兼ねていた。
「その…何か心配事とかあれば話してください。聞き役くらいにはなれると思うので。」
フォレナの気遣いにセリアは慌てた様子で両手を胸の前で振り、ぎこちなく遠慮を示した。
「いえ、私がフォレナさんを心療している立場なので…。」
しかし、自らの言葉にハッとしたセリアはその矛盾点を言葉にしていた。
「そうですよね…。心療しているほうが、相手に心配をかけるなんてことがあってはいけませんよね。」
 そして、意を決したようにフォレナのほうに向き直り、真剣な眼差しである要望を口にした。
「あの、アトリエにもう一度入らせてください。」

「どうぞ」というフォレナの言葉と同時に、木製の扉がキィと音を立てながら開いた。そのあとにセリアが「お邪魔します」と律義に言葉にして入室した。セリアの頼みを耳にした瞬間、フォレナは少し拍子抜けだった。その一方であまりにも真剣なセリアの眼を見たからこそ、日が沈みかける野道を、灯りを持って歩いているときのような気分でセリアの行動を見ていた。セリアはアトリエに入るなり、かぶせられた布をゆっくりとめくり、かつてフォレナが描いた花畑と風車の風景画と眼を合わせた。
「やはり…キレイですね。」
 そうつぶやいたセリアはおもむろに立ち上がり、やはり真剣な眼差しでフォレナと向き合った。
「もう一度、絵を描き始めて、そして描けなくなった理由を聞かせてもらいますか?」
 その問いはやはりフォレナにとっては真剣な眼差しとの差を感じざるを得ないものだった。しかし、セリアの雰囲気に押されたため背中を寄りかかっていた壁から離し、組んでいた腕をほどいた。
「セリアさんがさっきキレイだと言った絵、あれは母さんが好きだった景色を描いたものなんです。」
 フォレナはポツリポツリと自分の過去を話し始めた。自分の感動を伝えるために母から絵を勧められたこと。絵画教室に通っていたこと。誰よりも母に喜んでもらいたかったこと。しかし、その母が急死したこと。それでも、始めた動機がかなわなくなった後も絵を描き続けたこと。
「でもダメなんです。戦争から帰ってきた後はキレイな景色を描こうとしてるのに、戦場の景色ばっかり頭に浮かんできて…。描く気が起きないんです。」
フォレナは頭を抱えて少しうつむきながら話を締めくくった。セリアはフォレナから目を離さず、時に表情を曇らせながら話を聞いていた。そして数秒間の間を空けて下を向くフォレナに歩み寄り、ある提案をした。
「それでは、戦争の絵を描いてみてはどうですか?」
 その提案にフォレナは、ただただセリアのほうを向くことしかできなかった。理解が追い付いていないフォレナに対してセリアは続けた。
「フォレナさんの絵は、その時一番伝えたい感情が表れていると思います。そちらの風景画を描いたときは、『こんなキレイな景色があるんだ』と、そう皆さんに、お母様に伝えたかったとお話しされていました。でも、今あなたが本当にわかってもらいたい感情は、戦争で体験した苦しみ、哀しみではないでしょうか。それならそれを絵に描いてみて、戦争はこんなに残酷なものなんだと訴えかけることが、ご自身が経験してしまった過去と向き合うきっかけになると思います。」
 提案の意図は理解したが、それでもフォレナにはどこかモヤモヤとした拒否感のようなものがあった。
「でも…その絵を見た人は…あまりうれしい気持ちにはならないと言いますか…。」
 自分でもうまく言い表せない引っ掛かりを覚えているフォレナに対して、セリアはそれでも説得を続けた。
「いいえ、自分と同じ哀しみを味わった人がいるんだと知るだけで、人は少し救われるものです。ちょうどあなたとサンデルさんの関係のように。それを伝えたかったんです。」
 心当たりがあるのか、少しハッとした表情を浮かべるフォレナにセリアは語り続けた。
「フォレナさんがサンデルさんと喋っている時、自分は一人じゃないってそう思えているのではないでしょうか。だから、あなたが描いた戦争の絵を観て、同じ苦しみを味わった人がいるんだって、自分は一人じゃないんだって、そう思い、孤独から救われる人もいるのではないでしょうか。」
 フォレナは難しそうな表情を浮かべながら一言だけ返事をした。
「すみません、少し考えさせてください。」

