私が死んだ日

文字数 13,666文字

 昨日、私は死んだ。けれどここは別に死後の国ではない。あの世はないと知っている。ただ、私にそう教えてくれたヤツがいる。ソイツは笑って言っていた、死んだらそこで人間は終わりだと、あとは土に還るなり、灰になるなり、生者が好き勝手その思想に従うだけなんだと。別に天国や来世が否定されたからって悲しくなったりはしなかった。むしろ確信をもってその話が信じられるだけ私は安心していた。少なくともソイツが言ったことは間違いないと思えていたから。
 とにかく昨日、私が勝手に死んだと思い込んでいる日に、私は人間として終わりを迎えている。
 私はその日、ある男に呼び出された。そこは男がいつも日中の大半を過ごしている部屋とは違っていた。
 そもそも私やその男が暮らしている家と呼ぶべき建物は嫌気がさすくらい広かった。部屋がいくつあるのかなんて数える興味が薄れるほどだったし、子供心の好奇心を働かせて隅々まで探索してやろうとも思わなかった。ただ自分の生活に必要なだけの部屋の場所と道順だけを覚え、それを辿るだけの毎日だった。
 だから呼び出された部屋の場所を伝えられた時、それが聞き馴染みのない場所だったために少し戸惑った。幾度か建物内部の構造を思い返しているうちにそこがどんな場所だったかを思い出した。
 そこは公的な行事や儀式を行うための大広間だ。よく磨かれた石造りの床と壁、さらには不必要なほどに間延びした天井を備え、大きなシャンデリアが、背伸びして手を伸ばすだけでは絶対に届かないところに吊り下げられている。その明かり自体は部屋の広さに対して、些か心もとなく思えるが、薄暗く感じる程度の明るさが、その場で行われる様々な事柄の雰囲気づくりに一役買っていた。
 つまり、私たちが暮らしているこの建物を表現する言葉として「家」という単語はふさわしくない。数えきれないほどの無数の部屋に、行事ごとのための広間が存在する構造物、異様な広さを伴ったその空間。ここは「城」と呼ぶべき場所だった。
 そして城があればそこに住まう主はこう呼ばれることもあるだろう。その人物は私を呼び出し、また私を殺したものでもある。人々はそれを畏れ、敬い、また親しみを込めてこう呼んでいる。「王」と。
 広間に着くと、その奥、私が立っている場所よりも三段ほど上がった半円状の舞台の上に男は立っていた。後ろにいつも身のまわりの世話をしているメイドが一人控えている。軽く下を向いて目を伏せ、誰にも目を合わせないようにと努めている。それが彼女のポリシーのようだ。対して男はこちらが目を合わせると、それを待ちわびていたかのようにしっかりと見つめなおしてきた。
「なに? こんなところに呼び出して」
 この広間は存在を知ってはいたもののきちんと訪れたのは初めてだった。自分の発した声が思ったよりも響くことに驚いている。
「今日は茜の十五歳の誕生日だろう?」
「うん、そうだね」
「俺の認識として、お前はもう十分一人の人間として扱っていいと思っている」
 誰よりも自分が一番その誕生日という言葉に対して曖昧だった。生まれた日は自分で知ることができないからだ。加えて私はこの男に拾われて育てられていた。この男は本来の親ではない。私の血のつながった両親がどこにいるのかも今日まで教えられていない。最も私自身がそういったものに対して無頓着だったために、気にしたこともなかった。聞くところによれば城にある海に面した部分の、港として使われている場所で拾われたらしい。布にくるまれ、すやすやと眠っていた。波が穏やかで、風のない晴れた日だった。それが私の誕生日だった。そしてそこで私は「東西茜」という名を貰っている。そんな出自のせいだからだろうか。私は私を証明するための全てが借り物のように感じられていた。拾われ、誰でもないこの男に育てられ、与えられたもののすべては何処か私には縁遠かった。
 だからこの時も誕生日という言葉を理解しながら、それは頭の中をすり抜けていった。ただの厳然たる変えようのない事実に対して相槌を打っただけだ。
「そこで茜にはこれからのために仕事を与えるつもりだ」
