君と僕の食卓

文字数 11,970文字

 彼女が目を丸くする。
「すごい!お料理がとてもお上手って聞いてましたけどほんとにすごいですね」
「そうでもないよ」
 僕はサラダやてんぷら、豆乳から作った豆腐の大鉢の並ぶ食卓に取り皿を並べた。
「僕も難しそうだと思ってたけど、やってみると意外と簡単でね」
 蒸し上がった大きなスズキの上にのったたっぷりの白髪葱の上に、僕は煙を上げる熱いゴマ油を注ぐ。
 じゅっと音を立てて、葱がくたりと柔らかくなった。
 そう大袈裟な料理でもないが、この時のインパクトだけはなかなかのものだ。
 その上に、小さくちぎった大葉を散らし、僕は彼女に出来上がったばかりの清蒸をすすめる。
「いい匂い……これ、どこの国の料理ですか?」
「日本風にアレンジした中華料理らしいよ。パクチーが苦手でね、青シソに換えて作ってるんだ」
 僕は彼女の反応に気を良くする。
「熱いうちにどうぞ」
 女性のいる食卓なんて、本当に久しぶりだ。
 しかも、この一人では広すぎる我が家で、僕が腕を振るってのもてなしの夕食。
 女性がいると、ふわっと場が明るくなる。
 僕は彼女にビールを勧めた。
「あ、わたしお冷をいただいてもいいですか……すみません」
「え?」



**************************************

 色褪せながら、光を失わない思い出はここから始まる。

 僕はチャイムを鳴らしてしばし待つ。
 ドアスコープの向こうが暗くなり人の気配がしたので、僕はドア越しに声をかけた。
「あの……こんにちは」
 尻すぼみにぼそぼそと名乗って、隣の部屋の者です、と付け加える。
 ドアチェーンの隙間から顔を覗かせたのは不機嫌そうな隣人だった。
 少し血色が悪い、痩せぎすで背の高い女性。
 もちろん表札もないので名前も知らない。
 突然若い男が訪れてくれば警戒するのは当然だ。
 でも、今までのんびりした田舎の職場にいて、人事異動でこの街へ来たばかりの僕は、この人怖い、と思った。
「何か用かよ」
 彼女が僕を睨みながら男のような荒い口調で尋ねた。
 僕は提げていた大きなビニール袋を胸の前に両手で捧げ持つ。
「あの、僕釣りが趣味で……たくさん釣れたんでおすそ分けをと思って」
「へえ。何釣ったんだ」
「小アジ……なんですけど」
「ふーん。じゃもらっとくわ」
 チェーンの間から手が出てきた。
 指の長い、かたちの綺麗な手だった。
「おすそ分けって量じゃねえな。多すぎだ」
 小アジが詰まったビニール袋を渡すと、ぶつくさ言いつつ彼女はありがとな、とドアを閉めた。
 ものもらっときながら文句言うなんて礼儀のなってない人だな、と嫌な気分になりながら自分の部屋へ戻ろうとしたとき、もう一度ドアが開いた。こんどはチェーンは外されている。
「おい、お前私の名前知ってっか?」
「え? いいえ」
「有沢弓ってんだ。よろしく」
 僕ももう一度名乗って、おずおずと頭を下げた。
「よろしくお願いします」 
「あ~敬語とかいいから。お前、魚釣るんだったら料理にも詳しいんだろ? おすすめの食い方とかねえのか?」
 初対面での「お前」連呼に面食らいながら僕は答えた。
「りょ……料理はしないんで」
「は?」
 弓と名乗った女性は長い前髪をちょいと左へかき分けた。実に目つきが悪い。
「僕は釣るのは好きだけど、料理はその……今まで田舎の実家住まいで、母が全部……」
「それで始末に困って隣に全部押し付けたってわけか」
 その不躾な、棘のある言い方に僕は少しむっとした。しかし事実だ。
「さっき自分でやってみたんだけどぐちゃぐちゃになって……」
「ああ、不器用そうだもんな」
 弓はにやにやと笑った。僕は憮然とした顔をしていた、と思う。
「じゃあ、後で」
 ドアが閉まった。
 後でって??

