牛丼食べにいこう
文字数 2,000文字
村本広司が話しかけてきた。びっくりしてマウスを持つ手が滑った。
「モクテルにもノンアルマーク付けないとだめですよ」
「あっ……そうでした、すみません」
ドリンクカタログをアプリで作る職場。村本さんの作るカタログの美しさ、速さはフロアでピカイチ。しかし極度の人嫌いらしく、誰かと親しく喋っているのを見たことがない。隣席なのに要件を必ずメッセで送ってくる。仕事上の内容のみで雑談はいっさいなし。絵文字のひとつもない無味乾燥な文面。
百キロは超える巨漢で、昼は大抵デスクで牛丼やカツ丼を食べている。においが広がるのでこういったメニューは皆、避けるのだが、彼はおかまいなしだ。
デブってのは全く自己管理しないよな、と悟が毒づく。
「いつもメッセなのに、何で急に喋ってきたんやろ」
仕事帰りのバーに恋人の清水悟といる。
「啓子いつもお菓子あげてるやろ。あいつに親切にしてるのはお前くらいや。たまには直接話さないと悪いと思ってるのかも」
「隣だからあげてるだけなんやけど。にしても悟ってほんと、村本さんが嫌いやのね」
「嫌いじゃなくて関心ないだけ。あんなキモい奴、なんでおれが相手にするかよ」
大嘘だ。悟は隣の島のリーダーだけど、作るカタログの完成度の高さでは村本さんの足元にも及ばない。上長への媚とコミュニケーションスキルでのし上がったクチだ。悟は本当は村本さんに強烈な敵対心を持っている。なんだかんだでいつも彼の名前、出してくるもの。
「でもさ、最近痩せてきたと思わない?」
「それな。どうも糖尿病らしいぞ」
最近ちょくちょく早退するやろ?上が言うには病院通ってるらしい。あんな体や、どこか悪いのに決まってる。あの食事と痩せ方からするとたぶん糖尿やろ。それかメンタルの方かもな。あいつと結婚する女は大変やな。生涯の治療費が馬鹿にならんぞ。
聞いているふりをしてメニュー表を眺めた。悟、病気の事なのにペラペラ喋っていいの?それに結婚の言葉にぎくりとした。先月のプロポーズの返事をまだしていない。
三年先輩の悟。数年内に課長になるのは間違いない。彼と結婚したら安泰だろう。だけど。ふとした会話に顔を覗かせるモラハラ気質と冷酷さのせいで、踏ん切りがつかない。
「いま八十くらいまで落ちてない?それに痩せたらちょっと貴乃花さんに似てない?なあんてね」
そうなのだ。席替えの当初は巨豚にしか見えなかったのが、だんだん痩せてきた。履いているデニムもユニクロだったのがリーバイスになった。すると体全体に光が射して、男前に見え出したのだ。悟が憮然とし、押し黙った。
「糖尿ならお菓子あげちゃだめだよね」
「そうやお前、もう絶対よせよ」
翌日から村本さんにお菓子を渡すのをやめた。村本さんは以前のように要件をメッセを送ってくるようになった。私、話してくれてちょっと嬉しかったのにな。
会社の近くに松屋がオープンした。配っていたチラシを持ってデスクに付くと、村本さんが同じチラシを凝視していた。
「新しく松屋できたんですね、嬉しい。私、牛丼好きだから」
思わず話しかけた。村本さんが顔をあげて
「坂井さんが牛丼好きって意外ですね。パスタとかだったら分かりますが」
口の端がちょっとだけ歪んでいる、変な表情……というか、もしかして、はにかんでる?
「好きですよ。パスタより全然。ひとりでも行きます」
「僕も牛丼好きで。三食牛丼でもいいです」
声をあげて笑った。
「でも、ご病気にいいんですか?」
しまった。悟のペラペラ癖が移ったのかも。
「病気?……ああ、最近早退するのは父親が脚の骨折で入院してまして。それで」
隣の島から悟が見ていた。定時まで三十分を切った時、悟が来た。
「これから会議入った。先にサーレ行っといて。おれの名前で十九時で予約してるから」
西梅田に新しく出来たダイニングバーでのデート。
「うん、わかった」
「今日、ボジョレーの解禁日やから楽しみやな。飲み倒そう。お前の好きな牡蠣のパエリアも頼んだ。予約せんと食べれへんやつ」
「うん、ありがとう」
悟が会話を続けようとする。なんでいつまでも喋ってくるの?こっちはまだ仕事中なの、見ててわかるでしょ。
定時になった。帰り支度をしながら私は仕事を続ける村本さんに声をかけた。
「あと何分で終わりそうですか?もしよかったら松屋いきません?」
「え。清水さんと約束あるんじゃないんですか?ボジョレーって……」
「いいの。私は牛丼食べたいもん」
村本さんが訝しげに私を見詰めた。あーあ、そうよね。平気で約束破る女だと思っているよね。
少し思案し、画面を向いたまま、あと五分したら終わるので待ってて下さいと村本さんは言った。その横顔は、わざと無表情をつくっている、ように見えなくもない。
結局、この一言が私の一生を決定づけたわけだけど、決して下心があったのではない。あなたと牛丼食べにいきたい。ただそれだけやったのよ。
