薄氷を踏む

文字数 3,311文字

 やり残しはないか?
 やり残しはないか?
 やり残しはないか?

 繰り返し問いかける。自らに。

 最終弁論を迎えるときはいつもそうだ。民事であれ刑事であれ。最後の弁論期日を終えてしまうと、判決などの裁判所の判断、つまり、「裁判」を待つしかない。
 ケアレスミスがあれば責任問題になるだろうし、取り返しのつかなくなることもある。凄まじい金額を左右している事件もあるし、人生に、命に関わることは多い。
 見逃していることがないか、忘れていることがないか、気づいていなかったことがないか、不安になる。


 ――思い返せば昔からそうだった。

 大学入試のときも、試験時間が余って解答の見直しをするときが不安だ。提出してしまえば結果を待つほかない。見直しをしているときに、迷ったあげくにマークを塗り直して、結局はもとの解答のほうが正解だったということもあったし。

 中学入試のときは、二日間の試験期間の二日目の朝が、とても不安だった。
 どんな問題が出るかわからない。試験が始まる前の時間が、不安だった。
 胃に穴が空きそうなほど、ツラい。
 贅沢な悩みだった。日本有数の中学校。そこに合格可能性があって、一日目もそれなりに成果が出せていた。けれど、なまじチャンスがあるほどに、胃が痛い。重圧が凄かった。

 自身では何もやれない時間のほうが、ツラいのだろう。試験問題が出てしまえば、目の前の問題に一心不乱に取り組めばよいのだから。


 だから実は、結果を待っている間がもっとツラい。

 裁判の結果が出るまでの期間が意外と長いものだ。その時間が、あやふやで、ツラい。もちろん、訴訟当事者本人が最もツラいのだろう。ただ、訴訟代理人弁護士として、あるいは弁護人として、プロとして責任を負って、素人の本人に対して請け合っている立場というのも、重圧が凄まじいものだ。

 そしてやはり思い起こせば、入試であれ、合格発表までの期間がツラかったものだ。それは、あやふやで。心は、うつろで、もろい。


 結果が出れば、どうあれ確定しているから、あやふやでもなければ、うつろでもない。

 もちろん、結果がわからない期間のあやふやさを逆手にとる逆説的な場合もないではない。
 例えば、宝くじなり「BIG」なりを毎週百円ずつ買っている貧困者は珍しくないと思う。一年が五十二週ならばたかが五千二百円だ。そして毎回、「どうせ外れるだろう」とは思いながらも、結果を知るまでの間は妄想して、望みをもって、命を繋いで生き延びている。
 とはいえそれは、くじを買った時点で出費が確定していて、それ以上の損がないからなのだろう。


 最近も、破綻した金融機関の英国法人が一ポンドで買い取られたという話があった。
 デューデリジェンスが完了していれば、価値もリスクもわかっているから、無価値でも買い手がつくことも多いのだ。それが、リスクがわかっていないのに買ったら大損するおそれがある。
 ちなみに、英米法ではコンシダレーション、「約因」というものがあるから、いまでも一ドルや一ポンドといった値段を形式的につけて取引されることが多い。もちろん実質的にはタダと同じなのだが、あくまでも売買取引だ、という体裁にしているわけだ。

 損失を確定させてしまえば、あやふやなリスクよりも安全だ。例えば、失敗可能性が高いのにズルズルと続けて最終的な損失を膨らませるよりは、サンクコストを支払って損切りしたほうがマシである。


 あやふやな時間が、結果が出るまでが、心理的にも、とても、不安なのだ。

 刑事事件でも、被告人の情状酌量を求めるため、被害者に謝罪することが多い。
 それで被害者から赦しをもらえればよいのだが、もちろんそんな甘い話にはなかなかならない。
 赦しを乞う行為は、被害者の心の「生傷に触れる」ようなものである。傷が癒えていないのに、トラウマなのに、加害者から「赦してほしい」といわれても、「顔を見るのも堪えない」「二度と関わらないでほしい」となっても、それは当然だ。