 その一時間後、チャイムを鳴らさずどんどんとドアを叩く音に僕は跳び上がるほど驚いた。
 ドアスコープで覗くと、色気も何もないノベルティらしきエプロンをつけた弓だった。
 アジフライがたくさんのった網付きトレイを持っている。
「釣るのって、生き物を殺すことだろ?ちゃんと食ってやらねえとただの残虐行為だ」
 こうして魚を自分で捌けなかった僕の食卓に、揚げたてのアジフライがのった。
 さらにその三日後、冷凍された小アジの干物が届けられた。
「あんなにたくさん押し付けられても、私一人じゃ食えねえよ。律っちゃん、責任取れ」
 この時には、僕の心は胃袋ごと弓に持っていかれていたんだと思う。

 引っ越しの時の挨拶回りにも誰も顔を出さず、新聞受けにタオルを突っ込んで終りだったので、弓が顔と名前を知った初めてのご近所さんだった。
 僕の一つ年上で、態度も口も荒っぽいのに意外と律義で優しい。
 目つきは悪いがよく見るとなかなかの美人だし、すらっとした長身、細い腰つき、まるでモデルかなにかのようだった。なのに、驚くほどおばちゃん臭いところがある。風邪をひいて喉に葱を巻いていた時にはその姿と臭いに絶句した。
 彼女はフリーターで、服のリフォームの下請けも時々しているらしい。
僕は安普請の薄い壁の向こうに、弓の部屋の洗濯機や掃除機、そしてミシンのモーター音やTVの音声を聞く。
 たまに弓が歌っていることもある。
 換気扇や窓から流れてくる弓の料理の匂いや、湯と石鹸の匂いを嗅ぐと、郷愁に似ているけれどそれとははっきりと違うものがやってきて僕の胸を引っ掻き回す。
 もちろんそれまでにもそんな気持ちになったことは何度もあったが、知らない街でひとり暮らしを始めたばかりの僕には一層体に染みこむように切なく感じられた。



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「おいしい!!」
 素直な彼女の歓声に、僕はほっとした。
 手料理で女性をもてなすなんて初めてで、とても緊張していたから。
「これ、今朝釣れたやつなんだ。新しい魚じゃないとおいしくないんだ」
「すごい! 今夜のためにですか?」
「そう。釣れなかったらどうしようかと思ったよ」
 彼女は嬉しそうに笑い、よく食べ、賑やかに喋る。
「わたし、魚は大好きなんですけど料理するのはなんだかハードル高くて」
「僕も、初めて捌いてみた時はすごかったよ。小アジだったんだけど内臓も骨もぐちゃぐちゃになって」
「でも今はこんなにお上手じゃないですか……これ、作り方教えていただけませんか」
「ああ、いいよ」
 料理に関して僕のバイブルとなっている古いファイルをキッチンの棚から出して、彼女に渡した。
 他人に触れさせたことのなかったそれを、彼女に手渡す一瞬の逡巡。
 ぴりっと胸の奥が痛んだ。
「……ほら、ここ」
「後で書き写して帰っていいですか」
「もちろん」
 彼女は他のページも繰って感嘆の声を上げる。
「これ、宝物なんですね」
「うん」
 人に馴れ馴れしくされるのはこの歳になっても好きじゃない。
 だけど彼女が、僕に好かれようと一生懸命振舞っているのを見るのは気分がいい。
 人懐こくて、明るい。この娘なら大丈夫。
 そう思った。

