おみおくりの作法 

文字数 11,627文字

 「おみおくりの作法」(原題 Still Life)というイギリス映画を見た人は多くないかもしれない。ゆっくりと穏やかに進むストーリーと場面展開につられて、生きている意味と死について、あれこれ考えさせられる映画だ。
 ロンドンのある地区の民生係員として、孤独死した人の葬儀までの手続きを行うジョン・メイという男性の物語だ。彼自身にも親族はなく、友人と呼べる人もいない。性格はとても几帳面で誠実だ。仕事の仕方もとても丁寧で、通常、身寄りのない人の葬儀に余計な手間をかけることはないのに、彼は死者の部屋を丁寧に見てまわり、アルバムなどそこにつながりを見出せる遺品を見つけては、事務室に持ち帰って、それを頼りに死者の親族や関係者を探しだして参列を促したり、死者に相応しいものを用意したりして、おみおくりの場を整えるようにしている。
 しかし、上司は、そんな彼の仕事ぶりを無駄な手続きと感じていて、行政の合理化で地区合併が行われた際に、ついに彼は解雇を通告される。物語は彼の最後の仕事となる死者のつながりと関係性を巡って展開され、大団円を迎えることになる。

 おみおくりで思い出すのは、もう三十三回忌を超えてしまった母の死だ。
 享年五十四歳だったが、実際の年齢は五十三歳まであと八日というタイミングだった。年齢にこだわるのは、母自身が生前「自分の母親よりは長生きしたい」と言っていて、その母親が五十三歳で亡くなっていたからだ。
 母の死のちょうど三年前、父が家を出ていき、母が親しかった近所の友人と暮らすようになり、その後、父母は離婚した。その友人は私もよく知っていた人で、夫だった人にゴルフを教えていただいたことが何度もあった。息子のひとりは家庭教師の教え子でもあった。私にも大きなショックだった。伝統を守り、派手な振る舞いを好まない人々が多い田舎では、かなりのスキャンダルだったことは間違いない。
 父は短気で我儘なところがあって、それまでの生活で積み重ねてきた母の苦労も並大抵ではなかったが、離婚に至った経緯で受けた激しい心の傷と無念な思いは、想像を絶するものがあった。母の死はその傷からやっと立ち直りかけていた矢先だった。
 死の瞬間、どれほど無念な思いだったろうと想像すると、いまでも涙がにじむ。
 父は、旧中山道沿いで魚屋を営んでいた祖父の死後、そこを引き継いだ。ちょうど、それまで住んでいた自宅近くに自分の店を持つ予定で準備に取り掛かっていたところだったが、二人の兄の説得もあったのか、祖父の店を継ぐことにした。
 結婚後、父に従って、いつも一緒に仕事をしてきた母も従事者のひとりとなった。魚屋と言っても、店頭での小売りよりは仕出し料理の売り上げが多く、土、日が忙しい商売だった。フライを揚げたり、魚を焼いたり、煮物を作ったりするのは母の仕事で、仕出し料理の盛り付けも主に母がしていたので、毎日、父より慌ただしく動いていた。
 父にはこの地域に幼いころからの友人や知己がたくさんいたが、母のこの地域での知り合いや友人は、この店に立ったことによって得た人たちだ。
 そうした人たちの支えもあって、父との離婚後も母は弟と一緒に魚屋を続けた。
 ただ、核家族化の影響もあってか、仕出し料理の需要が極端に減り、一年半後には店を続けることが困難となった。母と弟の二人で廃業を決めた。
 その後、母は自宅から車で十分ほどのところにある給食センターで働き始めた。母が倒れたのは、その給食センターで早朝から弁当に詰める焼き物をしているときだった。一緒に働いていた人の話では、「あっ」とだけ叫んで、あとは木の葉が散るようにひらひらと倒れていったようだ。救急車で病院に運ばれ、私と弟が駆けつけたときは医師が心肺蘇生の処置をしていたが、すぐに死亡が確認された。朝の七時を少し過ぎたばかりだった。
 母の死が告げられてからは、悲しみに浸っている時間はなかった。
 妻、弟と世話になる寺と葬儀屋を決めたあと、母の里子でもあったふたりの従妹と近くに住む妻や弟の妻の親族を集めた。