 例えばいわゆる「十二ステップ」にしてもそうだ。傷つけた人のリストをつくって、被害者に対して「埋め合わせ」をする、というステップがある。しかしそれも、被害者がその「埋め合わせ」を受け入れてくれるとは限らない。

 赦しを乞うという行為も、利己的な行為なのである。加害者のワガママなのだ。

 そして、加害者が過ちの重さを思い知っているほどに、自らの重圧になる。
 相手から赦してもらえるか、もらえないか。返事が来るまでが、あやふやな時間で、その重圧のほうがツラいものなのかもしれない。結果がわかるまでの間こそが、うつろで、もろい。


 そうしてみると受験生というのは、本人には何ら罪悪もないのに、あやふやな期間を、うつろに過ごしているということなのだろう。
 だからこそおそらく、そのあやふやさから目を背けようとして、かえって試験勉強に打ち込めない受験生がいる。そうして、志望通りに合格しない。
 大学受験や司法試験に「浪人」する人は多い。そうすると、あえて緊張感を抑えようとして、メリハリがなくなり惰性で過ごしてしまいがちだ。私だって経験がある。それで何年も受験生を続けることもある。
 他人事ではない。夏休みの宿題から逃げた経験のある人は多い。とにかくやれば「確定」するものを、見ないようにしてリスクを膨らませ、先送りにしてしまう。サンクコストをとれない心理と似たようなところがあるのかもしれない。
 いつまでもあやふやでいて、そのストレスから逃げようとして、取り組めない。そういう悪循環。


 それにしても、あやふやな状態は、心理的にも不安定で、うつろで、もろい。

 行方不明になっている人は多い。生死不明のまま何年も経ったりする。原因は災害だったり、災害もないのに「蒸発」する普通失踪だったり、さまざまだろう。
 そこで残された近親者の心理状態は、不安定で、うつろだ。
 遺体が出てこない。死んだともわからない。
 「どこかで生きている」と思いたい感情と、「もう死んでしまった」と判明してハッキリしてほしい、語弊を覚悟していえば「ラクになりたい」という感情と。そのせめぎあう葛藤の中を過ごしている。
 「生きているかもしれない」という希望がずっと残されていることも、大変なことなのだ。それは、いつまでも解決しない。傷が完全に癒えることもない。
 私も、そうした依頼者と関わることもある。

 それだけではない。事故災害であれ、事件化させて、目の前の訴訟に一心不乱に取り組む。そのうえに裁判が出て「解決」するということは、当事者にとって救いになる。
 それが、裁判がなかなか出なかったり、確定せず長期化したりするのは、心理的にも負担が大きい、うつろなのだ。
 刑事事件にしても、再審を争って超長期化することもある。本当に大変だろう。


 近親者が亡くなって、葬儀・告別式も済ませて火葬までできたという場合でさえも、遺族の心理が安定するまでは期間がかかるものだ。それならば私を含め多くの人が経験していると思う。
 中陰という概念がある。いってみれば、「この世」から「あの世」に行くまで、「此岸」から「彼岸」にたどり着くまでの期間。七週間、いわゆる四十九日までである。もっとも、浄土教ならば即得往生だが、それでもこの古代インドの言説が中国などで脚色もされて日本で慣習になっているから、「七七日」まで中陰ということで法要を繰り返す。
 死んでしまって確定しているのに中陰もなにもあるのだろうか。瞳孔散大と心拍呼吸停止、あるいは脳死をしたら死亡確定だろうに。
 しかし、遺族の心理はそうあっさりと安定するものではない。「中陰」は、遺族の心理のためにあるのかもしれない。忌中。さらに、一年間は喪中である。人の心にはそうした、曖昧で、宙に浮いたような期間があるのだ。


 あやふやな時間は魔がさしがちだ。死んでしまう人さえ出ることがある。
 結果が出るまでの重圧や、結果を心理的に受け入れるまでの不安定さ。
 そうした期間の、人の存在の危うさ。おそろしいものだと思う。

 私には、何ができているのだろうか。
 うまく、やれているだろうか。
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