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「またかよ」
 弓が悪態をつく。
「こんなに釣ってきやがって……料理できねえくせに」
「だって君の作るものは何でも美味しいから。また何か作ってもらおうと思って」
 クーラーボックスの一杯のひしこ鰯に、弓が顔を顰める。
「いつもいつもこういう雑魚みてぇなのばっかりよぉ……たまには鯛とかハマチとか釣ってこいよ。これ餌にすりゃ釣れんじゃねえのか」
「だって沖釣りは船酔いするし、磯釣りは危ないし」
 僕は堤防や港湾釣り専門だった。
 人より大きな体を小さな折りたたみ椅子の上にちんまり折り曲げて、何も考えずぼんやり海を見ている時間はとても気が楽で、人と向き合って何かするのよりずっと穏やかな気持ちになれる。弓をおばちゃん臭いと言いながら、僕も相当年寄り臭い。
 そして、釣果を持ち帰って弓に料理してもらうのが何よりも楽しみだ。
 ペットボトルや牛乳パックで作った謎の雑貨や買い物袋が被せられたゴミ箱など、生活感あふれる彼女の部屋はおしゃれとは無縁だ。だけどとても居心地がいい。
 その部屋へクーラーボックスを持っていくと、こうして文句を言いながらもちゃんと料理してくれるし、丁寧に教えてもくれる。
「こうするんだ」
 短く切った梱包用のPPバンドを二つ折りにし、輪になった部分を使ってじゃりっとひしこ鰯を下ろす。
「これなら律っちゃんにもできるだろ?」
 そのまま玉ねぎのスライスとわさびポン酢を添えた刺身に。
 下ろさないものをサクサクのてんぷらや梅煮に。
 はては、オイルサーディンやアンチョビの瓶が僕の部屋の冷蔵庫にやってきた。
 ときどき、弓はワインだのビールだのを手に僕の部屋へ押し入ってきて、ふたりでTVを見ながらレモンをたっぷり絞ったサーディンと野菜をパンに挟んで食べたり、干物の骨でだしをとった寄せ鍋で日本酒祭りもした。
 この雰囲気は絶対に壊したくない。だけど、もっと近くにきてほしい。
 だから出来るだけ深刻な調子にならないように努めながら僕は言う。
「弓、僕とその……ちゃんとつきあおうよ」
 すると弓はにやっと笑っていつもこう返す。
「つきあってやってるだろうが」
 弓は僕のことを何にも知らない田舎者扱いし、弟のように見ていた。
 一つしか違わないのに年上ぶって、気紛れに面倒を見てくれた。
 だけど僕が望んだのはそんなのじゃなかった。

 その日は、初めて弓を釣りに誘いだすことに成功した。

 そう言う日に限ってボウズ(一匹も釣れないこと)で、何度ポイントを変えても無駄だった。
 仕掛けだの投げ方だのいろいろとレクチャーした僕は恥ずかしくて多弁になる。
 今日はなんだか様子がおかしいことを何度も何度も言い、潮の干満や天気や他の釣り人のせいにして、その情けなさが僕の気分を更に滅入らせた。
 僕は弓に、青緑色の海、潮の匂い、テグスに伝わる生きものの躍動、水から上がった時の銀鱗のきらめきを感じてもらい、僕の好きな時間を一緒に楽しんでほしかった。
 つまらなげな顔をさせたくない。だからこんなに必死になって僕は喋っている。
 その中で後悔する。
 やっぱり一人で来ればよかった。
 弓には、釣れた魚だけ持っていけば……
 しどろもどろな僕の話を静かに聞いていた弓は言った。
「律っちゃん、私は今すごく楽しいぞ。だから少し黙ってろ」
「でも釣れなきゃつまらないだろ?」
「いいじゃねえか釣れなくても。こうやって、波の音聞いてると落ち着くし。なべて世はこともなしって感じでさぁ」
 彼女は立ち上がって大きく伸びをすると、持ってきた大きな保冷バッグから大きな包みを取り出した。
「ちっと早いが飯にすっか。腹が落ち着くと気も落ち着くぞ」
 変な気取りや気負いがなど微塵もなく、しかし彩りや持ち歩いた時の崩れに配慮して詰められた定番のおかずに安らぎを覚える。
 僕は他人が握ったご飯など鳥肌が立つほど嫌な性質だったが、弓のおにぎりは他のだれが握ったのよりもおいしい。
 彼女の言うとおり、胃が落ち着くと浮足立っていた自分がどこかへすうっと消えていった。日が傾くまでのんびり彼女とお互いの子どもの頃のことや昔の恋の話をし、仕掛けを交代で見張りながら車で仮眠をとり、また二人で他愛無く様々なことを話す。
 アパートの部屋を行き来して二、三時間一緒に過ごすことはあったが、この日は初めて、お互いにゆっくり自分のことを話し、相手のことを知った。
 夕方、アパートへ帰ってそれぞれの部屋へ戻ろうとするときのことだ。
「じゃあまたなー。今日は楽しかったぞー」
と語尾を間延びさせてふざけながら、弓が僕に背を向けた。
 その姿に、何だかひどく寂しくなった。一人になりたくなかった。
 僕はそっと弓に近づいて力任せに抱き締めた。
 クーラーボックスを肩にかけたままだったので、強か彼女の脇腹にぶつけてしまう。
「痛てっ」
 弓は顔をしかめ、僕を見上げる。
「何だよ急に」
 その口調と僕を男として見ていない態度が前から気に入らなかった。
 僕は弓を強引に僕の部屋へ引っぱりこんだ。