 セリアがアトリエを退室した時には、日がほとんど落ちていた。まだ店舗に明りがついていることに気づき、デルフに帰りの挨拶をするために室内に入った。案の定、そこには店内の掃除をするデルフの姿があった。扉を開けたセリアに気づき、いったん手を止めて視線を彼女のほうに送る。
「すみません、今日はこれで失礼します。お邪魔しました。」
 いつもの調子で声をかけると、
「ああ、今日もお疲れ様。また明日も、よろしくお願いします。」
 こちらのいつもの穏やかな口調で返してくる。そして、違和感を口にする。
「フォレナは、自室かい?」
 いつもセリアと一緒に玄関まで下りてくるフォレナの姿が見当たらないのだ。
「いえ、アトリエにいます。」
 セリアがそう答えるとデルフは少し驚いた表情を浮かべ、喜びを隠しきれない様子で呟いた。
「アトリエ…そうか、アトリエね…。」
 デルフはこの変化を肯定的に捉えている。そう感じた瞬間、セリアにはちょっとした高揚感があった。
「やはり、フォレナさんには絵を描いていてほしいと思われますか?」
 その質問に、デルフは斜め上を向いて少しの間「うーん」と思案した。
「必ずしも絵に限ったことではないさ。あいつには自由に道を選んで生きていてほしいんだ。」
 アトリエがある方向をみながらやさしい口調で話すデルフ。少し間をおいてセリアと向かい合った。
「あいつが、絵を描くきっかけは知ってるかい?」
 セリアは少しうつむきがちに答えた。
「はい、その、奥様が亡くなられたことも話してくれました。」
 デルフは「そうか」とまた斜め上を向いて思いのたけを話し始めた。
「この家業は俺の祖父が始めたものでね…フォレナも生まれた時からこの店を継ぐことを頭の隅に置きながら生きてきた。おまけに片親で何かと我慢をしなければならなかっただろう。だからこそ、あいつにはそんなしがらみに縛られずに道を選択してほしい。自分がやりたいことを目いっぱいやってほしい。そう願いながら育ててきた。」
 芯の通った口調で話すデルフだったが、次の瞬間にはおでこに手を当てながら下を向いていた。
「でも、あいつの本心をしっかりと聞けていない気がしてしまうんだ。本当にしたいことをどこか遠慮しているようでも、無理に聞き出すことには違和感を感じてしまう。その問答をずっと繰り返しているよ。」
 一通り感情を吐露したデルフは哀しげに微笑みながら、言葉をつづけた。
「すまない、愚痴っぽくなってしまったね。」
 セリアは「いいえ」と首を横に振ると、まっすぐな目をデルフに向けた。
「フォレナさんを親しい方の想いを聞くことも心療の大事な一部だと思っています。ですから、お気になさらず。」
 その人の心に寄り添った視線は、デルフの信頼を得るのには充分でであった。デルフの微笑は肯定的なものへかわり、「そうか」とつぶやいた後にまっすぐに言葉をつづけた。
「では、これからも息子を頼みます。」
「ええ、また明日もよろしくお願いします。」
そう言ってセリアは店を後にした。確かな手応えを握りしめながら。

 セリアがアトリエを出た後もフォレナの手は進まないままだった。セリアの提案は確かにフォレナの視野を広げ、今までの想いを否定することなくそっと背中を押してくれた。しかし、いざ鉛筆で下絵を描こうとすると何か違和感がある。戦場の記憶はすぐに頭を埋め尽くす。爆発音も、焦げ臭いにおいも、土埃の味も、吐きそうになりながらひたすらに走っていた時の景色も、鮮明によみがえっては別の苦い記憶に塗りつぶされていく。自分はいつまで立ち尽くしているつもりなのか、その呆れとともに目の前にある真っ白な画布を呆然と眺めていた。そう、自分の想いを追体験させる画布、自分の想いを代弁させるための画布だ。
「あの頃の僕みたいだ…。」
 それは戦場に赴く前、同じ国に住む人々が直面している凄惨な状況を知らない自分だ。そう呟いたとき、自分の中にある違和感の正体がわかった気がした。そして下絵用の鉛筆をそっと机に置いた。そう、戦争は、何の前触れもなく心に深い傷をつけていったのだ。
 絵具がついた筆をまっさらな画布に叩きつけた。そして赤が無造作に動かした筆の通りに広がっていく。画布の白の大部分を侵した赤は、次に塗られた黒に支配されていく。そして緑、青、橙色…様々な色が互いを蹂躙し、淘汰されあっていく。乱暴に、それでも頭にある下絵通りに形を成していく色は禍々しく混沌としていても、かろうじてそれが人であると認識できるように成り立っていった。
 こんなに早く描き上げたことは今までなかっただろう。衝動に従って描いたためだろうか、達成感がほとんどないまま完成した絵を壁に立てかけ、新たな画布を目の前に用意した。まだまだ絵にしたい景色は否応なく頭に浮かんでくる。そしてその景色を、さらにその次の景色をも絵にしたところで、まだ夜は明けないのである。
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