 人は生きていくために仕事をするものだと知っている。少なくとも私はそう教えられていたし、城の外で生きている人々は確かにあくせくと何らかの職に就いていた。だから私も一人の人間として生きていくのであれば、仕事は必要になるはずだ。しかし、城の中に住まう人々は違っていた。確かに何かをしているという気配はしている。メイドたちは城に住まうこの男や他の人々の世話をしているのだからそれは仕事と呼べるだろう。そしてこの男や、メイドたちに世話をされ、もしくはこの男と対等の立場で話す人々もまた同様に何かをしているようではあった。私がそれらを理解することはできなかったが、それが通常人々が従事している仕事とは異なっているという認識があった。
 そもそもこの城に住まう者たちは外界から遮断されたようになっている。一つの星の上に城という大仰なものを建てながら、彼らの多くはその星で日々を営む人々と関わろうともしない。それでもそこに生きるものたちの頂点、実質的な支配者として君臨している。実際の人間たちの運営は人間自身に任せているが、何かがあれば城のものたちは動くし、脅威が迫ればこの星に住まう人々を守りもした。つまるところ、この城のものたちは人の見た目をしてはいるが、人とは全く異なる存在だ。実際彼らの中のある一人は笑い話をしながら、さも当然のようにそのことを自称していた。私たちは「神」であると。
 実際、その証明と言えるかはわからないが、彼らは人間が生きる上で避けられないあらゆる事柄を無視して生きることができている。例えば食事や睡眠だ。城の者たちは一部の例外を除けば食事も睡眠も摂っていない。そういったことをしようと思えばできるのだが、必要のないことを彼らは好き好んでしたりはしていない。加えて彼らは歳をとっていないように見える。老化という生物が生きる上で辿るべき時間の輪から外れているように見えるのだ。私が見てきたのはただの十五年という長さだが、通常の人間であれば身体的な特徴の変化が見られるはずだ。しかし彼らにそういった部分が現れているとは思えなかった。
 加えて身体能力は完全に人間からは逸脱している。私は正確には王と呼ばれる男意外にも二人のネフとルアという女たちから育てられた。基本的な教育は学校という機関ではなくルアからすべて教えられていた。そして時折、運動と称して、スポーツに始まり、通常、人間としてはほとんど不要とも言える戦闘技術までもが教えられた。その中でまれにネフが混ざるときがあったが、その時は苛烈を極めた。彼女自身は手加減をしていると言っていたが、それでもその異様な力に圧倒され、最初の内は死にかけるような経験を何度もした。骨が折れることは当たり前であり、血を吐き、時には人体の一部が欠損するということもあった。最もただの人間であれば生涯にわたって付き合うことになるようなそんな大怪我も、城に住まう二人の医者によってすぐに元通りにされてしまう。今もこうして五体満足に動き、立っていられるのもそのためだ。加えて、そんな環境に身を置いたためなのかは定かではないが、私自身もいつしか、ネフが行う暴力的な指導にも小さな擦り傷程度で済むようになっていった。
 結局私はそんな異質な環境に身を置き、異形のもたちに育てられ、まともに人間として生きていくことは不可能だと自覚していた。しかしかといって私はこの神と自称するものたちと対等であるかと言えばそういうわけでもない。環境に慣れているだけで、彼らもまた私からは遠い存在である。私はグレーゾーンに立つ中途半端な存在なのだ。だから仕事という言葉の意味もそれが何を指しているのかいまひとつ飲み込むことができなかった。
「相変わらずそっけないな。なにか聞きたいことはないのか?」
「別に、正直よくわからないし」
 それもそうかという顔を男はしている。腕を組んで右足を半歩下げると、明後日の方向に顔を向けた。かと思えば今度は対角線上に顔を左下に向け、組んでいた腕をすぐにほどくと視線だけをこちらに向けた。いかにも悩んでいる風だ。
「近いうちに俺専属の側近として『王の剣』という役職を作る。茜にはそれを頼みたい」
