第1話

文字数 7,722文字

 ばあちゃんを乗せた車椅子は、羽が生えて宙に浮かんでいるみたいに軽い。油断していると、どこかにフワリと飛んで行ってしまいそうだ。用心しながら病棟の中庭に出る。リハビリ中の患者やスタッフが、植込みや木陰でひそひそと揺れている。
「ばあちゃん、寒くない?」
 耳元にそっと話しかけたけれど、ばあちゃんは口を半開きにしたまま熟睡中。コトリとも動かない。ねぇ、息、してる? 

(あなたねぇ、二十代でしょ。独身だし。こんなことで甘えているから女性教師は使えないって言われるのよ。私の身にもなってよ。やる気があれば何でも出来る、でしょ!)
 副校長の金切り声が、耳の奥で暴れている。側にあった朽ちたベンチに座り込み、車椅子のグリップに頭を預ける。無理。もう限界。「若い」「独身」という条件だけで、中学二年の担任と学年主任、未経験のバレー部顧問まで押し付けられた。それだけでも手一杯なのに、不登校の生徒は日々増加し、凶暴化した保護者に怒鳴り込まれ、教室内はまるで発情期のモンキーパーク。静かにしなさい! うるさい! 止めて! 私の声なんて、どこにも、誰にも届かない。もう、眠れないんです。食べることも出来ません。助けてください。同じ女性なら解ってもらえる。そう思って副校長に訴えたら、逆ギレされた。突然世界の色がなくなって、何もかもが遠くに感じて、プツッと何かが切れる音がして、気が付いたらここにいた。どうやら私は、職場を放棄したらしい。不登校教師、確定。

「あぁっと あえた」
 突然、ばあちゃんが叫んだ。
「おぁ~ん」
 そして、いきなりの号泣。車椅子から転げ落ちるかと思うくらいに前のめりになり、子どものように泣きじゃくっている。
「ウソ、ヤダ、何? ばあちゃん、どうした?」
 私の心臓は肋骨の中で大暴れしている。その上、ばあちゃんのおんっおんっは凄まじく反響して、中庭の人たちが一斉にこちらを見ている。
「あぁ、えっと、すみません。ばあちゃん、泣かない。ねぇ、どうしたの?」
 私は、背中をなでたりひざ掛けを直したりして、ただアタフタするばかり。するとばあちゃんは、枯れ枝のような手を上げて何かを指し示した。ばあちゃんの震える指先を追うと、木陰にひとりの男性が湯気みたいにボワっとたたずんでいた。
「えっ? 俺?」
 恐ろしく覇気のない反応。薄緑色のエプロンを着用した介護士の板倉さんだ。髪の毛と無精ひげは勝手気儘に伸び放題だし、目の下のクマはどす黒い。ばあちゃんがこの高齢者病棟に入院した当初、板倉さんはキラキラッパリパリッとした新鮮なイケメン君だったのに、今や立ち枯れたネギ坊主みたいだ。何があった? いやいや、人の心配をしている状況じゃない。私はばあちゃんの泣き声に負けないように声を張り、出来るだけ陽気に振る舞う。
「えっと確か、板倉さん、ですよね。ごめんなさいね。大丈夫なんで。はい。では、ばあちゃん、撤収しまぁす」
 最高の笑顔を提供する。ネギ坊主、反応なし。何だよ。残り少ないエネルギーを無駄にした。私はストンと無表情に戻り、グリップをぐっと握りしめる。
「ばあちゃん、行くよ」
 力任せに車椅子を押す。ビクともしない。闇落ちのネギ坊主がゆらゆら近づいて来る。いいよ、来なくていい、放っといて。
「あの…… ストッパー、外さないと」
 高身長のネギ坊主が、高い位置からかすれた低い声を落とす。
「え? あ、そうか、そうね。車椅子、ストッパー、そうか」
 人と話すと、さらに動悸が激しくなる。マズいな。息が苦しい。
「やす子さん、でしたっけ」
「え? あぁ、ば、ばあちゃんの名前? いえ、いく。下島いく、です」
「あぁ、そうすか。間違えた……」
 はぁ? 何なの、こいつ。すみませんとかないのか。見上げると、クマに乗っ取られそうな目が、少し先の空間のどこかを見ている。いや、何も見ていない。