 ベッドの中で、彼女の右脇腹にさっきぶつけてしまった痕が青痣になっているのを見つけて謝りながらそっと撫でると弓は一瞬息を詰め、ゆっくりと細く吐き出した。
 僕らはもう充分大人だったし、もちろんお互い初めての相手でもない。だけど僕は緊張したし、弓も最初だけ痛がった。
 いつも飄々と人を食ったような顔をしている弓が目をとろんとさせ、短く途切れる高い声を上げる。
 僕は言葉と身体で絶え間なく気持ちを伝え、性急に返事をせがんだ。
 今思えばよろしくないやり方だったと思うけれど、彼女が達っしそうになるところで腰を引いて、僕はOKと言わせることに成功した。
 一日で初デートからプロポーズまでのすべてをこなし、我ながらなかなかの仕事をしたものだ。よくやった。
 朝、素面に戻った弓に詰られはしたが、僕は頑として撤回を認めなかった。
「律っちゃんはそんなやつだったのか」
「うん、僕はこういうやつだよ」
 僕はただ弓と暮らす日々が欲しかった。

 それからは外堀を埋めようと必死だった。
 もちろん何度言われても避妊なんかしなかった。
「これは馬鹿には見えないゴムなんだ」
と言うとお前は裸の王様かと殴られた。
 ばたばたとスケジュールをやりくりして郷里の両親や兄夫婦に会わせたり、ほとんどだまし討ちのように宝石店へ連れて行ったり。
 左手を顔の前にかざしてゆっくりと角度を変え、薬指の指輪を見つめる困り顔の弓に、僕は後ろから抱きついて頬ずりした。
「返品不可だからね」
 それでもまだぐずぐずと往生際が悪い弓のために、家も買った。
 中古で築40年近いが、耐震診断も水回り・配管検査も受け、しっかりした作りの小さな丘の上の家。
 道路に面さず、建築基準法上問題がある家で資産価値はとても低く、建て替えが絶対に許可されない物件だが、リフォームは認められているので僕としては何の問題もなかった。
 雑木林の小道をてくてくと歩いて出入りすることになるが、木々の隙間から遠くに海が見え、僕は弓もここが気に入るはずだと確信していた。
 ここに初めて弓を連れてきた時の困ったような笑ったような顔が忘れられない。
「何でこんな家買うんだよ。虫うじゃうじゃだぞ?ムカデとかカマドウマとか。苦手だろ?」
「だって、僕の歳と収入で庭付き一軒家は普通買えないよ。ここ、奇跡の物件だと思わない?」
「まあそうだろうけどよ……随分律っちゃんも思い切ったもんだ」
 開けた窓から聞こえる風の音や鳥の声にしみじみと聞き入っていた弓が呟く。
「仕方ねえな。肚くくるか」
「指輪つけてるくせにまだくくってなかったの?」
「指輪は突っ返せるけど家はなぁ」
 そう言いながら、家の中や庭のどこに何を置くか、いろいろ考えている様子の弓は楽しそうだった。
「ここなら庭でバーベキューとかできるな。燻製も作れる」
 家庭菜園だって、花壇だってここなら自由だ。
 子どもができれば、ブランコやシーソーだって置けそうだ。
 夕暮れが迫り、電気もガスもまだ止まったままの薄暗い家の中、これからリフォーム業者を入れてリビングにする予定の広い板の間に、小さく鼻歌を歌いながらそこここを見て回っている弓を呼んだ。
「弓、ちょっとおいで」
 コートを脱いでざらざらした床の上に広げ、その上に弓をそっと座らせると僕は彼女に覆いかぶさった。
 ここは僕の家。
 もうすぐ君は僕の妻になって一緒にここで暮らす。
「律っちゃん」
「ん?」
僕がゆっくり身を離したとき、弓は仰向けのまま仄白い腕を上げ、窓を指差した。
「ほら、月が昇ってきた」
 いつの間にか月が出て、窓から斜めに僕と彼女を照らしていた。
 その時の静かな弓の顔はとても美しかった。少し怖くなるほどに。
 もう一度肌を重ねると、弓は月を指していた手で僕をしっかり抱きしめた。
 僕は幸せでいっぱいだった。


