アズサ

文字数 1,756文字

 ここから在来線に乗り換えると、有名な観光地に行けるらしかったけど、それが何だったかは忘れた。いつもなら観光客で賑わう駅舎も、この雨じゃ閑散としてる。利用者が当て込めないのか、ロータリーには客待ちのタクシーも随分少なかった。向かいの路肩に車を停めて、タバコに火をつけた。煙が砕けるフロントガラスの向こうには、駅舎に隣接するファッションビルがあった。閑散とした駅舎と比べて、地元民が集まるこっちはちょっとはマシだ。ビルに出入りするその殆どは同年代で、引きこもりを始めてから、すっかり疎遠になった友達と重なって見える。お互い、連絡は取りあってない。それでも不思議と、寂しいとか悲しいって気持ちが湧いてこないのは、こっちの勝手な劣等感のせいだった。
 空っぽだった駅舎の改札からパラパラと人が出てくる。多分、電車が到着したんだろう。改札を流れ出る人波の合間に、派手な金髪が覗いた。しばらく会わないうちに、髪色を変えたらしい直樹は、面倒臭そうに顔を顰めて、ずり落ちそうなベースケースを肩に掛け直した。直樹から特急に乗ったって連絡があったのは、午前中、親父の容態が落ち着いたと、医者から聞いてすぐの事だった。今夜が山場だと言われた親父は、また一つ山を越えた。残された時間が、そう長くないことは明白で、直樹は予定を前倒しした。お袋を残して直樹を迎えに来る必要はなかったけど、ただその時を待つだけの時間も、ICU前の人気のない廊下も、歩くたびスニーカーのソールを鳴らす床も、何もかもが息が詰まりそうで、逃げ出して来た。雨の降る日も、土日もミチオは病院に来ない。
 迎えに来る事を伝えそびれた直樹は、こっちに気づくこともないまま、病院へ向かうバスの停まった停留所に向かって歩き始めた。直樹を呼び止めようとクラクションに手をかけたところで、見計らった様に一台、バスがロータリーへと滑り込んで来る。直樹の姿を遮ったバスの、そのグレーに曇った車窓に赤毛の坊主頭が見えた。
 大きく車体を揺らして停車すると、ミチオは傘もささないままバスから飛び出した。いつものタンクトップとハーフパンツは部屋に置いて来たらしい。シルエットの大きな白いワイシャツとデニムがミチオによく似合ってる。何か良いことでもあったみたいに浮かれるミチオを制する様に、下り鯉の右腕が安物のビニール傘に引っ張り込んだ。それからマサキは、そうするのが当然だって風に肩に手をまわして、ミチオの首筋に顔を埋める。誰の目も気にしてないみたいで、透明な傘の内側がまるで二人だけの世界に見えた。
 アズサとは、そういられなかった。
 河崎との一件以来、距離を置いたのは学校だけじゃない。それはアズサも同じだった。別に嫌いになったわけじゃない。
「河崎君があんなこと言うの、カズ君に嫉妬してるからやで」
 そんな簡単な子供じみた嘘で、慰められるのは嫌だった。アズサだけじゃなく、あの場に居た全員がわかってた筈だ。河崎の言った事が間違ってないことは。嫉妬したのは、河崎じゃなくて俺の方だ。
 一ヵ月振りに呼び出されたスタバの二階席で、アズサから別れ話を持ちかけられた時、友達と関係を持ったアズサを軽蔑する半分、少しだけホッとした。そのくせ、アズサの移り気を責めたのは、自分と同じだけアズサを傷つけてやりたかったからだった。
「寝たん?」
 デリカシーのない、クソみたいな質問だった。
「なんで……」
 続く言葉も無く、泣き出してしまったアズサに対して罪悪感が無かったわけじゃない。ただ、坂を下るジェットコースターと同じで、自分じゃ止められなかった。
「俺と会えへん間に、伊能とヤッてたん? お前が泣くの、おかしない?」
 今考えれば、伊能とのことを素直に告白したのは、アズサなりの誠意だったのかも知れない。
「ただのヤリマンやん」
 伊能はきっと、こんなことは言わない。いつだって誰にだって優しい。アズサの顔がくしゃっと歪んで、それからすぐに耳元で音が破裂した。テーブルが揺れて、カップが倒れて、周囲が騒ついた。アズサは俺を見ないまま、震える手を握りしめて席を立った。
 ファーン。
 独特のクラクションが二回鳴り、顔を上げると停留してたバスが動き出そうとしている。目の前を右へと折れたバスの車窓には、直樹の横顔があった。
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