炎の記憶・上
文字数 3,562文字
少し前まで町を桃色に染め上げていた桜が、風に吹かれて散り散りになっていく。
「ねぇね、あの花びらはどこにいくの」
「お空の遠く向こうまで」
二か月ぶりに訪れた養護施設は、雨に育 まれて、青々とした芝生 に囲まれていた。そこに住んでいる由美 は、私 を姉のように慕い、私もまた、由美を妹のように可愛 がっている。
「来年から学校に行くんだっけ」
「ブッブー。由美は、この春休みが終わったら一年生になるの。お手紙にも書いたじゃん」
「ごめんごめん」
自分も十八歳まで育ててもらった。先生たちは優しかったし、宿題も教えてくれた。火事で焼け出された子どもにしては恵まれていたんじゃないかと、今は思う。ただ、唯一。
「あ……」
そこにいる、あの男とは、昔も今も話すどころか顔も合わせたくなかったが。
「それでね、ねぇね。……ねぇね? こわい顔してる」
眉尻を下げながら服のすそを引っぱられて、はっと我に返った。
「あぁ、ごめんね。何でもないんだ。由美ちゃん、そろそろ私行かなきゃ。また今度来るから」
「今度っていつ」
「じゃあ、来週の日曜日に、二人 で遊園地いこっか」
「えっ、やったあ! 由美、遊園地なんて行くの初めて! 約束だよ!」
にっこりと笑ってうなずくと、由美は、細い窓から顔をのぞかせた先生の方へ駆けていった。幼い頃の自分を見ているようで、なんとも懐かしくて、ほんの少し、痛む。
さて。
「どーしてあなたがここにいるんですか、神立」
さっき私がにらんでいた男は、車にもたれながら煙草 の煙を苦そうに吐き出していた。
「今年 の桜は去年より気が早いな。入学式の頃にはもう残ってなさそうだ」
「理由を聞いているんですよ、か・ん・だ・ち!」
「仕事場に行くのに、この通りが一番近道なんだ。まだ時間に余裕があったから、春を眺 めたくなった。あとは、そうだな、君に会えるかもしれないと思った」
ちら、と目深にかぶった黒いキャップの下から、涼やかな瞳が覗 く。
「だいたい、ここは禁煙です。子供がここにたくさんいることくらい、知ってますよね」
「ああ、そうだったな」
灰皿には、すでに十本ほどの吸い殻がたまっていた。
「お前は……」
「まだ何かあるんですか。あと気安くお前って呼ぶな」
「もう、お兄 ちゃんとは呼ばないんだろうな」
「呼んだことありましたっけ。ないですよね。あの、神立」
「なんだ。デートのお誘いか」
「……は?」
自分からこんなに低い音が出せるとはついぞ知らなかった。
「用がないなら、さっさと出て行ってくれませんかねぇ。むしろ立ち入り禁止です。もし子供たちが肺ガンになったら、地の果てまで追いかけて治療費を奪いに行きますよ」
「熱烈だな」
神立は煙草を取り出そうとした手の行き場をなくして、かわりに桜の花びらを捕まえた。
「やる」
神立は、ケーキに苺 をトッピングでもするかのように、花びらをそっと私の手に乗せる。様になっていること自体、何だか無性に腹立たしい。気持ち悪い。
「訂正します」
私は彼をじろりと睨 み、手の中の花びらをクシャリと握りつぶして。
「二度とここには来ないでください」
捨てた。
「はぁ……」
あれから四日。仕事場で帰り支度をしながら、彼の言葉を思い出してイライラしていた。
私は煙草が嫌いだ。もちろん、煙たいからとか健康に悪いからとか、それも理由の一つではあるが、それが些細 なことに思えるほど、私には思い出したくもない記憶があった。
赤くて、黒い記憶。メモが貼られた図鑑も、大きなクマのぬいぐるみも。大好きだったお父 さんとお母 さんも。みんなみんな赤くて黒い……そんな、記憶が。
後になって、神立に質問した。お兄ちゃん、どうして、火が出たの、と。
彼は一言、覚えていないのか、と呟 いて、少しの間沈黙した。五秒もなかったのに、ひどく長く感じたのを覚えている。そして神立は重そうに口を開いて告げたのだ。灰皿に残っていた吸い殻で、俺が火遊びをしたのがもとだったんだ、と。
「じゃあ、お疲れさまです、久留米 さん」
「あ、はい、お疲れさまです」
彼とは血がつながっていない。父が施設で働いていた時に親しくなった子だ。母と結婚する時、一緒に暮らし始めたらしい。少し変わった家庭ではあったけれど、お父さんもお母さんも、私も……神立も、家族だった。家族、だった、のに。