*********************************************************


 そして今、彼女の左手薬指にもダイヤの指輪が輝いている。
 よほど嬉しいのだろう。彼女は食事中も時折その指輪に目を遣り、微笑む。
 そして、無意識に下腹に手を当て撫でている。
 まだ告げられていないがこれは…………。
 僕はほうじ茶を彼女の前に置いた。
「ほうじ茶は鉄分不足の人にもいいんだ。妊婦さんとか」
「そうなんですか」
「普通のお茶だとね、鉄分を吸収しにくくするらしいんだけどほうじ茶は大丈夫なんだって」
 僕はほんのちょっとカマをかけるつもりで言った。
「君も体を大事にしないとね」
 彼女はぱっと頬を紅潮させて俯く。
「あの、もしかして……ご存知でしたか」
「何となくそうかもしれないと思って」
「すみません……」
 女性側から神妙な顔で謝られ、僕は慌ててこう言ってしまった。
「こちらこそ……不調法者で」


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「律っちゃん、ほうじ茶」
「はいはい」
 弓のお腹が膨らんでいる。
 妊婦は10キロ程度簡単に太ると聞いていたが、それだけ肉がついてももともと痩せていたので腹だけがせり出して見える。
 胸もずいぶん大きくなり、巨乳記念に写真を撮ろうとしたらやっぱり殴られた。
 つわりがひどかった時期に、僕は弓に教えてもらったり初心者用の料理本を読んだりしながら台所に立ち、自分なりにアレンジをしたりもするようになった。
 そんな僕の教科書は、弓が僕のために彼女の料理を纏めて書き綴った一冊のクリアポケットファイルだ。
「ノートだと、濡れた手で触るとしみだらけにになるからな」
 ファイルを僕に渡しながら、弓はそう言った。
 つわりが治まると、また弓は家事に精を出し始めたが僕も手伝い、いろんなことを教えてもらう。一人暮らしの時大抵のことはできるようになっていたが、よくまあこんなに、というほど様々な裏技があるものだ。
 32週頃から、弓はお腹の子に何もかも圧迫されて呼吸も苦しそうになり、食事の量も減ってきた。時々激しい頭痛を訴えるのが心配だった。
 弓のお腹の皮膚の下で、弓ではない生き物がごろんごろんと動いている。
 それは半分は僕の身体と同じもの、残りは弓の身体と同じものからできている。
「あとちょっとだね」
「おう」
 もともとぎすぎすした印象を与えがちだった弓の顔も、微妙にふっくらとして和らいで見える。
「弓は可愛いねえ」
「腹ぼての年上女に何言ってんだ」
「このよちよち歩いてる感じがいい」
 検診に付き添って産院に向かいながら、僕は弓の手をしっかり握っていた。
「転ばないでね」
 そして月満ちて、弓は9時間かけて小さくて真っ赤でふにゃふにゃした男の子を産んだ。
 産院のベッドで、弓はぐしゃぐしゃに乱れた髪で目の下にくまを作りながらも得意そうに笑う。
「すっげぇ痛かったぜ」
 僕は小さな息子を抱いてただぽかんとしていた。本当に、本当に人ひとり弓のお腹から出てきた……
 こうして僕には、自分の命より大事な人間がもう一人できた。

