文字数 2,756文字


 変な言い草だが、譲り受けた以上、いままでどおり昼夜逆転の生活を続けるわけには行かなかった。塾での待遇は、いまでいうフリーターの身分であった。塾長とはいえ、名ばかりのそれは、必ずしも将来を保証するものではなかった。
 一緒になるには、生活力を持たなければならない……。
 わたしは、塾を辞めることにし、以前勤めていた会社に再度雇ってもらえるよう、恥を忍んで頼みに行った。大学院に入るため、という名目で辞めさせてもらった会社だった。
 当時の専務は社長になっており、わたしが辞めるときには、餞別代わりという名目で、三ケ月間の有給休暇をくれたひとだった。
 その社長のもとに頼みに行くと、彼はよく戻ってきてくれた、きみの都合さえよければ明日からでもいい、と快く再採用に応じてくれたのである。
 蓄えのまったくなかったわたしは、引越し費用を母親に無心し、小さなマンションを借りた。元夫の住む北白川とは、まったく離れた嵐山での新居であった。
 わたしたちは、休みの日になると付近の寺院を散歩し、大堰川の流れや渡月橋などの景観を楽しんだ。市内のそれとは違って、嵐山には都心にはない素朴さと静けさがあった。
 しかし、好事魔多しで、給料はあまり多くもらえなかった。こちらから頼み込んだことゆえ、正規の社員にしてもらえただけでもありがたく思わなければならない……。
 にも拘らず、せっかく快く受け入れてくれた社長には大変申し訳なかったが、わたしは、その高に不満をもった。
 というのも、結果的に実行できなかったものの、彼ら夫婦がともに働くことで返済していこうとしていた高級マンションのローンをほんの一部でも負担することができたらと、実に分不相応なことを考えていたからだった……。
 だが、給料袋の中身は少しずつしか増えず、生活は一向に楽にならなかった。もともとなにも持たなかった一人暮らしの倹しい生活とは違い、洒落たインテリアや観葉植物好きの彼女の趣味が反映された生活だったから、なおさら物入りだった。
 このころには、彼女も働いていた。たまたま近所で募集していたフラワーブティックの求人広告に目をつけ、応募した。その結果、いたく気に入られ、一日五時間のパートタイマーであるとはいうものの、そこの店長をさせてもらっていたのであった。
 ある日のこと――。
 会社にいるわたしに、電話をかけてきた者がいた。
 以前 この会社にいた男であった。
 男は、わたしを呼び出した喫茶店で言った。
「わたしはいま、ある会社に勤めている。その会社は、きみのような人材を必要としている。ぜひ、きみに新事業部門の仕事をやってもらいたいんだ」
 条件を聞くと、ボーナスもよかったし、給与もよかった。
 さもしい話だが、わたしは、その可能性に賭けようと思った。グループ会社の人事部門で、当時まだ珍しかった派遣のための新人教育や研修マニュアルづくりを担当してほしいというのだった。
 妻に話すと、最後は渋々了承してくれたものの、せっかく生活も安定し、少しずつ軌道に乗ってきたというのに、いまここで辞めないほうがいいんじゃない、と釘だけは刺したのだった……。
 しかし、わたしは貸す耳をもたなかった。
 少しでも実入りの多い仕事に就きたいと思った。
 彼女の生活ぶりに感嘆し、自分でもそれにどっぷり浸かり、その嗜好のさまや感性の見事さを知るにつけ、彼女の思いを満足させられる給料がほしいと思った。人生七十年としたら、まさに三十五歳の折り返し地点だった。わたしは焦った。
 売り手としての転職は、もはや最後になるだろう。いまをおいてほかにない。
 いまがチャンスなのだ――。
 いまよりも、もっと彼女が輝く笑顔を絶やさない日々が送りたい。嬉しさと喜びで、彼女が湛える満面の笑みをいつまでも見ていたい……。
 それには、あの話に乗るしかない――。
 実に短絡的であった。直情的なわたしに固有の思考であった。
 わたしは、勇を鼓して社長に詫びを入れた。丁重な慰留のことばがあったが、半ば後ろ髪を引かれる思いで固辞した。仲間や上司が送別会を開いてくれた。今度こそは、戻ってくるなよ。それがわたしに対する愛情から出たことばであるとわかっていた。
 そして二カ月後、わたしは男のいる会社に就職した。
 だが、見ると聞くでは大違いだった。
 わたしのおめでたい思惑は見事に外れ、わたしをスカウトした男も、いつの間にか会社に姿を見せなくなっていた。入社して半年ほどでしか経っていなかった。部門が違ったので、あまり顔を合わさなかったのだが、気がつくと、すでに退社していたのである。
 それからの日々は、転勤につぐ転勤、出向につぐ出向、研修につぐ研修と、あちこちの部署と部門、そして関連会社に行かされ、新人教育という名の元に他の社員ともども大いに振り回された。
 新人が入っては辞めて行った。その都度、新しい名刺がつくられたが、すぐに要らなくなってしまった。そうこうするうちに会社も、自慢の自社ビルも、地上げ屋もどきの男に乗っ取られ、社員は蜘株の子を散らすようにいなくなっていた……。
 いまさら戻るとは言えなかった。同じ会社へ三度も戻る莫迦がどこにいよう。
 せっかく快く雇ってくれたというのに、給料が自分の気に染まないというだけで、後足で砂をかけるようにして辞めていったのだ。
 社長に合わす顔がなかった。わたしは、初めて苦悩した。
 あのひとのいい社長を裏切ってから、まる五年が経っていた……。
 四十を過ぎた男の就職口が、そう簡単に見つかるとは思えなかった。案の定、仕事は見つからなかった。失業保険の期間もあっという間に過ぎて行った。
 それからは、どこへ行っても、どんなところに勤めても、会社は三年と持たずに倒産した。そういうことが三度も続いた。
 最高で三年、最低で一年と四ヶ月だった。締めて六年が矢のように過ぎた。
 罰が当たったのだろう。わたしは思った。
 さもなければ、かつて取った杵柄ということで、似たような不況業種ばかりにチャレンジしていたからかも知れない。あるいは、潰れそうなところだったから、雇ってもらえたのかも知れなかった。
 しかし、せっかくチャンスを掴んだと思っても、まるで砂で固められた城のように、相手のほうから崩落して行くのであった。
 いまにして想えば、それらはすべて自分の蒔いた種だった。
 そうとは知らず、わたしは相変わらず自惚れの強い、嫌な男のまま、世間を渡ろうとしていた。潰れそうな会社だから、救いを求めて雇ったが、その期待に応えられるほどの力量を持たない新人だったがゆえに、会社は本来の運命どおりに自壊して行ったのである。
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