 葬儀屋の世話で母の遺体はいったん自宅の和室に安置された。安らかな寝顔のように思えた。駆けつけたおっさまに枕経をいただいたあと、その日の通夜と翌日の葬儀の段取りを決めた。遠くに住む母の兄妹に電話連絡し、母と親しかった近隣の人に母の死を知らせ、町内会長のところに行って、葬儀会場として公民館の使用許可をお願いした。
 昭和の最後の一年となった当時、岐阜市の南はずれにある片田舎では、どの家庭でも葬儀と言えば、自宅かどこか適当な場所を自前で借りて、あとは葬儀屋の世話で祭壇などを整えるというのが普通のやり方だったと思う。私は、通夜と葬儀・告別式を公民館の二階の大広間を借りて行うことにした。
 自宅に戻り、自分の職場や友人に連絡した。父や近くに住む父の兄には連絡しなかった。母の最期の言葉がなかったので、これまで何度も聞かされた、「お父ちゃんを許してはいけない」という言葉だけが心に重くのしかかっていた。連絡したとしても、近所の手前、顔は見せられまいとも思った。ただ、父方の親戚筋のひとりにだけは連絡をした。
 その後、葬儀屋と契約の細かな内容を詰め、自宅と公民館を何度も往来し準備を進めた。祭壇や供物、供花も順次配置されていって準備が概ね整ったところで、棺を配置し、自宅から移動した母を納棺した。
 通夜に駆けつけ、広い座敷に並べられた座布団に座って、母のことをよく知ったおっさまの読経と法話を聞いていた人は、六、七十人だったと思う。母や私たちの親類縁者はもちろん、私や弟の関係者の姿もあったが、圧倒的に多かったのは、母と親しかった近所の人々だった。父や父の親戚の人の姿は見かけなかった。
 儀式が終わると、身内ばかりになって、久しぶりに顔を合わせた人との話も弾んだ。父が来るのではと身構えていたが、その後も父は姿を見せなかった。
 親戚の人や従妹ふたりもそれぞれの住まいにいったん帰り、娘の世話がある妻も自宅に戻ると、弟とふたりで棺の前に置かれた線香の守りをしながら、母との思い出を語り明かした。
 翌日の葬儀への参列者はさらに多かった。焼香が始まって答礼に立ったときにも長い列ができていたが、喪主として挨拶するため公民館の二階の踊り場に立って見下ろしたとき、公民館を囲むように参列者が沿道を埋め尽くしていた。二百人以上はいただろう。名もなく世間での貢献実績もない母。商売を通じて、ただひたすら働く姿だけを見せてきた母のおみおくりにこれほどの人が集まったことに感謝の念が湧いてきた。父母が魚屋を継ぐ前に住んでいた地域の人たちの姿もあった。母と親しかった人たちが何人も目頭を押さえていた。いったいどのようにしてこれだけの人に母の死が伝達されたのか、地域のつながりと関係の強さを改めて思い知った。
 私は、母が馬車馬のように働き続け、働きながら死を迎えた人生を語った。泣きながら頷く大勢の姿があった。会葬者への挨拶を終え、棺の周りに親族が集まって告別式を行い、出棺を終えて火葬場に向かった。
 火葬場で骨上げを終え自宅に戻ると、お骨が小さな祭壇に移り、町内の人々も交えた親類縁者が座敷に集まった。初七日の法要を行い、そのあとで精進落としを行った。
 葬儀の翌朝、寝不足の私に容赦のない時間だった。階下におかれた黒い電話のベルがけたたましく鳴った。嫌な予感が目覚める前からあった。
 受話器を取るといきなり、「馬鹿野郎」と怒鳴る声が聞こえてきた。なぜ母の死を知らせなかったのか、親戚の者も近所に住んでいるのに大恥だ。親子で知らせないということがあるかと物凄い剣幕で捲し立てた。幼いころから何度も経験してきたことで、こういうとき私はひたすら黙していた。ただ今回だけは違った。
 お悔みもなく、「世話になった」、「気の毒なことをした」、「可哀そうなことをした」という詫びもない。「三十年間暮らすなかでつらい思いもさせてきた」、「認知症の母親の面倒をよく看てくれた」、まず語るべきことがたくさんあったはずだ。私は生まれて初めて父に怒鳴り返していた。内容ははっきりと覚えていないが、知らぬ間に降りてきて背後にいた妻が、泣きながら私の胴回りを抱えて、「いいの。いいの。やめよ」と怒りを鎮めようとしていた。