覚えているのは炎の熱さと、煙が目に染みて涙が止まらなかったこと、そして。
「ぼーっと歩いてたら、俺の母さんみたいに車にひかれるぞ。俺でよかったな」
「どうして、ここに、いるんですか、神立。二度と来るなって、言いましたよね」
「ああ、もう施設には行かないさ。帰る途中で見かけた。送ってやろうかと思ったんだが」
じっとりとした視線を投げつけたところで、奴 は涼しげな顔だ。
「あー」
反論したいが、仕事から上がってすぐに言い合いをする気力はない。太陽はすでに眠りにつき、うっすらと紫色に染まった雲が折り重なるようにして広がっている。
「仕方ないですね、送られてやりますよ」
しぶしぶそう答えると、神立は車のキーをくるんと回し、ヒュウ、と口笛を鳴らした。車が走り出す。煙草に手が伸びるのを見て、考えるより先にその手首を掴 んだ。
「私の肺は心配しないんですか」
神立は、ぱちくりと一度瞬き。目が合う。犬がチョコレートを食べているのに気づいたときのような顔をして、私を見ていた。
「君がつっかかってくるのが面白かったんだ。すまなかった」
「やっとわかってくれましたか」
「ああ。確かに君の言うとおりだ。これから禁煙する」
「そうですか、それは……え、聞き間違いでなければ、その、いま、禁煙するって言いましたか。こんだけ吸ってる人が急に禁煙とか無理ですよ。少しずつ本数を減らすとかに」
「やめるさ」
「そうですか。せいぜい無様に失敗してください」
――何をしてる。早く来い。
炎の熱さと、煙が目に染みて涙が止まらなかったこと、そして、茫然 と立ちすくむ私の手を引く彼の言葉。覚えているのは、それだけ。
忘れてしまっているだけかもしれないが、思い出したいとも思えない、赤くて黒い記憶。
「あなたがいなければ、だれも死ななかったのに」
口に出した十六年分の思いは、予想以上に重く冷たく、車内を満たして纏 わりついた。
「……そうか。だったらなおさら言えないな」
「何が」
「何も。そんなことより、ほら、ついたぞ。顔も見たくないんだろう? 嫌ならさっさと降りればいい」
車が停 まる。吸い殻を雑にレジ袋へ移しながら、神立は複雑な顔をしていた。他人の荷
物を持て余している小学生のような、それでもってどこか安堵 しているような、そんな顔。
「昔、どこで何をしたか。忘れたわけじゃないでしょう」
「……」
「送ってくださってありがとうございました。でも、今度私の前に現れたら許しませんよ」
「了解」
一昨日、あのいけ好かない男と交わした会話のようなものの内容を思い返しながら、バス停のベンチに座った。日はすでに落ち、東の空に浮かんだ月が青白く辺りを染めている。
「明日 か……喜ぶといいな、由美」
幸せな想像から私を現実に引き戻したのは、妙 なにおいだった。祭り……いや、違う。
「火事だ!」
誰かが叫んだのと、私が走り出したのは、ほぼ同じだった。向こうに明かりが見える。オフィスの電気じゃない。温かい団らんの色でもない。すべてを焼き尽くす炎の色だ。
消防に通報しようとしたところで、猛スピードで横切った車に気を取られて段差につまずいた。手に持っていた携帯が宙に浮く。数秒の空白の後に、ちゃぽん、と橋の下から無機質に響く水の音。しかしそんなものはどうでもいい。赤信号を渡り、肩で息をしながら、野次馬や避難した子供たちの中から、あの小さな後ろ姿を捜す。どん。誰かにぶつかった。
「すみません」
「あら、やっぱりあなたも来たのね。来るだろうと思ってたわ」
お世話になった先生だった。顔や服が所々黒いのは、煤 で汚れたからだろうか。
「城森 先生! 由美ちゃん、由美ちゃんを見かけませんでしたか」
彼女の名前を出すと、先生の顔がサッと曇った。胸がざわつく。
「さっきも聞かれたけど、由美ちゃん以外は……ここにいるわ。一度は外に出たのよ! でも、私の横をすり抜けて、何かを取りに戻ってしまったみたいなの」
取りに戻った。何を? 散っていく桜の映像と共に、あの言葉が耳によみがえった。
お手紙にも書いたじゃん。
私が返事に送った手紙を大事にしまっていたとしたら。取りに戻ったんだとしたら!