「いんご」
 しゃくり上げているばあちゃんが、乱れた息の途中で何やらつぶやいた。
「は? 何? ばあちゃん」
「いんご、とんらの」
「あ? あぁ、はいはい。インコが飛んだのね」
 誰か助けて。 
「こずえぇ」
 病棟の出入口で私の名を呼ぶ声がする。見ると、じいちゃんが両手を振り振り左右に揺れながら近づいてくる。阿波踊りか? 転ぶぞ。
「じいちゃん、走んなくていい!」
 私の声は、自分でも震え上がるほど刺々しい。それでもじいちゃんは、少し照れたような笑顔で、よろめきながら私の側にやって来た。
「こずえ、すまんかったなぁ。忙しいのに。医者から、ばあさんの治療なんたらっての聞かされとった。ようわからんかったが」
 息を切らし汗を光らせ、無口なじいちゃんが一生懸命しゃべっている。ごめん。じいちゃん。優しくない孫で。
「お? どうしたんか?」
 じいちゃんは、しゃくり上げているばあちゃんに気付いた。
「しらん。急に泣き出した」
「ほうかね。ほれ、ばあさん、泣くな、泣くな」
 じいちゃんは自分の汗を拭っていたハンカチで、ばあちゃんの顔をがしゃがしゃ拭く。それだけでばあちゃんは、なぜか大人しくなる。そして私は、ちょっと羨ましくなる。いいなぁ。私も誰かにがしゃがしゃ拭かれたい。
「さ、戻ろうかの。病室」
 じいちゃんは、さっと車椅子のストッパーを外した。
「あんね、かっこ、いうとき、いしゃで」
 ばあちゃんが細い声を発した。口角によだれがにじむ。
「なに、ばあちゃん。医者? 汽車?」
 突っ立ったままで叩きつけるような物言いの私を、ネギ坊主がチラッと見た。あぁダメだ、教師のくせに。
「えきで、きしゃにのったん。そんとき、はんたいかわにいく、きしゃもとまとって。まどからみえたん。あんたは、まいんち、おんなじせきにすわとった。おぼえとる?」
 ばあちゃんの濁った瞳は、ネギ坊主を一心に見つめている。涙がまたホロホロと落ちて目の下のシワに染み込む。
「ねえ、おぼえとる? きしゃがでる、ちょっとんまに、めぇがおうて。あいさつしたん、まいんち、まいあさ。ねぇ……」
「ばあちゃん?」
 糸を紡ぐように、言葉がゆっくりと手繰り寄せられている。ばあちゃんが、こんなに一途に誰かに話しかけているのを見たのは、初めてかもしれない。元気な時ですら、自分のことは何ひとつ話さない人だったから。

(こずえ、あんたは大丈夫やよ)

 ばあちゃんは、いつでも私の取り留めのないおしゃべりをただただ微笑んで聴き、そして最後に必ず私の頭をなでながら根拠のない(大丈夫)をくれた。淡雪のような儚げな声で。私は、ばあちゃんの声が大好きだった。両親を早くに亡くした私の、たったひとつの拠り所。私はこんなに大人になっても、まだ、ばあちゃんの(大丈夫)を欲しがっている。いつも欲しがるだけ。もう貰えないのはわかっているのに、勝手に逃げ出してイラついて、それでも、欲しがっている。
「ばあちゃん、大丈夫。話して。聴くから」
私はそう言うと、車椅子の横にしゃがんで耳を澄ました。空気の中に漂うかすかな言葉の気配を、ばあちゃんが紡いだ細くて頼りない言葉の糸を、ひとつも聴き逃してはならない気がして。

