第1話

文字数 1,666文字

 バタン。
 玄関ドアの閉まる音が、なんだかいつもよりも重く部屋の中に響いた。
 ふぅーと深く息を吐くと、浅く腰かけていた二人掛けソファーの背もたれに背中をもたせかける。
 終わってしまえば、あっけないものだな。
「煙草臭くなるから、新居で煙草は吸わないで」
「使い終わったら、ちゃんと元あった場所に戻して」
 大雑把なように見えて意外と神経質で、事あるごとにちまちまダメ出しをされ。
 ため息を吐いただけで、「なに? なにか文句でもあるの?」だ。
 こんなはずじゃなかった。
 いや、多少の『こんなはずじゃなかった』は我慢するつもりだった。
 所詮、結婚なんてそんなものだろ?
 先に結婚した職場の同期や大学の先輩の話から、そのくらいの覚悟はしていたつもりだ。
 つもりだった。

「ねえ、あたしのこと、ホントに好き?」
「……わからない」
 目をそらして答えた俺に、短く「そう」と言うと、あいつは寝室へと消えた。
 そして次に姿を現したときには、大きなスーツケースを片手に、俺に一枚の紙きれを突きつけてきたのだ。
「さよなら」
 俺がひと言も発する間もなく、あいつの姿は玄関ドアの向こうへと消えた。

「マジで訳わかんね」
 今の率直な気持ちを、あえて声に出してみる。
 俺のなにが気に食わなかったというんだ?
 煙草だって家の中では吸わないようにしていたし、使ったものの片付けだってちゃんとしてきた。
 俺にできることならと、できる限りあいつの要望に応えてきたつもりだった。
 それが『結婚』ってやつだと思っていたから。
 ひとつ間違ったとすると、さっきの「わからない」というやつか?
 好きだから結婚したに決まってるじゃないか。
 好きだからこうやって一緒にいるに決まってるじゃないか。
 なのに、俺の口から出た言葉は「わからない」だった。
 なんだよ、「わからない」って。
 俺が聞きたいよ。
 大きなため息をひとつ吐くと、立ち上がり、スーツのポケットから煙草の箱を取り出した。
 もう、この部屋で吸ったって文句を言ってくるやつもいない。
 もう、俺の好きなようにすればいい。
 もう一度ソファーに座り直すと、素早く煙草を一本取り出す。
 ライターで火を点けようとして、すんでのところで火を消し、箱の中に煙草を戻した。
 壁の掛け時計に目をやると、昼の12時を少し過ぎたところ。
 朝が遅かったせいか、まだ腹も減らない。
 こんな隙間時間を、いつもなにをして過ごしていたっけか。
 傍らに置いたスマホを手に取ってはみたが、特にやりたいことがあるわけでもなく、すぐに元あった場所に伏せて置いた。
 次にローテーブルの右端に手を伸ばすと、テレビのリモコンを手に取った。
 電源を入れた途端、テレビから漏れ出す笑い声。
 いつもあいつが好んで見ていたお笑い番組だ。
 いつもの声、いつものメンバー。
 そのはずなのに、なにかがいつもと違う。
 右隣を見ると、そこにいるはずのあいつの姿がない。
 そうか。いつも隣から聞こえてくるあいつの笑い声がないんだ。
 そうか。あいつ、出ていったんだっけ。
 俺なりに、この結婚生活を守ろうとしてきたつもりだった。
 一体、なにが足りなかったというのだろう。

「数年に一度、花が咲くんだって。いつか一緒に見られるかな」
 テレビの横に置かれたドラセナ——通称『幸福の木』と呼ばれるこの観葉植物を店先であいつが見つけたとき、興味津々な眼差しでずっと見つめていたっけ。
 ——ああ、そうか。
 俺は『今』しか見ていなかったのか。
『今』の生活を守るため。
『今』のあいつを怒らせないため。
 あいつはちゃんと俺たちの『未来』を見ていたんだ。
 少なくとも俺だって、結婚を決めたときには思い描けていたはずだ。
 あいつとの未来を。
 もう一度、きちんと話そう。
 俺たちのこれからを。

 プルルルルル、プルルルルル……。
 長い呼び出し音のあと、『はい』と固い声が聞こえる。
「今どこ?」
『電車——乗ろうと思ったけど、やめた』
 あいつの言葉に、安堵のため息が漏れる。
「もう一度、ちゃんと話そう。俺たちの、これからのこと」


(了)

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