「ちょっと、どこに行く気」
走りだそうとして腕をつかまれた。
「……ごめんなさい」
「ダメよ!」
「はなして!」
手を振り払って駆け出した。まだ、火も煙もそこまで回っていない。施設の中に足を踏み入れると、むせるような焦げ臭い空気が肺を満たした。
「ねぇね、あの花びらはどこにいくの」
「お空の遠く向こうまで」
二か月ぶりに訪れた養護施設は、雨に
「来年から学校に行くんだっけ」
「ブッブー。由美は、この春休みが終わったら一年生になるの。お手紙にも書いたじゃん」
「ごめんごめん」
自分も十八歳まで育ててもらった。先生たちは優しかったし、宿題も教えてくれた。火事で焼け出された子どもにしては恵まれていたんじゃないかと、今は思う。ただ、唯一。
「あ……」
そこにいる、あの男とは、昔も今も話すどころか顔も合わせたくなかったが。
「それでね、ねぇね。……ねぇね? こわい顔してる」
眉尻を下げながら服のすそを引っぱられて、はっと我に返った。
「あぁ、ごめんね。何でもないんだ。由美ちゃん、そろそろ私行かなきゃ。また今度来るから」
「今度っていつ」
「じゃあ、来週の日曜日に、
「えっ、やったあ! 由美、遊園地なんて行くの初めて! 約束だよ!」
にっこりと笑ってうなずくと、由美は、細い窓から顔をのぞかせた先生の方へ駆けていった。幼い頃の自分を見ているようで、なんとも懐かしくて、ほんの少し、痛む。
さて。
「どーしてあなたがここにいるんですか、神立」
さっき私がにらんでいた男は、車にもたれながら
「
「理由を聞いているんですよ、か・ん・だ・ち!」
「仕事場に行くのに、この通りが一番近道なんだ。まだ時間に余裕があったから、春を
ちら、と目深にかぶった黒いキャップの下から、涼やかな瞳が
「だいたい、ここは禁煙です。子供がここにたくさんいることくらい、知ってますよね」
「ああ、そうだったな」
灰皿には、すでに十本ほどの吸い殻がたまっていた。
「お前は……」
「まだ何かあるんですか。あと気安くお前って呼ぶな」
「もう、お
「呼んだことありましたっけ。ないですよね。あの、神立」
「なんだ。デートのお誘いか」
「……は?」
自分からこんなに低い音が出せるとはついぞ知らなかった。
「用がないなら、さっさと出て行ってくれませんかねぇ。むしろ立ち入り禁止です。もし子供たちが肺ガンになったら、地の果てまで追いかけて治療費を奪いに行きますよ」
「熱烈だな」
神立は煙草を取り出そうとした手の行き場をなくして、かわりに桜の花びらを捕まえた。
「やる」
神立は、ケーキに
「訂正します」
私は彼をじろりと
「二度とここには来ないでください」
捨てた。
「はぁ……」
あれから四日。仕事場で帰り支度をしながら、彼の言葉を思い出してイライラしていた。
私は煙草が嫌いだ。もちろん、煙たいからとか健康に悪いからとか、それも理由の一つではあるが、それが
赤くて、黒い記憶。メモが貼られた図鑑も、大きなクマのぬいぐるみも。大好きだったお
後になって、神立に質問した。お兄ちゃん、どうして、火が出たの、と。
彼は一言、覚えていないのか、と
「じゃあ、お疲れさまです、
「あ、はい、お疲れさまです」
彼とは血がつながっていない。父が施設で働いていた時に親しくなった子だ。母と結婚する時、一緒に暮らし始めたらしい。少し変わった家庭ではあったけれど、お父さんもお母さんも、私も……神立も、家族だった。家族、だった、のに。
覚えているのは炎の熱さと、煙が目に染みて涙が止まらなかったこと、そして。
「ぼーっと歩いてたら、俺の母さんみたいに車にひかれるぞ。俺でよかったな」
「どうして、ここに、いるんですか、神立。二度と来るなって、言いましたよね」