「きしゃがはっしゃする、あんたは、はんたいのほうへいく」

 きしゃ、汽車? 駅? 反対方向。あぁ、すれ違う汽車と汽車か。ずっと以前、家で見つけた古いアルバムを思い出した。そうだ。あの中にいた、少し緊張した面持ちのおさげ髪の少女。私が生れるずっとずっと前に撮られた写真の、あの少女がばあちゃんだ。少女の向こう側に写っていたのは、ひなびた駅舎だった。
音が聴こえた。街の雑踏の音。風が吹き抜ける。私の目の前に、セピアカラーの町並みが立ち上がる。写真の少女が立っている。
「ねえ、もうええ? 汽車が来るけん。急がんと。ほいじゃ、いってきます」
少女はカメラを構えた父親らしき男性に、そっけなく挨拶をして身をひるがえす。毎朝通学に使う汽車が、ホームに滑り込んで来たからだ。少女は瞳を輝かせて、駅舎に駆け込む。ホームで、パパッとスカートの裾をはたき、セーラー服のリボンを整える。人々が乗り降りする間を滑るように、少女は汽車に乗り込む。いつもの窓際の席。空いてる。急いで座席に座り窓の外を見る。反対方向行きの汽車も停まっている。その窓に一人の青年が見える。凛々しい面立ちの青年。本を読んでいる。少女はうつむいている青年の顔を見つめる。毎日。毎朝。
 ある日、青年がふと目を上げる。ふたりの視線が出会う。電車が動き出しそれぞれの方向に走り出すまでの数秒間、ふたりは見つめ合う。毎日。毎朝。そしていつしか、ふたりは微笑み合い、無言の挨拶を交わすようになる。
 
「あのひ、あんたは、きしゃのまどを、おおきゅうあけた。うちもまど、あけた。ほしたら、あんたが、いんご、りんごを」
 インコ? え? りんご? 
「りんご、とんだ」
「りんごが、飛んだ?」

 青年はある朝、駅に停まる汽車の窓を大きく開けていた。そして少女に向かって、窓を開けてと身振りで示す。少女もそれに応えて急いで窓を開ける。青年は、少女に向かってりんごを見せると小さくうなずき、投げた。りんごは宙を舞い、向かい側の汽車の窓に飛び込む。少女は胸元に届いたりんごを慌てて受け止める。周囲の乗客が驚いたように二人を見る。少女はりんごを手に取り、青年に向かって微笑んで会釈する。汽車が走り出す。青年は弾けたような笑顔を見せ、少女に向かって小さく手を振る。
甘酸っぱい。りんごみたいに甘酸っぱい。カラカラに乾きひび割れた私の心に、りんご果汁並みの潤いが満ちる。
「ありがとう、ユキオさん」
 ユキオ? ばあちゃん、名前、知ってるの? あれ? 私は、ユキオという名前ではないじいちゃんの顔を見た。じいちゃんは、すぐそこにいるばあちゃんを見ているはずなのに、どこか遠くの景色を見ているような目をしてる。ユキオさんって、誰?
「ユキオさん」
 ばあちゃんは、ネギ坊主に語りかける。
「うれしゅうて、うれしゅうて。うち、りんご、たべれんかった。でも」
 ばあちゃんは黙ってしまった。少し首をかしげて目を閉じる。涙が、頬をつたって落ちた。
「それから、どうしたの」
 続きをせがむ私に、ばあちゃんの返事はない。
「渡せんかったもんは、ずっと残るけん。胸ん中に」
 じいちゃんは、独り言みたいに言った。中庭の木立に風が絡む。木の葉が鳴いている。
 ふいにばあちゃんの手が動き、静かに前へ差し出された。その手の先にいるネギ坊主は、誰かに背中を押されでもしたかのようにツトツトと前に歩み出ると、ひょろりと長い身体を不器用そうに折り曲げて、車椅子の前にひざまずいた。
「ありがとな、いくちゃん」
 ネギ坊主は、ばあちゃんの名前をちゃん付けで呼び、枯れた手を両手でそっと包んだ。
(え? いや、あんたじゃないから)と言おうとしたけれど、目を閉じたままのばあちゃんの顔が、ぱぁっと光を放ったように感じられた。可愛い。おさげ髪の少女の横顔とばあちゃんの横顔が重なる。
「りんごにお名前が書いてあって。もう胸が痛いくらいに鳴って、うち、どうしようかと思うたんです」
「恥ずかしかったけど、受け取ってくれて嬉しかった。びっくりさせたね」
 な、なに、これ。ばあちゃんとネギ坊主は、手を取り合って何度もうなずき微笑み合っている。
「うち、手紙を書きました」
「ちゃんと届いたよ。いくちゃんの気持ち」
 ばあちゃんが、またうつむく。 
「うそです。手紙、渡せんかったもの。あれから全然会えんようになって。待ちました。一生懸命、捜しました。うち、ずっとずっと……」
 ばあちゃんの声は、もうばあちゃんの声じゃない。十代のいくちゃんが、黙って去ったユキオさんに切々と訴えかけている。
「いくちゃん。ごめんな。僕も、ほんまは会いたかった。話したいこと、なんぼでもあった。ごめんな」
「もうええんです。でも良かったぁ。ご無事で。こうして会えたもの。本当に良かった。うちね、うちはね、ユキオさんのことを」
「うん。ありがとな。僕もや」
「ほんまに、うれしい」
 ばあちゃんは深い呼吸をした後に、すうっと力が抜けたようになりいくちゃんの笑顔のままで寝息を立て始めた。