 月日は流れ、あの日産まれた息子は6歳になった。幼稚園にも通い、毎日が楽しそうだ。
 彼は僕のように面長な顔立ちだが耳や手のかたちは弓の遺伝の方が強い。鼻筋も僕のような鷲鼻ではなくすっと通っている。
 でも性格は僕に似たようで大人しいと弓は言う。
 本当にそうだろうか。
 よその男の子と比べるとほんの少し大人しいというだけで、やはり小さな怪獣であるのは変わりない。ボールで窓を割られたり、大事に育てていた桃の木を折られたり、雨どいのドレインに登ろうとして壊したり、やらかされることには枚挙の暇がない。
 何事にも真剣勝負で、ちょこまかとよく動き、何やらオノマトペが聞こえそうなほどに怒り、泣き悲しみ、他愛ないことを必死に言い募り笑い転げ、僕や弓に全身で甘える。
 僕は彼をよく肩車して散歩し、釣りにも連れて行った。
 そして弓のお腹はまた膨らんでいる。今度は女の子という医者の診立てだった。
 ある夜、僕は弓に訊ねた。
「こどもって可愛いけどさ」
「うん」
「こどもが二人になったら、この気持ちは二人に半分ずつってことになるのかな」
「律っちゃんは馬鹿だな」
弓が大きなお腹を僕に向けてきた。このお腹ではもう仰向けでは寝られない。
「割り算じゃなくて掛け算だ。二倍になるんだとよ」
「なるかな」
「なるらしいぞ? 幼稚園の園長がそんなこと言ってた」
「そっか……」


 その朝、僕はベッドで悲鳴を上げた。気持ちよく寝ていたところへ息子が飛び乗ってきたのだ。
「おきろ!!!! おきろおおおおとうさん」
 仕事が忙しくしばらく休日返上していた父親に彼は大声を上げる。
「おとうさん今日釣りに行こうって約束してたの忘れたの?!」
「……そう……だっけ?」
「わすれちゃだめだよ! したくして!」
 のそのそと起き上り、午前3時帰りの寝ぼけた顔を洗う。
 そして朝食に箸をつける。
「?」
 味噌汁が妙に塩辛かった。卵焼きも、野菜の胡麻和えも。
 僕の料理の師匠たる弓がこんな味付けをしたのは初めてだ。
 盛り付けも乱雑だった。
 思わず僕は弓の顔を見た。
 弓は浮腫んだ顔をして目をつぶり、こめかみを押さえていた。
「どうしたの」
「なんか頭痛えんだ」
「大丈夫? 病院行く?」
 弓は息子を妊娠していた時も腎臓の機能が低下して血圧が上がり、よく頭痛を訴えていた。病院からも早めの入院を勧められていたが、弓は渋っていた。
 僕が残業や休日出勤を続けているのも、彼女の入院に備えて仕事を片付けてしまおうとしてのことだった。
「前と同じだ。寝てりゃ治る」
「病院行こう。ちょっと変だ」
「変じゃねえよ」
 弓が僕を睨んだ。痛みで苛立っている。
「お前な、あいつがどんだけ今日釣りに行くの楽しみにしてたか知らねえだろ」
「だって」
「私がこんなで、お前は忙しくて構ってやれなくて、大人しいあいつが私らの気ぃ引くために嘘ついたりもの壊したりして、陰でときどき泣いてんだぞ」
「…………」
「明日、病院行くから。今日は連れて行ってやってくれ。なぁ」
 弓の目がひどく悲しげだった。僕はなにか不安になって食い下がった。
「……病院に行ってからでも釣りには行けるよ」
「潮が悪くなっちまう。早く行けよ」
 少し心配げに目をきょときょとと泳がせる息子に、弓は手を伸ばして頭を撫でた。
「今日は弁当作るの勘弁してくれ。ごめんな。昼はおとうさんと何かおいしいもん食ってくるといい」
 そして、痛みをこらえてにっと笑った。
「おっきいのいっぱい釣ってこいよ。うちで待ってるからな」
 それが、僕らが弓の声を聞いた最後だった。