 このやり取りがどう収束に向かったのかは思い出せないが、父が「その家は俺が建てた家や。俺が住む」と喚いて、「近いうちにそっちへ行く」と言い残して終えたように思う。
 葬儀の翌日も慌ただしいので気持ちを切り替えた。近くに住む身内や町内会長、母と親しかった近所の人々や、母の勤務先だった給食センターの社長宅などを訪ね、お礼の挨拶をした。そのあとお布施を携えておっさまの寺に向かった。
 父や父の親戚のこともよく知るおっさまは、頼りになる相談相手だ。電話で交わしたやり取りを話した。記憶にある限りを語るうちに、悲しさで涙が止まらなくなった。おっさまはじっと聞き入って、「それはいかんなあ」と言い、近いうちに父方の親戚が集まる法事があって出向くので、「一度探りを入れてみよう」と言った。
 四十九日までに仏壇を用意したいと思ったので相談したら、日取りを決めて仏壇屋まで同行してくれることになった。その翌日、翌々日の二日間で、私の仕事先の挨拶回りをした。
 四十九日の法要を終え、おっさまから家庭で読むための経本をいただいたので、般若心経、消災呪、延命十句観音経などの読経を一周忌まで続けることにした。信仰心があるわけではない。ただ仏壇の前に座って、母のために何かをする時間を持ちたかった。そして、心のなかで反芻していた。おみおくりの作法として、父への態度は正しかったのだろうか。

 その後、父が私を訪ねて来ることはなかった。父もさすがにこの地で私と喧嘩をして、さらに評判が悪化することは避けたかったかもしれない。妻や八歳と五歳になっていた二人の娘の存在を前に、家を出て行けというような話はしにくかったかもしれない。それとも新しい仕事で忙しくしていたのだろうか。あるいはおっさまが何か話してくれたのかもしれない。
 父と会ったのは、父が肝硬変で入院した病院だった。
 母が亡くなってから十年以上経っていた。東京で単身赴任していた私に、弟から携帯電話で連絡があった。弟は母の死後も何度か父を訪ねていた。もちろん私は承知していたし、そのことに感謝していた。そのときの弟の表現では、「お父ちゃんは百八十度人間が変わったよう」だった。
 父は痩せ細った白髪いっぱいの弱々しい老人になっていた。確かに昔の面影はまったくなかった。ベッドの上で半分身を起こして新聞を広げていた。昔から新聞を読むのが好きだった。
 「立派になったお前のことが出ていないかと、毎日楽しみにして目を通しているんだ」
 かすれたゆっくりした口調だった。思いがけない言葉に心が詰まった。
 私が仕事で東京に住んでいることも知っていた。若いころ東京に住んだ経験のある父は住んでいる場所や、東京の様子を尋ねた。一緒にいた妻には娘たちの成長ぶりを尋ねた。
 話が途切れたときに、付き添っていた奥さんが聞き覚えのある口調で、「とにかく医者のいうことを聞かないので困る」と小言を言った。父は「黙っとれ」と叱った。奥さんは父が点滴を付けたまま病院を抜け出して、居場所が分からなくなり、病院の人たちで探しまわった話をした。煙草もやめないとのことだ。やはり変わっていなかった。
 父には生きる気力があるようだった。退院したら働いて少しでも金を残せるようにするとも言った。私は「医者の言うことをよく聞いて早く元気になってよ」と話して帰った。
 二度目に会ったのは父の自宅だった。この日も妻と弟の三人で行った。自宅は奥さんの実家が所有する借家だ。体調がいいようには見えなかった。「調子が悪いのに無理に動いたり働いたりしようとする」と、奥さんが小言を言った。