 唐突に『王の剣』などという聞き馴染みのない固有名詞を出されてもピンと来なかった。舌の上で転がしてはその言葉の子供っぽさにばかり目が行ってしまう。加えて専属の側近という言葉もまた不明瞭だ。今あの男の後ろで控えている女メイドのように、黒地のワンピースに白地のフリルのついたエプロンでも着てほしいのだろうか。だとしたら御免だ。そんな人の趣味に付き合うだけのようなことはしたいとは思わない。もっとも――。
「頼みたいって言うけどそもそも拒否権は?」
「ない、しかし茜が今考えているような仕事じゃないことは保障する」
 想像通りだ。いつだって頼まれごとはほとんど拒否できた例がない。それが重要であればあるほどだ。とはいえ人の心を平然と読み取って、私が聞く前に言葉を返されることも未だにもどかしい。この男に人の心に土足で踏み入ることが想像できるほど、できた心がないことはもう十分に知ってはいるが。
「話は分かった。それだけ?」
 自分でもわかり切っていることを聞き返す。これだけの事実を伝えるのならばいつも通りにこの男がいる部屋に呼び出すだけでいい。それをせずにこんな畏まった広間に呼ぶのだからそれ以外にも何かすべきことがあるはずだ。
「想像のとおりだ。さっきも言ったがこれは俺が茜に下す命だ。だからその就任式を同時にここで行うつもりだ」
 ある程度予想をしていた内容が返ってくる。式典にも使われているこの広間で、任命という単語が出た時点でここまで察しはついていた。だからそれには頷くこともせず、一呼吸を少し深く吸うだけで、肯定の意思を表す。
 それを見て取ってか男も舞台上からまっすぐに階段を下って降りてくる。傍らのメイドもそれに続いて階段を降り、先ほどと同じ距離間のところで止まった。相変わらず置物のように我関せずという態度を貫いている。男はもう一度こちらを見つめ、少し高い位置で私との視線が合う。近くなった距離感に緊張を感じ取り、私の方にわずかに力が入る。意図せず背中が張り詰め、急に自分の鼻息すら気になり始める。今までもある程度の近さまで接近して話すことはあったが、真正面にいることを意識すると嫌でも体が強張ってしまう。
「それでだな、今後基本的には恒久的にそれを全うしてもらうつもりだ。そのために茜の内部に流れる時間を取り払い、俺たちと似たような状態になってもらう必要がある」
 いよいよ私の頭の中は混迷の最中に完全に打ち捨てられてしまった。カオスとは今のこの脳内を表わすために創られた言葉なのかもしれない。時間を取り払うとはどういう意味だろうか。似たような状態とはつまりこの男やネフ、ルア、城に住まう者たちのように不老不死にでもしてくれるのだろうか。それだとしたら魅力的に思えなくもない。しかし、時間なんて目に見ることも手に取ることもできない概念的な尺度を、掃除機で塵を吸い取るような物言いでなくせてしまうことなのだろうか。それに何より無視しがたい言葉が、これよりも前に発せられている。「恒久的にそれを全う」とはつまり、この男は私を半永久的に使い潰すつもりなのではないか。私の命を掬い取り、ここまで育ててくれたという恩に近い感情はある。しかし、捨てられたのは私の意思ではないし、助けてくれと誰かに訴えていた記憶もない。たとえ知らず発していたとしても、勝手に育てたことに対する対価を要求されているのであれば、むしろ心外というほかない。そもそも通常の人間として生きることは難しいとわかっていても、こんな理解や共感から最も外れた位置にあるこの城で生きていくよりは相当にマシなはずだ。
 いつしか思考の負のスパイラルに嵌っていた。そこから見事に抜け出せなくなっている私を見透かしてか、男は私の肩に軽く触れることで意識を引き戻させた。
「いろいろ混乱することを言ってしまったようだな」
 当然だ。私は一を聞く前にそもそも十を知り尽くしているような存在じゃないんだ。しかもそれを理解しているつもりでいるような態度がさらに私を逆撫でる。勝手に覗いた心象を使って気遣うそぶりを見せるなど、盗んだものを知らん顔で届けにやって来る不埒者と一緒ではないか。
 しかしこの男は気にしない。こんなことを考えていることもわかったうえで、無視して話を続ける。