 僕らが帰ってきた時、弓は庭で倒れていた。
 お腹を守るように丸まって、もう息をしていなかった。
 救急車を呼び、僕は硬くなり始めた弓を抱えて公道まで走ったが、胎内にいた娘ももうこと切れていた。
 死因は子癇によるくも膜下出血だった。

 こうして僕は妻と生まれてこようとしていた娘を喪った。
 僕は頭の中に靄がかかったような感覚で淡々と警察と検死官に応対し、死亡届と火葬許可申請書を書き、その夜はリビングに敷いた布団に寝かせた弓の頭やお腹を撫でて一晩を過ごした。もう、きれぎれにしか思い出せないが。
 息子はひどく怯えてリビングの隅に座り込み、僕と同様泣くことも忘れている様子だった、という。
 駆けつけてきた僕の両親が必死にあやし、何度他の部屋に連れて行って食事させ、寝つかせようとしても彼はいつのまにか戻ってきてそこに座っていたらしい。
 僕は彼を気遣ってやれなかった。それが今も悔やまれてならない。
 朝になって、母がご飯を炊き、冷蔵庫にあった弓が作った常備菜をテーブルに並べた。
「あなたたちに食べてもらおうと思って弓さんが作ったんでしょ。ね、少しは食べなさい」
 僕は昨日の朝までの「日常」が恐ろしくて、食卓から逃げ出した。

 火葬場の炉の点火スイッチは家族が押すというしきたりはなんて残酷なんだろう。
 炉の前で、僕は生まれて初めて、腰が抜けて立てなくなった。
 弓がいなくなってしまう事実が真正面から僕を叩き潰す。
 火葬炉の前室に運ばれようとする棺に縋って、僕は今まで生きてきた中で一番の恐怖と悲しみで取り乱し、泣き叫んだ。
「いやだあああぁぁぁ!! 弓! 弓、目を覚まして!」
 焼いてしまったら、彼女は体を失くしてしまう。もう二度と起き上らない。
 このときになっても、僕は冷たく固い弓が温かく柔らかくなって戻ってくる望みを捨てきれずにいた。
「弓起きて! 起きてくれよ!!」
 そのとき、泣き喚く僕の肩に何かがどすんとぶつかった。
「おとうさんごめんなさい」
 僕の両親の制止の手を振り切って、控室から息子が出てきて僕の肩に縋りついていた。
「ぼくが釣りに行きたいっていわなかったらおかあさんとあかちゃんは」
 聞き取れたのはそこまでだった。
 彼は堰を切ったように大声で泣く。その泣き声の中に「ごめんなさい……ごめんなさい」と切れ切れの謝罪の言葉が混じる。
 彼は幼いなりに自分を責め、僕と弓と生まれてこなかった妹の許しを乞うていた。
 許しを乞うべきは僕なのに。
 僕がちゃんと病院に連れて行っていれば。
 あと一時間帰ってくるのが早ければ。
 その時やっと、僕も彼と一緒になって泣きながら決意した。

 ここから出たら、もう二度と彼の前では泣かない。

 僕らには辛い日々が続いた。
 彼は自分が母と妹を死なせ、僕から最愛の妻と娘を奪ったと思い込んでいたので、毎日毎日抱き締めてそうではないと言い聞かせ、弓の匂いの残るベッドに二人で寝ていた。
 彼が「もう父さんとなんか寝てられないよ。恥ずかしいよ」と大人ぶった口を利く日まで。その日は意外と早くやってきた。
 彼には秘密だが、その日は寂しくてやっぱり枕が濡れた。