「ああ、もう施設には行かないさ。帰る途中で見かけた。送ってやろうかと思ったんだが」
じっとりとした視線を投げつけたところで、
「あー」
反論したいが、仕事から上がってすぐに言い合いをする気力はない。太陽はすでに眠りにつき、うっすらと紫色に染まった雲が折り重なるようにして広がっている。
「仕方ないですね、送られてやりますよ」
しぶしぶそう答えると、神立は車のキーをくるんと回し、ヒュウ、と口笛を鳴らした。車が走り出す。煙草に手が伸びるのを見て、考えるより先にその手首を
「私の肺は心配しないんですか」
神立は、ぱちくりと一度瞬き。目が合う。犬がチョコレートを食べているのに気づいたときのような顔をして、私を見ていた。
「君がつっかかってくるのが面白かったんだ。すまなかった」
「やっとわかってくれましたか」
「ああ。確かに君の言うとおりだ。これから禁煙する」
「そうですか、それは……え、聞き間違いでなければ、その、いま、禁煙するって言いましたか。こんだけ吸ってる人が急に禁煙とか無理ですよ。少しずつ本数を減らすとかに」
「やめるさ」
「そうですか。せいぜい無様に失敗してください」
――何をしてる。早く来い。
炎の熱さと、煙が目に染みて涙が止まらなかったこと、そして、
忘れてしまっているだけかもしれないが、思い出したいとも思えない、赤くて黒い記憶。
「あなたがいなければ、だれも死ななかったのに」
口に出した十六年分の思いは、予想以上に重く冷たく、車内を満たして
「……そうか。だったらなおさら言えないな」
「何が」
「何も。そんなことより、ほら、ついたぞ。顔も見たくないんだろう? 嫌ならさっさと降りればいい」
車が
物を持て余している小学生のような、それでもってどこか
「昔、どこで何をしたか。忘れたわけじゃないでしょう」
「……」
「送ってくださってありがとうございました。でも、今度私の前に現れたら許しませんよ」
「了解」
一昨日、あのいけ好かない男と交わした会話のようなものの内容を思い返しながら、バス停のベンチに座った。日はすでに落ち、東の空に浮かんだ月が青白く辺りを染めている。
「
幸せな想像から私を現実に引き戻したのは、
「火事だ!」
誰かが叫んだのと、私が走り出したのは、ほぼ同じだった。向こうに明かりが見える。オフィスの電気じゃない。温かい団らんの色でもない。すべてを焼き尽くす炎の色だ。
消防に通報しようとしたところで、猛スピードで横切った車に気を取られて段差につまずいた。手に持っていた携帯が宙に浮く。数秒の空白の後に、ちゃぽん、と橋の下から無機質に響く水の音。しかしそんなものはどうでもいい。赤信号を渡り、肩で息をしながら、野次馬や避難した子供たちの中から、あの小さな後ろ姿を捜す。どん。誰かにぶつかった。
「すみません」
「あら、やっぱりあなたも来たのね。来るだろうと思ってたわ」
お世話になった先生だった。顔や服が所々黒いのは、
「
彼女の名前を出すと、先生の顔がサッと曇った。胸がざわつく。
「さっきも聞かれたけど、由美ちゃん以外は……ここにいるわ。一度は外に出たのよ! でも、私の横をすり抜けて、何かを取りに戻ってしまったみたいなの」
取りに戻った。何を? 散っていく桜の映像と共に、あの言葉が耳によみがえった。
お手紙にも書いたじゃん。
私が返事に送った手紙を大事にしまっていたとしたら。取りに戻ったんだとしたら!
「ちょっと、どこに行く気」
走りだそうとして腕をつかまれた。
「……ごめんなさい」
「ダメよ!」
「はなして!」
手を振り払って駆け出した。まだ、火も煙もそこまで回っていない。施設の中に足を踏み入れると、むせるような焦げ臭い空気が肺を満たした。