 中庭には、ばあちゃんとじいちゃんとネギ坊主と私の四人だけが、夢から醒めきれない表情で取り残されている。大病を患い、暮らしの道筋を忘れたことでばあちゃんの心の奥底に隠されていた忘れられない人が目の前に現れた。何も語らなかったばあちゃんの、淡雪みたいな初恋。
 じいちゃんは、ネギ坊主の肩を軽くポンポンと叩いた。
「すまんかったな。付き合わせてしもうて。ありがとな。でも、ユキオがほんまに戻って来たかと思うてたまげたわ」
「え? じいちゃん、ユキオさんて」
 私とネギ坊主は同時に息をのみ、じいちゃんを見た。
「幸雄は、わしの同級生。一緒に学校に通っとったんよ。わしも、毎朝、汽車の隣の席におったんじゃけどなぁ。ばあさんの記憶からは、きれいに消されとるが」
 じいちゃんはそう言って、また照れたようにちょっとだけ笑った。私はどんな反応をしていいのかわからなくて、黙ったままでいる。
「今まで、いっぺんも幸雄の名前、出したことなんかなかったのになぁ。すっかり、忘れとるんかと思うとったわ」
「今まで、一度も?」
「ほうよ。あの日、りんごに幸雄の名前を書いて放ったの、わし。幸雄、もんすごい照れ屋じゃけん、そういうこと出来んもん。わしゃ、完全に消されとるわ。ほれ、ばあさん、部屋に戻るで」
 じいちゃんは「ほいっ」と小さく掛け声をかけて車椅子を押し始めた。私は慌てて、じいちゃんの背中に問いかける。
「ねぇ、じいちゃん、幸雄さんは?」
「ん? せんそよ」
「え?」
「戦争。わしらん若い頃にゃ戦争があったけん。生き延びれんかったもんは、ようけおる。幸雄もな、戻らんかった」
じいちゃんは私の顔を見て、少しおどけたように言った。
「残ったもんは、頑張らにゃのお。じゃけん、ここにこずえもおる。それでええんじゃ」
 じいちゃんは、誰にともなく歌うように話しかける。
「わしゃ、いっつも幸雄と一緒。昔も今も。じゃけ、安心せえ」
 ばあちゃんの首が、ふっと持ち上がった。そして、ばあちゃんもその歌に応えるように言った。
「だいじょうぶやよ」
「ばあちゃん……」
私の胸の深い場所で、柔らかくて温かい風みたいなものが揺れている。
「じいちゃん、ばあちゃんとは、どうやって」
「あぁ? 昔のことは、忘れたわ」
 じいちゃんはへへへと笑ってばあちゃんと二人、病棟の中に消えて行った。私とネギ坊主は動くきっかけがつかめない。ふたりの影が、長くなる。
「俺」
「え?」
「なんか、すみません、どうしてあんなことをしたのか」
 ネギ坊主はじわりと立ち上がり、叱られた子どものようにうつむいている。
「いえ、こちらこそ」
「臭いし」
「は?」
 ネギ坊主は、探るようにすがるように私の顔を見た。
「汚いし」
「え?」
「もう俺、限界で」
「あぁ、仕事のこと? はい」
「人の役に立ちたいと思ってここに来たんすけど、患者も家族も、スタッフもドロドロしてて、文句ばっか言うし」
 共感しかないです。
「あ、すみません。ご家族の方にこんなこと言って。でも、毎日、吐きそうで。もうバックレるつもりでここにいたんすけど、なんか、さっき、気が付いたっていうか」
「さっき?」
「あぁ、はい。いくさんとご主人見てて。人って、よく見たり聞いたりしないとわからんのだなぁって」
「……」
「ぼんやり見てると何も見えないんすけど、よく見たり聞いたりすると、見えてきたり、聞えてきたり」
 ネギ坊主の言葉はフワフワしているけれど、ぐっと手を握りしめて、さっき見つけた何かを私に誠実に伝えようとしている。