 十五分ほど話したあと、父が「外に見せたいものがある」と三人を外に連れだした。歩くのがかなり辛そうだった。奥さんが止めたが、父は聞かなかった。外に出た父が竹の生垣を指したので、家の増築さえしたことのある器用な父が、自分で作ったのを見せたかったのだろうとすぐにわかった。父は何も話さずさらに先へ進んで、道を隔てた駐車場に来たところで、「俺はあいつとはもう別れる。別れてお前のところで一緒に住もうと思っている」と私に向かって言った。すかさず弟が「何を言ってるんや、お父ちゃんは。奥さんが懸命に世話してくれているのに、阿呆なことを言ったらいかん。さあ、家に入ろう。奥さん大事にしんと、他に誰も看病なんかしてくれんぞ」と言った。私の頭のなかにも同じ言葉があったように思う。
 その後、仕事が多忙で東京から離れることができずにいたあるとき、弟から父死去の連絡があった。通夜が翌日で、葬儀・告別式が翌々日になり、自宅近くの葬祭場で行われるとのことだった。喪主は奥さんで、奥さんの身内と親戚の人が中心になって準備を進めているという。私は微妙な立場だったが、弟と同じく通夜から顔を出すことにして、東京をあとにした。
 通夜が始まる前に、父の兄など親戚の人たちも集まってきた。十五年は会っていない人ばかりだった。一緒に住んでいた時期があって、幼いころから兄弟同然に仲が良かった五歳年上の従兄もいた。
 通夜の儀式を終えて、近所や親戚の人が帰ったあとで、妻も自宅に帰った。弟と先の従兄と私の三人が父の棺の前で話し続けた。それぞれの近況の話をひととおり終えると、幼いころからの思い出話になった。しばらくして従兄も奥さんも帰ったので、弟とふたりで線香の守りをしながら語り明かした。
 葬儀への参列者は私が思っていたよりは多かった。近隣の人たちもかなり来ていたようだ。「いい人だったのに」と語っている声を聞いた。一般焼香が始まるとき、奥さんが焼香台の右側に向かった。そのとき、名古屋に住む二歳年上の従兄が、私に答礼に立つよう促した。私が躊躇しているように見えたのか、軽く肩をたたいて焼香台を指した。私は左側に立った。
 告別式を終え、会葬者用のマイクロバスには乗らず、自分の車で火葬場に向かった。火葬炉から出てきた骨の状態を見て、火夫が「悪かったところがたくさんあったことが分かる」と解説していた。
 初七日の法要が予定されていたので火葬場から父の自宅に帰るとき、大阪の義伯父と伯母が私の車に乗せてほしいと寄ってきた。幼いころからとても世話になった、親戚中で最も好きな優しいふたりだ。高校三年の夏休みには、ひとりで訪ねて一週間ほど滞在させて貰った。
 車中で義伯父が「お父さんのことで苦労したね」と話しかけてきた。「お母さんはたいへん可哀そうなことをした。お世話になりながら十分なお礼もできなかったのが残念だったよ。ジョーくんの気持ちはみんな分かっているから、いつでもまた遊びにきなさい」と言った。義伯父、伯母はずっとこのことを語りかったに違いない。葬儀でも火葬場でも涙しなかったのに、運転しながら涙が溢れそうになった。
 母の葬儀、父の葬儀を終えて、おみおくりの作法のあり方に蟠りを抱き続けていた私の心を癒すような言葉だった。

 ジョン・メイは最後の仕事のために退職まで三日の猶予を与えられ、いつものように死者の関係者を探る。死者はメイの自宅の至近にあったアパートに住んでいた。部屋にあった身分証明書からウィリアム・ビリー・ストークという名前が分かるが、死後数週間経っているため遺体の顔がその当人かどうかの判別ができない。部屋から持ち帰ったアルバムにあった帽子をかぶっている男性の写真から勤務先を突き止め、親友だった人も分かる。
 メイはかつての親友に葬儀への参列を依頼するが返事を濁される。その男性から親しかった女性を教えられ、イギリス北東部にある港町ウィットビーまで足を運ぶ。散々駆けずり回ったうえ、やっとの思いでビリーと一緒に暮らしていた女性メアリーにたどり着く。メアリーとビリーの間には娘と息子がいたが、娘はアルバムで前もって見ていた少女ではなかった。
 ビリーは、メアリーに近寄る男性とトラブルを起こして以来、人が変わったように乱暴な男になり、しばらくして家を出て行った。刑務所に入ることになったのだろうとメアリーは語った。