 毎日二人でキッチンに立ち、弓の使っていた包丁を使い野菜や肉や魚を切る。
「おとうさん、はなみず出てる」
「……うん、ちょっと風邪気味で」
 時の流れとともに、だんだん日々は穏やかになっていったが、弓の不在は他の何ものでも埋められなかった。


*********************************************************


 ある意味、彼は恩人だ。彼がいなければ気弱な僕は多分自ら命を絶っていたと思う。
 ちょうど僕と弓の身長を足して二で割った背丈に育ったその恩人様は、食事中ひどく無口だったが、今、彼女の横でそばかすの頬を紅くしてもじもじしている。
「あの……言おうとは思ってたんだけどさ……ほら、まだつわりも始まってないくらいだし……やっぱ話すきっかけってのが……」
 求めてもいないのに弁解が始まる。こういうところはやっぱり僕に似ている。
 僕は弓っぽくにやっと笑って見せた。夫婦は似てくるものと言うが、弓と暮らし始めてから、僕はいつの間にかこんな笑い方もできるようになって、今もそれは健在だった。
「おめでとう。大事にしてあげなさい」
 彼女を妻にしたい旨を表明に来た息子を、僕は心から祝福した。
 彼女も照れたように笑っている。いい笑顔だ。
 この二人は僕と弓よりもきっと長い年月を共に過ごすだろう。そうあって欲しい。

 和やかに夜は更けていく。
「本当は泊まって行きたかったんだけど」
 彼が残念そうに言う。
「明日どうしても出勤しないと駄目だってことになってさ……ごめん。こんどまたゆっくり来るから」
「お義父さん、今度、あのファイルじっくり見せてください。すごく面白かったです」
 初対面の彼女からお義父さんと呼ばれるたび少々動揺するが、そのうちお爺ちゃんと呼ばれる日が来る。
 これくらいでおたついてどうするんだ。
「ああ、いつでもおいで」
 彼らが寄り添いながら、枯葉の散り敷いた小道をゆっくりと歩き去ってゆく。
 この家から遠ざかっていく二人を、僕は視界から消えるまでずっと見送った。

 再びがらんとした家の中へ入り、幸せな気分の余韻を味わいながら僕は洗い物を片付ける。
 そして庭に出て、弓とああだこうだと喧嘩しながら組んだ竹のベンチに座る。

「今日、僕、けっこううまくやったよね?」

 しきたりだとか礼儀だとかにやたら厳しく、人間関係が非常にややこしい「医師」という職にある彼は、きっちり結婚式と披露宴を開かないといけないのだという。
 弱ったな。
 最近の若い人の結婚式ってどうなってるんだろう。
 医者だらけの席で、何を話せばいいんだろう。
 新郎の父として何をスピーチしよう。
 お話にならないくらい泣いてしまったらどうしよう。
 ねえ弓、僕はどうすればいいかな。
 まだ何か月か先のことだろ、って君は笑うだろうな。
 でも先のことだって思ってると、いつの間にか目の前に迫ってるものなんだよ。

 現に、弓が乳房を含ませ、すり潰した粥を与えていた彼がもうすぐ結婚し、父親になる。
 僕はおじいちゃん、弓はおばあちゃんだ。
 おばあちゃんか……
 君は若いままなのになあ。

 今夜は月がとてもきれいだ。
 まるでここへ初めて弓を連れてきた、あの時のように。
 毎晩、僕はほのぼのと思い出す。
 日々そばにあった彼女の温かい肌、楽しげな声、髪の手触り、優しい眼差し。
 そして君が、僕と僕の子どもたちをどんなに愛していたか。

 弓。

 僕が今もどれほど君を愛しているか――

 君のいる場所まで届いているだろうか。



       おしまい
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