「そうだな、先に『恒久的に』という言葉について説明しておこうか。まず半永久的という茜の認識は正しい。言葉の意味通りだ。ただ奴隷のように俺が好き放題こき使うようなことはしない。人間的な労働基準にはきちんと則るつもりだし、俺たちと違ってできないことが多いということも考慮するつもりだ。もしかしたらその基準や規則自体にずれが生じるかもしれないが、その時は言ってもらえばきちんと歩み寄りもするつもりだ」
 なるほど私は鞭でたたかれるような心配をする必要はないらしい。だが、どうにもその考え方の始まりに問題があるように思えて仕方ない。私が無視できないのはどのくらいの密度で使われるかでなく、なぜ永遠に私を使おうとしているのかという点だ。私にできないことがあると理解しているのなら、この先ずっと使うというのは自らに余分な枷を付け加えていることにほかならないというのに。
「あの、聞けば聞くほどいろいろと疑問になることばかり浮かんでくるんだけど」
 とにかく口に出して自分の意思を伝える。これ以上会話らしくない会話を続けていたくはない。
「じゃあ、順を追って答えることにしよう。まず俺は茜に期待している。そして間違いなく必要だからだ」
「別に特別なことはできないって知ってるでしょ。人間らしくはないけど、神様もどきってわけでもないじゃない」
「だが茜が考えている以上に人間社会は厳しい。特に基準から下ではなく上に飛び出している者にとってはな。その他大勢より上に飛び出している者が、下位の組織構造体に馴染むのはきっといつまでたっても無理だよ。下に飛び出しているのならその至らなさを理解してくれるものが現れるかもしれないが、上に飛び出すと理解よりも先に遠ざけられることの方が多い。その点で言えば俺たちと共にいる方が充分普通でいられる。それと必要というのは、これらの言葉を補うためのお世辞文句じゃない。本当に必要なんだ、理解できないだろうが」
 私の居場所があること、私が求められている事実というのは、たとえそれが皮肉や憎むべき者からの言葉であっても、多少は好意的に受け取ることができる。少なくともここにはいていいのだという確信が持てるだけでも、自分が生きていくための足掛かりになる。同時に理解ができない安心感は、時として自分には完全に飲み込むことのできない喉のつっかえのようになって気になることがある。今は必要という言葉が私にとっての良薬でも、いつ効果の切れた麻薬を求める禁断症状に発展してもおかしくはない。だから、それらを同時に抱いてしまった私の心は、またカオスの最中に引きずり込まれて行こうとしていた。
「難しいか? まあいい、俺たちの言葉が理解できないということもこれからはあるかもしれないから。とにかく必要としているということさえ覚えていてくれればいい。
 とりあえずもう一つの疑問、時間を取り払うということについても説明しておこう」
 繰り返される必要という言葉がどうにも引っ掛かって取れてはくれない。もっとも私はこの男から見れば下位の存在なのだから理解できなくてもいいのかもしれない。とはいえ上位の存在が下位の存在に対して理解を示してくれるかもしれないというさっきの言葉を、もう一度思い出してもらいたいものだが。何にせよ今までも勝手な男だったのだからそれを求めることすら無駄だろう。
「これも茜の認識に大きな間違いはない。つまりは不老不死になってもらうというわけだ。寝食はまず必要なくなる上に、大きな怪我をしても瞬時に組織が再生を始めて元通りになるだろう。もちろん腹が空かなくなったからと言って、習慣化された食事という行為ができなくなるわけではない。睡眠も同様だ。もっともそれらは行為それ自体が一種の娯楽程度になるんだが」
 やはりこれをすることによってかなり肉体的なメリットが得られるということらしい。しかも都合のいいことにそれまでしていたことが全くできなくなるわけでもないという。願ったりかなったりと言えばそうだ。しかしすぐに起こりうる最悪のシナリオも思いついてしまう。