 事務所に戻ったメイは上司に、ビリーの調査のためもう三日ほしいと願い、上司は無給なら構わないと許可する。
 刑務所に向かったメイは、ビリーが服役していたことを知る。内務省に赴き、ビリーの暮らしていた場所が分かる。ビリーは現地に向かい、そこで写真の少女を突き止めた。ケリー・ストークという名の彼女はすでに三十歳くらいだ。ケリーに父の死と葬儀の日程を告げたが、彼女は参列を辞退した。ただ、ビリーの部屋にあったアルバムを渡すと、嬉しそうに受け取った。
 ビリーはケリーが十歳のときに家を出て、音信不通となった。十八歳の誕生日に電話をくれたが、最後に会ったのが出所直前の面会で、その後一度も会ってなかった。ケリーの母親は三年前に他界していた。
 メイはさらに調査を続け、ビリーが路上生活をしていたことがわかると、路上生活者にも葬儀の知らせをする。
 事務所に戻って、資料に「調査終了」を書き込んでいたメイに、ケリーから葬儀に参列したいとの連絡がある。
 ケリーと再会したあと、ケリーへのプレゼントを購入したメイは、何かしら光がさしたような気分で店から車道に出たところで、赤い二階建てバスに轢かれてしまう。
 ビリーの葬儀には、ケリーはもとより、メアリーと娘、友人たち、路上生活者など総勢二十名ほどの人が集まって、故人を偲び、おみおくりをしている。
 その横で誰にも知られず、ひっそりとメイの葬儀が行われていた。おみおくりの作法に思いを寄せる人はもういない。
 日当たりのいい場所にあるメイの墓地が長いショットで映される。見ている人にはいろいろ考えることがあるだろう。その時間をくれたのだと思っていたところに、思わぬシーンが飛び出す。そのシーンを語ることはできないが、思わず「そう来たか!」と叫んだ。

 私は生きとし生けるもの、大地や海が育むもの、人がつくりだしたものなどの、すべてのつながりと関係性の相互作用によって変化していく総体を場所と呼ぶようにしている。
 たとえば、私は父と母から受け継いだ半分ずつの遺伝子のつながりと関係性の相互作用によって、母の胎内で私としての形を成すよう細胞が変化したのちに、体と心を持つひとつの場所としてこの世に誕生した。
 誕生後は、私の体と心を育むためのつながりと関係性の相互作用によって、私のなかに父母という場所ができた。そして、その場所で育ちつつあった感覚や感情の場所に、言語の場所が形を成してきた。言語はそれ自体が歴史と体系を持ったひとつの場所だ。父母が話す言語を通じて、私の外で広がる世界のつながりと関係性を少しずつ理解できるようになっていった。
 その後、成長に応じて広がる、親戚、地域、学校、職場などでのつながりと関係性の相互作用によって、私のなかに無数の場所を積み重ねていくなかで、私は変化を続けてきた。積み重なっていく場所を行ったり来たりしながら、無意識のうちに場所に応じた感覚や感情、言語のあり方を体得し、場所に応じて意志や行動を決め、自分を演出しながら、私という存在が変化を続けているのだと考えている。
 人は死によって、両親から与えられ、その後自らが育んできた体とその内側にある心としての場所を失う。しかし、ちょうどその体を構成していた細胞のひとつひとつによる場所が、三十八億年とも言われる生命の進化の過程で育まれてきた細胞のつながりと関係性の相互作用が共有する場所を形成するように、その人が心に積み重ねてきた感覚や感情、言語を介した思考や意思決定を生むニューロンやシナプスのつながりと関係性の相互作用は、私の外側で無限に広がっているさまざまな世界とのつながりと関係性の相互作用によって共有する場所を形成していく。
 その共有する場所によって互いの存在は位置づけられる。ときには共感し、ときには反感を抱くなど、相互作用と変化を重ねながら、積み重ねられてきた経験によって、互いの存在がそれぞれの場所となって変化し続ける。
