炎の記憶・下

文字数 5,192文字

「由美! 返事をしなさい!」
 勝手知ったる他人の家、床板が(きし)む廊下を走り、扉を片っ端から開けて姿を捜す。曲がり角の向こう側に、蛇のようにチロチロと顔をのぞかせる炎が見えた時には、暑いはずなのに寒気が走った。奥まった所に扉が一つ。そうだ、由美個人の部屋(へや)は、ここだったはず。
「由美!」
「ね、ねぇね、なんでいるの」
「なんでいるのは由美のほうでしょ! ほら、はやく行くよ!」
 手を引いてドアを開け放つと、熱気がむあぁっと肌を焼いた。
「あ……あ」
 由美の顔から血の気が引く。歩いてきた廊下の向こうから、ドライアイスのように白い
煙が()ってきた。黒い雲を引き連れて、蛇の舌が顔を出す。周りの観葉植物や写真を飲み
込み、大きくなった体をうねらせている。ごくりと、息をのんだ。玄関は、もう使えない。立ち止まっているわけにもいかず、奥の方へ少し走った所で、由美が私の袖を引いた。
「ねぇね、窓って……」
「あっ」
 ドン、と壁を意味もなく(たた)く。この施設は、窓が細長くなっている。転落しにくくするためである。由美は頑張れば通れるだろうが、どう考えても自分は無理だ。普通の窓もあるにはあるが、作業部屋や台所、サンルームなどに限られている。この先にはない。
 小さな体を抱き上げる。腕にずしりとした重み。初めて見かけた時よりも、だいぶ成長していたようだった。桜が散るころには、この子も小学生になっているのか。
「約束するね、由美。あなたを私と同じにはさせない」
 きょとんとしていた由美も、窓枠に立たせられて、意味を理解したらしい。すなわち、私を置いて、逃げろということ。
「ねぇね。赤ちゃんゆび。だして」
「指?」
 由美の小指は細くて、折れそうで、それでも強く絡みついた。
「ゆびきりげんまん、うそついたら針千本のーますっ」
 指が離れる。芝生の上に尻餅(しりもち)をつきつつ着地して、先生の所へ走っていった。
さて、これからどうしようか。しかたなくそのまま奥へ進むが、もうすでに頭が痛くなってきている。玄関も窓もアウト、この通路だって、火と煙が後ろで通せんぼをしている。
曇ってくる視界。絡みついてくる煙。どんな宝石よりも、今は酸素がほしい。足がだんだんと重くなってくる。私は一番奥の部屋にかけ込んだ。この部屋に、非常階段があったのを思い出したからだ。
「あ……」
 その場所を見たとたん、私はその場に座りこんだ。階段に通じる扉が、横倒しになった
棚でふさがれている。さっき閉めたドアの隙間から、煙が入り込んできた。立ち上がろう
としたが、足に力が入らない。くらりと視界が(ゆが)んでしたたかに体を打った。
じん、と足首が熱をもつ。棚をどけないといけないのに、こんな状況で足を(ひね)るなんて
最悪だ。そうでなくても、まともに歩けたとは思えないが。
じわじわと迫る火の手。視界を夜に塗りかえる濃い煙。幼い子を死へと誘った招待状。
ついさっきの出来事をたどっていったその先で、不意に、(すべ)てが、つながった。
 だとしたら。(うそ)を。嘘をついていて。雪のように綺麗(きれい)で真っ白な嘘。車の中で一瞬見せた表情は、比喩ではなく、私が感じた通りの意味で。
 あの人は、十六年もの間、私の荷物を背負い続けてきたのか。
 火遊びが原因で、出火したんじゃない。神立のせいで、両親が死んだんじゃない。
 手紙。
 背伸びをして、机の上に手をのばした。手紙を書きたかった。便箋と封筒が欲しかった。
ひっくり返った灰皿。積まれた新聞紙の上で育つ炎。バレたら怒られる。気づかれる前に、消さないと。コップを片手に、洗面所へ。届かない。踏み台は、どこだっけ。
やっとコップに水を入れ、洗面所の扉を開けると、煙が視界を真っ黒に塗りつぶした。
「わたし、が、殺した……」
 何をしてる。早く来い。
 そう言って、あの人は私の手を引いたのだ。そして、(うず)もれていく炎の記憶を掘り起こそうとした時、私の背負うべき荷物を盗んでいった。
 あの人は。口汚く罵られ、見ないふり聞こえないふりをされようが、その好意を踏みにじられようが。口を閉ざし、憎まれ続けることで、私を守り続けていたとでもいうのか。
「……はは。お人よし」
 天井をつたって、墨汁を溶かし込んだような雲が降りてくる。窓枠に立った由美の、逆光に柔らかく包まれた笑顔が脳裏をよぎった。