「ずいぶん都合がいいけど、何か危ないことはないわけ? すぐには何も起こらないとしても、長期的な精神面のこととか、正直想像がつかないんだけど」
「まあ、きっと大丈夫だろう。肉体の変化に伴う副作用はないだろうし、長期的な部分で見ても俺としては問題がないと認識している」
「その根拠が聞きたいんだけどさ……」
 言葉を続けようとしてやめた。きっと何を言っても無駄だ。今日も、そしてこれまでもそうだった。この男は私が理解できるようにと最大限の言葉を使っているんだ。だからそれ以上の私にとっての完璧を求めたところで返される言葉はきっと似たようなものばかりだ。
 思考の網を潜り抜けてもう一度目の焦点を男に合わせた。急激にピントが合い、男の瞳の奥を通って頭の中まで見透かせそうだと思った。でも覗いたところで私が理解できるものなんて入っていないだろう。そう考えると目を逸らしたくなった。目線を石造りの壁に向け、その濃淡と模様に何らかの見知ったシルエットを描き出そうとした。複雑に絡み合う糸屑みたいな紋様は何かを象ろうとするたびに横やりを入れてくるように邪魔をする。まるで私の今の頭の中みたいじゃないか。答えが出そうもない疑問を生み出しては漂わせ、さらなる疑問が湧いてくる。ぐちゃぐちゃになって掠れたり、ほつれたりして、もう何が何だかわからなくなる。これはカオスというより散らかったがらくた入れだと思った。
 男はしばらく黙っていたようだった。何やら考え込んでいる私を慮ってのことかもしれない。それかそんな様子が面白おかしくて、ただ眺めているだけかもしれない。どちらかと言えば後者の方がありそうだ。この男には不必要なユーモアが備わっているようだったから。
しかし、静寂は意外な言葉で破られた。
「いや、根拠らしいものはあるんだ。ただその詳細については明かせない。まあ、なんだ、察してほしいってやつだ」
「慰め? それとも励まし? どっちにしても珍しいじゃん」
 率直な感想が口を突いて出た。心を読み取ったのは間違いないだろうが、こんなにも焦点の合った気遣いの言葉が出てくるとは夢にも思わなかった。
「茜にとって大きな転換点になることは間違いない。それを問答無用で押し付けているんだ。いつもより気に掛けるさ」
 口説き文句であれば結構な代物だろう。少なくともそれまで知らなかった意外な一面を見せられているようなものなのだから、その差というのは印象づきやすい。
 とはいえそもそもこれは私が望んですることでもない上に、拒否することもできないものだ。これまでの十五年とは比べ物にならないほどの時間を過ごすのだから、真剣になりすぎても過剰ということにはならないだろう。これからの私にとって歩み続けるしかない道であるのだから当然のことだ。
 そこまで考えて私は自分自身がこの強制の宿命を受け入れ始めていることに気が付いた。望んでいないというのはもはや過去の事実になり始めており、すでにこれからの道筋に対して自分がどのように足を踏み出すべきかを考え始めている。先ほどまでぶつくさと文句のような言葉を反芻し、疑問という形で不満にしていたものも、いつしか自分を納得させるための補強材料として使い始めている。ゆらぎの中にあった心はもうとっくに決心を固めていたらしい。どうにもこの順応する心というものが私の最も優れた点であると言えるだろう。だからこんな異質なものだらけの城で生きてくることができた。そしてきっとこれからもそうであるに違いない。生まれてくる場所も育てられる者も選べないのなら、少なくともそこでできること、もしくは辿るべき道に納得を重ね続けるしかないのだ。
「いいよ、とにかく納得はしたから。受け入れる」
「さっきよりも前向きだな」
「こういうのは気の持ちようでしょ? どうせ選べないんだからさ」
 そうだな、と言うように男は息をした。男も多少はいつもより繊細になっていたらしく、溜飲が下がったように少し張っていた胸を沈めた。肩から力が抜かれ、手指が僅かに動いた。そして一歩下がり、これより任命式を始めると言った。