 私の父母は他界して久しいが、私のなかで確かに存在している。その存在は父母という場所の父と母であったり、父という場所の父、母という場所の母であったりするが、いまでも語りかけるべき存在だ。私の体と心としての場所を失ったときにその存在もなくなるが、父母と何らかの場所を共有したことのある人たちのあいだで引き続き存在していくのだろうと思う。

 私はこの映画のタイトルを「おみおくりの作法」としたことが、日本人にこの映画を深く理解する手掛かりを与えていると思う。よくあるように、英語をそのまま「スティル ライフ」とカタカナ表記したのでは、映画を見た上でその意味を解釈するか、英語を翻訳して「静物」と理解するかもしれない。
 ジョン・メイは、孤独死した人の遺品を頼りにその人の存在した場所を突き止め、その人がつながる人やモノとその関係性を探り、ときにはつながりを修復したりもして、おみおくりの場でそうした人やモノによって、その存在が確認されることにこだわった。
 「おみおくり」という言葉には、ジョン・メイの律儀で誠実な心が暗示されているのだろう。同時に「作法」という言葉には、この映画が人と人や自然、モノなどとのつながりと関係性のあり方を問うていることを暗示している。作法は、彼がこだわったおみおくりの流儀にあり、そこに彼の人格や人と向き合う姿勢が表現されているのだと思う。
 日本題にしろ「Still Life」という原題の意味にしろ、解釈は人それぞれだろう。ただ、それを考えるときに最後のシーンを忘れてはならない。シーンが何かは想像に任せるとしても、それは私流に表現すれば、親族もなく友達もなく墓を訪れる人もいないと思われたジョン・メイが、確かに生きてきた証となる彼を中心とした場所だ。彼とともにその場所を共有する人々こそが、彼の存在を確かにしているのだ。
 そう思ってStill Lifeという原題を見直してみると、それはそれで深い意味があるように思える。

 孤独死をした人の葬儀に限らず、昨今ではおみおくりの儀式がかなり簡素なものになってきている。テレビなどでは「小さなお葬式」というキャッチフレーズで家族葬のお手伝いをする葬儀屋のコマーシャルが流れている。
 かつては、死者の関係者ばかりでなく、死者自身は知らないが、その親族が勤務する職場の人やその取引先や地元銀行の従業員の誰かが代表して、多くの香典を預かって参列していたり、議員など地元有力者やその秘書などが参列したりして、葬儀をにぎわしている風景がよく見られた。葬儀での受付などの対応については、勤務先や近所の人たちの援助がある場合が多いが、それでも葬儀の日以後の対応も含め遺族にはかなりの負担となっていた。
 母の葬儀でも、私の職場の人が私を知る大勢の人の香典を預かって葬儀に参列し、葬儀当日の対応についても助力いただいた。私はそうした人たちへのお礼で二日間職場まわりをした。その後、四十九日を終えたころに挨拶状を副えて参列者に香典返しを送った。
 こうした慣習や儀式のあり方が簡素化されていくのは、核家族化、近所付き合いの希薄化、高齢社会の進展、単身世帯の増加などに伴う必然の流れだろう。最近では、葬儀の日程などを知らせる訃報に、「香典お断り」や「会葬、香典はお断り」といった文言が付加されていることが多くなった。著名人でも葬儀は血縁者で行い、葬儀後しばらくしてから、故人を悼む人々でお別れ会を催すことが多くなっているのは、そうした流れのなかで起こっていることだろう。
 その流れを一層加速化あるいは急進化したのは新型コロナウィルスの感染拡大だ。感染拡大防止のため参列者を制限する動きは、感染拡大が抑えられたとしてもそのまま進行し、死者の弔いに独自の風習を持つ地域にも拡大して、常識化していくように思われる。
 そうすると行き着くのは、葬儀とはいったい何か、誰のために行われるべきものか、という問いになるだろう。
 特定の宗教を信仰する人や先祖伝来の仏壇を守っている人などにとって、葬儀はその宗派などにおける死者の捉え方や死者への向き合い方、あるいは伝統に則って行われるのだろう。しかし、私のように、生命の探求が進む科学に大きな信頼を寄せる人間にとっては、三途の川も天国と地獄も無縁で、宗教的な儀式などは意味をなさないように思われる。