「上手く言えないんすけど、良い事だけじゃなくて、悲しいとか、寂しいとか、口惜しいとかも含めて、人ってその人だけの特別な瞬間みたいなものが、絶対、誰にでもあるんだなって。それって、すげぇなって」
「そう、ですね」
「さっき、いくさん、めっちゃキレイで。ご主人、めっちゃかっけぇって思って。俺、なんか泣きそうになって」
 ふいに、鼻の奥がきゅっとなった。ばあちゃん、じいちゃん、良かったね。
「いくさんは、きっと最初からご主人のこと、恋してたんすよ。ご主人もそうっす。もう、ご主人でも幸雄さんでも、どっちでもいいやって」
どっちでも良くないけど、まぁ、そうだよね。ふたりを見ていたら、本当の事なんて、どうでもいい。
「りんご飛ばしたのご主人で、受け取ったのいくさんで、ずっとずっとその瞬間が二人の心の中に残ってたって、なんか、俺、なんか」
ネギ坊主は呪いが解けた人みたいに、キラキラした空気をまとった介護士・板倉さんに戻っている。そして、涙ぐみながらじいちゃんとばあちゃんの物語を反すうしている。私は、逃げて来た場所を思った。あの子たちにもひとりひとり、心の奥に隠されている特別な瞬間が、ある、はず。だけど私は、それに気づいたことも、見ようとも聞こうともしたことはない。一度もない。いつも、自分のことだけで精一杯。
「あ! あれ? どうしました?」
 板倉さんの顔が急にブワブワと歪んだ。涙が一気にあふれ出した。
「すみません、私もちょっと、いろいろダメでして」
 そこまで言うと、私はばあちゃんにそっくりな声でおんおんと泣き出した。中庭に私の泣き声がこだまする。
「えぇっと、どうしよう。だ、大丈夫ですか?」
 板倉さんは、エプロンのポケットからハンカチを取り出し、「え?」とか「わ!」とか言いながら、いきなり私の顔をハンカチでがしゃがしゃと拭き始めた。
「えぇ! ちょ、ちょっと」
「あぁ! すみません」 
 私は板倉さんのハンカチを奪い取り、自分で涙を拭う。ついでに鼻水も。メイクが流れ落ちて、ハンカチがまだらな黒と肌色に染まっている。何だろうこれ。ヘンなの。そう思ったら、今度は急に笑いたくなった。情緒、大混乱。ハンカチを握りしめてアハアハと笑いだしたら、つられて板倉さんも笑いだした。二人の泣き笑いが中庭に響く。
「すみません。板倉さん、ありがとうございます。私、なんか、少し気が楽になりました」

(こずえ、あんたは大丈夫やよ)

 また、ばあちゃんの声が聴こえた。私は、ほうっと息を整えて板倉さんを見た。
「よくわかんないっすけど、良かった」
 クマに彩られた板倉さんの目は、思いのほか澄んでいて美しい。ばあちゃんは板倉さんに介護されるたび、この目を見て、記憶の彼方に閉じ込めていた幸雄さん、もしくは若きじいちゃんへの恋心を思い出していたのだろう。
「ハンカチ、汚しちゃった」
「大丈夫っすよ。そのままで」
「いえ、洗濯して今度お返しします」
「あ、そうっすか」
 私が年老いた時、特別な瞬間として何を思い出すのだろう。今日のことだと嬉しいな。そして側にいてくれる誰かと、それを丁寧に見て聴いてすくい取り合えるのなら、そんなに幸せなことはないと思う。
「あの…… 俺、まだしばらくこの病棟にいます。しんどいことがあったら、聞きますんで。遠慮なく来てください」
 
 真っ赤なりんごが、宙を飛んだ。
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