 式はかなり簡素なものだった。誓いの言葉のようなものを男が述べ私がそれに応えた。言葉はそれなりに重く格式ばったものを感じたが、別段特別なことを言っていたわけでもない。私の覚悟と誠意を改めて問い、それらに対して一言返事をするだけだ。だからきっとそれらに大きな意味は含まれていなかったように思う。ただ形式としてそれを取る方が見栄えが良いというだけのものであり、いつからか無駄だと言われながらも続いてきたようなそんなものだ。それ以上にその後に行われた儀式の方が重要だったのは間違いないだろう。
 簡素な宣誓が終わると男は私に床に両膝をついて立つように言った。そして男のみが先程よりも近い距離までやってきた。軽く顔を上げたところで男とは目が合う。表情は先ほどよりも柔らかくなっていたが、真剣さが欠けているわけでもなかった。ただ私の緊張をほどくようにそのままでと言うと、男は手を差し出してきた。筋肉質ではなく、すらっとした細長い女性的な五指と、ピンクで卵型の何の飾りもない爪を携えた右手が近づいてくる。それはそっと鎖骨の少し下あたりに触れると、ゆっくりと手の甲から手の平の方を上に返すようにしながら喉のあたりまでをなぞった。温度感を感じない感触はくすぐったくもなく、ただ滑るようにし、わずかな窪みの軌跡を肌に描いた。指が離れるとなぞられた部分の中心、首の付け根より少し上あのたりが温かみを帯び始める。皮膚の内側から豆電球のような弱い光が発せられ、その現象は数秒程度続いた。温かみがその光から体になじむように全身に広がっていくのがわかった。私の中に入り込んできたそれらは末端にまで完全に到達すると、一度深い呼吸を私に要求した。その一呼吸が終わりの合図であったようで、男はもう立っていいぞと言った。いつの間にか閉じていた瞼を開くと、男は先ほど宣誓をした位置まで戻っていた。脚に力を入れ小さく勢いをつけて立ち上がる。その時の体は少し軽くなっている感じがしたが、それ以外は特に変わりなかった。思考は明瞭だったし、視覚と聴覚は男をきちんととらえていた。自然と、手を握っては開いたり、脚をストレッチでもするかのようにばたつかせてみたりしたが問題はなかった。自分の体の機能の全てを再確認するような行動が終わると、もう一度落ち着きを取り戻すために姿勢を整えた。
「問題はないか?」
「うん、大丈夫」
 単純だが、最もわかりやすいやりとりでその無事を確かめる。
 私もようやく体の力抜いて自然な姿勢になることができた。張り詰めていたものがほどけ始め、この場の空気を味わう余裕が生まれ始める。渇ききっていた口内が唾液の生成を再開し、それをごくりと一つ飲み込んで空気と共に喉を下る。寒くもなければ暑くもない広間の空気は嗅ぎなれた部屋のものとは違っても同じ建物内であることを思い出させた。
「確かに、大丈夫そうだな」
 男も私の余裕ができた様子に気づいているらしい。広間全体にまで伝播していた固い空気は融解し、同時に男の表情にもいつもの気楽さが戻りつつあった。
「それでだな、これでとりあえず式は全て終わりだ。だがそれとは別に渡すものがある」
 そういって中空に手をかざすとそこに細長い実体が浮かび上がり始めた。何もなかった空間に突如として出現したそれは、長さが私の身長ほどあるように見えた。それは僅かに湾曲した棒のようなものであり淡い紫色をしていた。いくつかの所に黄色の装飾が施され対照的な色合いでありながらアクセント程度にまとまっている。そしてその棒の両端から少し内側のところに同じく黄色の紐が結び付けられている。その棒を持ってまた私に歩み寄り、差し出した。
「餞別だ。お祝いみたいなものだよ」
 それは想像していたよりも軽かった。手に取ってみてもまるでずっしりとはせず、むしろプラスチックのような簡素さを感じた。手触りもなんだか玩具みたいでどこか腑に落ちなかった。しかし、感触や重さは想定外だったものの、その形状から渡されたものは予想ができていた。おそらくこの辺だろうとアタリをつけて、施された黄色の装飾部に継ぎ目を探した。すぐに見つかり、それを挟むように両手で横に持ち直し、外側に向けて引いた。
「やっぱり刀だ」
 白銀の刀身がすらりと顔を出している。私の赤い髪が写りこんだせいなのか、刀身が朱みを帯びているように見えた。