 私は母のために置いた仏壇の前で一年間読経を続けたおかげで、いまでも時折試みることがあるが、多くは心を鎮めたり落ち着かせたりするための、瞑想の一つとして行っている。葬儀に必要な儀式とまでは考えていない。
 そうすると、たとえば私の葬儀なら、最近たびたび見かける宗教色のまったくない自由葬ということになるだろうか。宗教的な儀式なら作法が決まっていて、それにしたがって進められるが、自由葬ならどういう作法がふさわしいことになるのだろうか。
 悲しみのなかで動転している遺族が、葬儀の形式を踏まえた作法まで考えなければならないとしたら、それはそれで大きな負担となるだろう。ある程度葬儀屋に任せたとしても、故人に相応しい葬儀を考えることができるのは、やはり身内ということになる。おみおくりまでの時間がないなかで、あれこれ考えることもできず世間一般のやり方に習うということにならないだろうか。あるいは亡くなる前に相談しておいて、故人の望む葬儀のあり方を決めておくべきだろうか。これもまたそう簡単なことではないように思える。
 葬儀というのは、意外にも理屈で割り切れるようなものではないようだ。
 「おみおくりの作法」には、こうした問いへのヒントがあった。
 ジョン・メイにとって、世間から見捨てられたように孤独死した人の死そのものは、彼らと出会う仕事上のきっかけであって、そのときから彼らが存在した事実と向き合い、彼らにとって望ましいおみおくりは何かという対話を始めることになる。メイにとって彼らの死が、職務に対する意識によってできる相互作用の場所に存在する人として位置づけられ、そこから新たなつながりと関係性が広がって場所が変化を続けることになるのだ。
 ビリーの例で言えば、ビリーが近隣住人だったこともあり、なぜ彼を知らなかったのかというむなしさからか、執拗と思えるほどビリーを知ることに力を尽くす。その結果メアリー、ケリーや多くの友人たちにたどり着き、その人たちとの新たなつながりが生まれ、そのつながりが彼らのなかにあるビリーとの場所を思い起こさせ、ビリーの葬儀へと誘うことになった。同時にメイのなかにも、職務としてではないビリーという新たな場所ができたのだろうと思う。
 メイのこだわりは死者の存在にあった。人の存在は場所にある。場所を探り出し、場所を共有する人やモノを集めて死者の存在を確認することによって、死者はそうした人たちのなかで生き続ける。メイの「おみおくりの作法」は、孤独死に至った人が築いてきた場所を修復し、場所を共有する人々のなかで生き続けさせることにあったのではないだろうか。

 私はいまもって母の葬儀を父に知らせなかったことが、正しいことであったのかどうか、くよくよと考える。母の五十三年に満たない生涯の六割以上は父と暮らした生活にある。母という存在を語るときに父と築いてきた場所を除くことはできない。私は母がアルバムにある父の写真を切り取っていたことから、その場所が母にとって忘れたい場所であると思い遣って、父は葬儀に参列すべきではないと思った。
 「父を決して許さない」という感情が、確かに母の心にあった。しかし、体と心を失くし、いまや母の存在は、母と場所を共有してきた人のなかにしかないときに、おみおくりとしての葬儀に必要だったのは、そうした人たちとともに母の存在を確認し合い、生き続けさせることではなかったか。
 私は母が亡くなったときに父と向き合うべきであったかもしれない。父に母の死を伝え、父母という場所を少しでも修復できるよう父と語り、同時に母の死を悼み、手を合わせて祈りをささげるように説得すべきだったかもしれない。
 私はその悔いを自らの死を受け入れる日まで、抱き続けることになるのだろう。
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