「針、千本……」
 心優しいあの子は、きっと私を思って泣くんだろう。城森先生は、手を離した自分を責めるに違いない。同僚たちは、花瓶を置きつつ、空いた穴に頭を抱えるだろうか。
 神立は。
「謝りたいなぁ……」
 そうだ。今までの態度と言葉にごめんなさいを、そして、彼の思いやりに、ありがとうと、もう一言を。神立には言っておきたいことがある。
 もう一度立ち上がろうとした時、煙の向こう側からバンッと大きな音がした。
(れい)!」
 非常階段に通じる扉の外側から、扉もろとも棚を蹴飛ばした音、煙の中に私を見つけて驚きに見開かれた目、そして、怒気をはらんだ声。
「この、馬鹿……っ!」
 もう会いに来るな、ここに来るな、何度も何度も言ったこと。わかったと返事をしておきながら、それでも懲りずに私の前に現れたこと。思い出されて、苦笑いに涙がにじんだ。
「……来るなって、言ったのに」
「許さなくたっていい。ほら、君が帰るのは、炎の中じゃない。屋上まで連れていく。君のことは俺が背負う」
「重いでしょう」
「それがどうした、急ぐぞ」
 神立は、手早く私をおぶって、ふらつきながら階段を上り終えた。
「頭がくらくらするな……煙の味はしばらくごめんだ」
「ははっ……しばらくでいいんですか。禁煙するんでしょう」
「覚えてるんだな、残念だ……」
「いっそ、神立のことなんて全部忘れられたら楽だったでしょうけどね。それで、どうするんですか、お兄ちゃん。助けが来るのを待ちますか」
「いいや」
 神立はゆるりと首を横に振り、そして狂気の笑みを浮かべた。ように見えた。気のせいだったと思いたかった。
「飛び下りる」


 目を覚ますと、視界いっぱいに見慣れぬ白い天井。
「生きてる……」
 体を起こそうとして、そうだよなぁ、とつぶやく。下が柔らかい芝生だったとはいえ、骨折を免れることはできなかったらしい。周りを見ると、よく知った顔の男が、隣のベッドで包帯とギプスにまみれて横になっていた。対して、私の顔にはどこにもケガがなく、見える部分だけで比べてみても、明らかに私より神立のほうが包帯の量は多い。
お人よし、と呟こうとしたその時、病室のスライドドアが、コンコンコンとノックされ
た。大人(おとな)にしては低い位置。スライドドアが軽やかな音を立てて開いたのと同時に、小さな頭がのぞく。私の姿をその瞳の中にとらえ、タタタッと私のベッドに駆け寄ってきた。
「ねぇねーっ」
「病院の中で走っちゃダメでしょ。ほら、静かにしないと」
「ふ、ふぐっ、う、うぇ……」
 由美は私の肩に頭をぐりぐりと押しつけながら、しばらくそうしていた。優しいグリーンの色をした患者衣にしみこんでいく涙が、ただただ熱くて私の心を焼いた。
「ごめんね」
「よかった……」
「もう、大丈夫だから」
「ねぇねに、針千本飲まさないで済んで、よかった」
「そっちかい」
 私が歩けていたら、ずっこけていたに違いない。
「由美が窓から降りたあと、分厚い図鑑を落っことしたみたいな音が聞こえてきて。見てみたら、ねぇねたちだったし。なんで落ちたの。そこの隣の人のせいじゃないよね」
 由美は神立の方に視線をやって、私の患者衣を握る指先にキュッと力を込めた。
「助かると思ったら気が緩んじゃって、うっかり」
 窓辺の花に視線を彷徨(さまよ)わせる。別に、嘘はついていない。正解ではないだけで。
煙幕のせいでいつ発見されるかわからなかったし、互いにかなり煙を吸ってしまっていて、少しでも早くあの場から離れる必要があった。直接的には神立のせいなのだが、原因を作ったのは自分だ。そして、自分があの中に入ったのは、由美を助けるためだ。けれど、由美がどう感じるかと思うと、ありのままには言えなかった。
「もし帰ってこなかったら、きっともっと悲しくて泣いたよ。だから、生きててよかった」
「ありがとう」
 生きててよかった。そう告げた由美の目は、どこまでも澄んでいて()()ぐに私を射抜いた。ああ、と実感する。私が、この子に昔の自分を重ねて見てしまうからこそ、由美にはせめて、やわらかい愛情にすっぽりと包まれて、のびのび育ってほしいと願わずにはいられないのだ。
「じゃあ、二人が目を覚ましたって看護師さんに教えてくるね」
 由美の足には少し大きいスリッパのたてる音が、パタパタと遠ざかっていった。それから、しばらくの沈黙。壁に掛けられた時計(とけい)の秒針が半周ほどして、私は口を開いた。