「とある鍛冶師に特注で造らせたものだ。茜以外は扱えないような設計になっているから、他人握らせるようなことはするなよ」
「どういうこと? 引き抜けないとか?」
「いや、引き抜くことはそれこそ子供でもできる。だがひとたび茜以外の者がそれ抜けば、刃が向いている先に斬撃を飛ばして所構わずバラバラにしてしまうんだ」
 どうやら想像以上に物騒な餞別を貰ったらしい。しかし、引き抜くだけで辺りを斬りつける、とは一体どんな仕組みになっているのか。刃に特殊な術式が埋め込まれているとか、そういった類のものなのだろうか。
「ただ単に鋭すぎるだけだ」
 余計にわからなくなる。鋭すぎるというだけで、そんなにもそこら中を傷つけるようなものになってしまうものなのか。そういうものであれば私にも扱えるとは思えない。引き抜くだけで切り裂く刀など私にどうしろというのか。一応一通りの武器全般について、扱える程度の知識と経験はある。しかし、教えられた中にそんな常軌を逸した切れ味を持つ剣などはなかった。
「これほんとに大丈夫なの?」
「ああ、その証拠に茜がさっき少し刀身を覗かせた時に何も斬れなかっただろう?」
「あんなちょっとでもそんなに?」
「茜以外が持つ場合は、だよ。特注品だって言っただろ? 安全装置みたいなものさ。だから安心して使っていい」
 一体何を想定したらそんな物騒な安全装置がつけられるのか。思わず変に口元が緩んで呆れてしまった。だが、刀自体はかなり上等なものだろう。鍛冶師についてはそんな上等な知り合いはいないため、名前を聞いてもおそらくは知らないだろうが、それでもほれぼれするほど美しい刀身がその価値を示していた。
 しかし、手に持っているこれは、金属を加工したものであるということを忘れさせるほどに軽い。完全に引き抜き、その刀身の輝きを目の当たりにしても、腕に伝わる重さにはなれなかった。軽く振るうような動きをしても、玩具を振り回しているみたいにあっけない。ここまで違和感がまとわりついてくると、刀の機能自体に疑念が浮かび上がる。
「妙に軽いけど、実際に使えるの、これ」
 男は頷き、ここで試してやることはできないがな、と付け加えた。確かにそうだ。試し斬りに使えるものはここにはない。城の地下であれば、戦闘訓練などにも使われる大空間がある。これが終わったら行ってみようと思い、刀の真偽については考えるのをやめた。
 刀を括っている紐を捕まえて肩から腰にかけて回した。このために付けられているのだろうという予想も、これまたピタリと当てはまった。長さを調整する必要もなく、体にフィットしている。刀に重さがない分、肩へ食い込むようなこともない。このまま引き抜くことはできるのかと思い、柄に手をかけた。私の身長ほどの長さだ。引っ掛かって抜けなくなるだろうと思ったが、そんなことにはならなかった。鞘の横側から、引き裂くようにするりと抜ける。肩から外して鞘を確認したが、どこも斬れていなかった。
 それを見ていた男は私の困惑を察して説明をした。どうやらこの刀は私の引き抜くという意思さえあれば、鞘については障害とならないらしい。私がその時々で引き抜く動作に最適な方向へと、自動で鞘をすり抜けるのだという。刀を鞘に戻すときも同様だ。私が行う動作に対して適切になるように設計してあると言った。
 私は納得をするようにまた鞘へと刀を戻し、もう一度肩に掛けなおす。黄色の紐は抑えめの色合いで、目立たず服に馴染んでいる。ふと、紐の結び目が胸のあたりにあることが気になった。一本の紐で作らずに、二本をわざわざ繋げるようにして作ったのだろうか。手で触れてみると堅く結ばれていて、簡単にほどけそうにはない。しかし、何かの拍子にほどけるようなことがあっては困りものだ。指で転がし、眺めていると男が口を開いた。
「やっぱり気になるか、その結び目」
「うん、ほどけないかとか考えちゃう」
「だがそれは目印なんだ。それを手で握って少し下に引いてみるとわかる」
 言われた通りに結び目を握り、紐を体に這わせると、わずかに感じていた刀の重さすら消えた。結び目を握っていた手の中にも何もない。先ほどまで刀があった背中のあたりをまさぐってみるが、感触は着ている服の布ばかりだ。肩越しに覗いてみてもそこには何もなかった。
