河崎

文字数 1,606文字

 空っぽのバスタブに座り込んで、天井の小さな穴から漏れ出す声に耳を傾けた。換気扇の通気口がどこかで繋がってるんだろう。いつの間にか、頭の芯を燃やした熱は、体中に飛び火した。チョコレートを溶かしたみたいな、甘くて粘り気のあるミチオの声が、濡れた肌がバスタブのプラスチックを擦る音が、その薄い壁の向こうを妄想させる。
 二人がウチの玄関先を離れた後も、わずかに聞こえる音を追いかけ続けた。鍵を開けて玄関を入り、しばらくすると、表の給湯器がボっと小さく爆発した。風呂場の音漏れは顕著で、殆ど欠陥住宅なんじゃないかと思えるくらいだ。露骨な嬌声が聞こえ始めると、直樹への返信も忘れて、一番音が聞こえる場所を探してた。
 変態じみてて、どうかしてる。相手はどっちも男で、それなのに、アズサと別れてからずっと忘れてた欲求が露出した。
 半身がシヴァ、半身がパールバティーのアルダナーリーシュヴァラは両性具有の神様だ。それを描くことに決めたのは「創造」っていうテーマに沿ってたからで、それ以上は考えてもなかった。そもそも、テーマを深く掘り下げる意味なんてないと思ってた。所謂「ウケる」作品に崇高なテーマは必要ないからだ。キャッチー。必要なのはそれだけだ。絵を買うのは芸術家じゃなくて、その他大勢の大衆で、その大衆が求めるのは、気軽に消費出来る分かりやすい「絵」だ。深層を探って表現する分かりづらい「アート」じゃない。周囲が自作の作風について悩む中、俺だけが一人、そういう悩みとは無縁だった。ニーズに自分の思想や作風が合致してたからだ。お陰で高価な画材を仕入れるのに苦労はしなかった。
「上手いな」
 絵を描く人間なら、それが褒め言葉じゃなくて皮肉だってことは知ってる。言い換えれば、上手いってこと以外に褒めるところが無いって事だった。
 大人しくて真面目な河崎は他の同期と連むこともなく、いつも一人だった気がする。話をしたことも無かったし、どんな絵を描くのかも知らなかった。同期の何人かが集まってグループ展を開催することになったのは、二回生の終わりごろの話だ。だからその中に河崎がいたのは意外だった。
 小さなギャラリーの壁に掛けられた高さ二メートル、幅八十センチのアルダナーリーシュヴァラは嫌でも目立つ。その前に立った河崎は、しばらく考え込んだ後
「上手いと思うけど、空っぽやん」
 って、そう言った。
 芸術としての面白みがない。河崎が言いたいことはそれだった。空っぽ。河崎の吐いた言葉に、思わず手が出た。侮辱されたからじゃない。図星だったからだ。簡単に消費出来るものに、思考する面白さはない。百均で買ったものを大事に出来ないのと同じだ。簡単に手に入れたものは簡単に捨てられたし、キャンバスが何度も使いまわされるのと同じで、上書きされ続ける。絵を買ってくれる歯医者の先生も、周辺の友達も、同期ですら、河崎みたいに俺の絵を批評しなかった。俺だけじゃない。俺達はただ褒め合うだけで、批評どころか議論することだって無かった。
 河崎が出て行った、ギャラリーの壁に初めて河崎の絵を見た。河崎が誰とも連まない理由が分かった気がした。孤独が河崎を内面に向き合わせたんだと思う。白い和紙に黒一色で描かれてたのは、絵というより河崎の内側だった。叩きつけられた河崎の内側を、内臓を見せつけられたみたいな気がした。俺の絵の半分にも満たない河崎の絵は、それを認めた瞬間、圧倒的な存在感で小さなギャラリーを支配した。
 それ以来、筆は握ってない。考えれば考えるほど、泥濘みに足を取られて動けなかった。酒を飲んで遊び歩いてれば、頭は空っぽになって、河崎を忘れられた。だって、どんなに絵を勉強したって、天然には勝てない。
 ミチオの声に煽られた内臓を慰めながら、天井の隅っこにこびりついた黒いカビが目につく。小さなカビの塊は、河崎に対する嫉妬にも、ミチオに対する執着にも見えた。
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