「モクテルにもノンアルマーク付けないとだめですよ」
「あっ……そうでした、すみません」
ドリンクカタログをアプリで作る職場。村本さんの作るカタログの美しさ、速さはフロアでピカイチ。しかし極度の人嫌いらしく、誰かと親しく喋っているのを見たことがない。隣席なのに要件を必ずメッセで送ってくる。仕事上の内容のみで雑談はいっさいなし。絵文字のひとつもない無味乾燥な文面。
百キロは超える巨漢で、昼は大抵デスクで牛丼やカツ丼を食べている。においが広がるのでこういったメニューは皆、避けるのだが、彼はおかまいなしだ。
デブってのは全く自己管理しないよな、と悟が毒づく。
「いつもメッセなのに、何で急に喋ってきたんやろ」
仕事帰りのバーに恋人の清水悟といる。
「啓子いつもお菓子あげてるやろ。あいつに親切にしてるのはお前くらいや。たまには直接話さないと悪いと思ってるのかも」
「隣だからあげてるだけなんやけど。にしても悟ってほんと、村本さんが嫌いやのね」
「嫌いじゃなくて関心ないだけ。あんなキモい奴、なんでおれが相手にするかよ」
大嘘だ。悟は隣の島のリーダーだけど、作るカタログの完成度の高さでは村本さんの足元にも及ばない。上長への媚とコミュニケーションスキルでのし上がったクチだ。悟は本当は村本さんに強烈な敵対心を持っている。なんだかんだでいつも彼の名前、出してくるもの。
「でもさ、最近痩せてきたと思わない?」
「それな。どうも糖尿病らしいぞ」
最近ちょくちょく早退するやろ?上が言うには病院通ってるらしい。あんな体や、どこか悪いのに決まってる。あの食事と痩せ方からするとたぶん糖尿やろ。それかメンタルの方かもな。あいつと結婚する女は大変やな。生涯の治療費が馬鹿にならんぞ。
聞いているふりをしてメニュー表を眺めた。悟、病気の事なのにペラペラ喋っていいの?それに結婚の言葉にぎくりとした。先月のプロポーズの返事をまだしていない。
三年先輩の悟。数年内に課長になるのは間違いない。彼と結婚したら安泰だろう。だけど。ふとした会話に顔を覗かせるモラハラ気質と冷酷さのせいで、踏ん切りがつかない。
「いま八十くらいまで落ちてない?それに痩せたらちょっと貴乃花さんに似てない?なあんてね」
そうなのだ。席替えの当初は巨豚にしか見えなかったのが、だんだん痩せてきた。履いているデニムもユニクロだったのがリーバイスになった。すると体全体に光が射して、男前に見え出したのだ。悟が憮然とし、押し黙った。
「糖尿ならお菓子あげちゃだめだよね」
「そうやお前、もう絶対よせよ」
翌日から村本さんにお菓子を渡すのをやめた。村本さんは以前のように要件をメッセを送ってくるようになった。私、話してくれてちょっと嬉しかったのにな。
会社の近くに松屋がオープンした。配っていたチラシを持ってデスクに付くと、村本さんが同じチラシを凝視していた。
「新しく松屋できたんですね、嬉しい。私、牛丼好きだから」
思わず話しかけた。村本さんが顔をあげて
「坂井さんが牛丼好きって意外ですね。パスタとかだったら分かりますが」
口の端がちょっとだけ歪んでいる、変な表情……というか、もしかして、はにかんでる?
「好きですよ。パスタより全然。ひとりでも行きます」
「僕も牛丼好きで。三食牛丼でもいいです」
声をあげて笑った。
「でも、ご病気にいいんですか?」
しまった。悟のペラペラ癖が移ったのかも。
「病気?……ああ、最近早退するのは父親が脚の骨折で入院してまして。それで」
隣の島から悟が見ていた。定時まで三十分を切った時、悟が来た。
「これから会議入った。先にサーレ行っといて。おれの名前で十九時で予約してるから」
西梅田に新しく出来たダイニングバーでのデート。
「うん、わかった」
「今日、ボジョレーの解禁日やから楽しみやな。飲み倒そう。お前の好きな牡蠣のパエリアも頼んだ。予約せんと食べれへんやつ」
「うん、ありがとう」
悟が会話を続けようとする。なんでいつまでも喋ってくるの?こっちはまだ仕事中なの、見ててわかるでしょ。
定時になった。帰り支度をしながら私は仕事を続ける村本さんに声をかけた。
「あと何分で終わりそうですか?もしよかったら松屋いきません?」
「え。清水さんと約束あるんじゃないんですか?ボジョレーって……」
「いいの。私は牛丼食べたいもん」
村本さんが訝しげに私を見詰めた。あーあ、そうよね。平気で約束破る女だと思っているよね。
少し思案し、画面を向いたまま、あと五分したら終わるので待ってて下さいと村本さんは言った。その横顔は、わざと無表情をつくっている、ように見えなくもない。
結局、この一言が私の一生を決定づけたわけだけど、決して下心があったのではない。あなたと牛丼食べにいきたい。ただそれだけやったのよ。
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