「それも刀の機能だ。いちいち使うときに持ち出す必要はない。そうやって結び目を引けば簡単に消える。使うときは逆に結び目があった辺りを握って上げてやると現れる。便利だろう?」
 確かに便利だが、さっきまで身に着けていたものが消えるという感覚はどこか気持ち悪かった。まだ刀が背についているような気がして、背後ばかり気になる。男はそれもじきになれるだろうと言った。
 私は結び目を思い出して柔らかく握った拳を引き上げた。背中に刀が戻った感触に安堵を覚える。そこにものがあるという実感は、私の存在への証明に繋がっているような気がした。刀を肩から外して見つめる。きちんと向き合うとこれが武器であるということを思い出す。餞別という言葉によって華やかなベールがかけられていたが、いざこの物体を自覚すると事実は抗いようもなく入り込んでくる。武器という物騒なものでも私が安心を感じるということに、自嘲のようなものが生まれた。これでは私が寄りかかるだけだ。それはきっと危ない。こんなものに自分を頼るようになってしまっては、それこそ人間として破滅してしまう。だからせめて対等であるために名前が欲しかった。名前があるだけで、それは私の所有物であるという前に、一個の独立した輪郭を得ると思ったからだ。
「これ、銘はあるの?」
「『朱銀』だ。わずかに刀身が朱いだろう?」
 私の目に映った色は錯覚ではなかったようだ。本当にこの刀自体が朱みを帯びている。私の目の色、髪の色と同じだ。「朱銀」という物体の輪郭は、たったそれだけの共通点だけでまた融けだしてしまうように思われた。そんな考えを振り切って男の方に向き直る。
「もう他に用はない?」
「ああ、呼び出したのはこれで全部終わりだ。茜からは何かないか?」
 首を振って意思を伝える。伸びた前髪が揺れ、視界の先でちらつく。もう随分と髪を切っていない。時間が止まっているのだから、もうこれ以上伸びることもないのだろうか。
「そうだ、ひとつ伝え忘れていたことがあった」
 私の横を通り過ぎ、広間の出口に差し掛かった辺りで男は振り向いた。眼で追っていたために、自然とその顔を見つめることになる。
「明日の午前、このことについて人々にも公表するつもりだ。会見のようなこともする。そこに茜も出てもらうから、心の準備くらいはしておいてくれ」
 最近この城はだいぶ俗っぽいことするようになったと思ってはいたが、いかにもらしいことまでするとは驚きだ。
 そもそも城はもともと人間社会とは完全に切り離されていたらしい。個別の関わりはあったものの基本的には手を出さないというスタンスだった。しかし、私を拾う少し前に王と呼ばれる男は自分たちの存在を公表し、そしてある出来事をきっかけに人間たちに受け入れられるようになった。以来、城はある程度人間に対してもオープンな存在にはなっていた。それでも、覚えている限り、ここ数年の城の人間に対する積極性は勢いを増している。だからこその会見なのだろうが、正直そこまでするのは一体何のためなのだろうか。
「原稿も用意してあるし、質疑応答を行うつもりはない。進行はルアがするから、茜はその指示に従ってくれればいい」
「わかった」
 決まり切った返事を返す。これまでまともに人前に出たことはないが、不安要素は他にはなさそうだ。別に私が何かを憂う必要はない。ただ教えられたとおりの事をするのはもう慣れている。
 男はいつの間にか消えていた。広間の出口は、あんぐりと口を開けて私が去るのを待っている。広間の明かりはついたままだが、消し方も知らないから、このままでいいのだろう。たった一人減っただけなのに、そこは妙に広く感じた。かけている刀の紐を自然と握っている。結び目を探し、無意識に引いた。肩からわずかばかりの重しが消える。ここにもう用事はない。広い空間に背中を向けて、出口へと向かった。足取りが来る時よりも重いのはきっと刀のせいだ。
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