「私、神立に言っておきたいことがあるんですよ」
「告白か」
「あなたはそればっかりですね……真面目(まじめ)に聞いてほしいんですけど」
「気はあるが、悪気はないんだ」
「それでうまいこと言ったつもりですか」
 なんだかおかしくなって、しばらく二人でクスクス笑った。傷に響いて少し痛かった。
 痛み。痛み、か。
 肉体的な痛みと精神的な痛み、どちらがよりつらいかなんて、傷の深さに左右されることで、一概には言えないだろう。けれど、今、こうしてベッドで包帯とギプスにまみれて感じている痛みよりは、神立が味わった数年にわたる拒絶の方が、きっと。
「今までごめんなさい。今まで邪険に接してきたこと。危険な目に遭わせたこと。本当に申し訳なく思っています。それから、煙の中から外に連れ出してくれたこと。こうして隣にいてくれること。昔と昨日(きのう)のぶん、今さらですけど感謝の気持ちを受け取ってください」
「気にするな。俺がやりたくて勝手にしたことだ」
「最後に、これは私の個人的なお願いになってしまうんですけど」
 私の目をその手で覆って、真実を隠して、見えなくして。幼い私に背負わせれば骨が折れてしまいそうな重荷を肩代わりして。敵意むき出しの視線も、かみつくような言葉もすべて受けとめて、私に桜の花びらを手渡そうとしてくれる、そんな『兄』に、一つだけ。煙の中で朦朧(もうろう)としながら、これだけは伝えたいと思ったもう一言を。
「私のために嘘をつくのは、もう最後にしてください」
「……」
「私の荷物は、もう自分だけで背負えます。傷ついてほしくないとか、心配してくれたのはありがたいですけど。そのおかげで、神立が望んだ通り、私はあなたを憎むことしかできなかった。私だけあなたに守られて、あなたがつらい思いをするなんて、もう二度とごめんです。神立とは、もっとまともな理由でケンカしたいんですよ。わかってください」
「……そうか」
 返ってきた声は、ホットココアのように心に染みこんだ。温かくて、甘かった。
「ところであなた、よくあんな所にいましたね。発信機とか盗聴器の類でも仕掛けてたんですか。最低ですね」
「ああ、実はそうなんだ」
 私は思わず枕を投げつけた。手が滑ってギプスがつけられた自分の足の上に落下。痛い。
「って、言ったらどうする」
 口元がニヤニヤしている。吹きだしたら今度こそ枕の刑だ。それで気絶して安眠しろ。
「……ジョークだったんですか。ずいぶん真っ黒な冗談ですね。そのブラックジョークのせいで私が受けたダメージはどうしてくれるんですか」
「すまない。どうしようもできない。だが、いい大人が枕を投げつけようとした事実のほうがどうしようもない」
 ……反論しようがない。
「前にも言ったが、あの場所はいつも通ってるんだ。煙が出てたら誰だって様子を見に行くさ。そうしたら、一人(ひとり)いないって言うじゃないか。探していたら、あの子の姿が窓から見えた。あの子の姿だけが。だから予想がついたんだが、まさかその通りだったとはな」
「……いくら気が急いたって、法定速度は守ってください。携帯落としたんですけど」
「確かあの時、歩行者用の信号は赤だったな。青になるまで君はちゃんと待ったのか」
 私には、癖がある。都合が悪くなると少し黙ってから話をかえる癖だ。
「そうだ、提案なんですけど、今度一緒に遊園地、行きませんか」
 一緒に遊園地、というワードを耳にして、ファサッと尻尾(しっぽ)を振る幻が見えた。
「デートに誘ってくれるなんて、雨が降るか(あめ)が降るか……」
「残念ながらデートのつもりはありません。雨が降ったら中止ですし、飴が降ったら伝説になります。そういうことじゃなくて、ほら、私、由美との約束守れなかったんですよ。本当なら、今日(きょう)行く予定だったんです」
 廊下の向こうから、ペタペタとスリッパを持て余しながら駆けてくる音が聞こえる。
「それは、いいな。来週の日曜日で、どうだ」
 コンコン、とノックの音。由美の時より高い位置。先生が来たようだ。
「それまでに治るって言ってもらえたらね」
 透き通るように白いカーテンが、やわらかい風にふわりと舞った。
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