文字数 2,971文字







「これ見んの?」

 桜空(さく)の落ち着いた声に、幸人は小ばかにするような笑みで答えた。

「なに? もしかしてびびってんのか?」

 ショッピングモールに併設された映画館。入口横の壁に、上映中のポスターが並ぶ。そのうちの一つを前に立ち止まり、眺めていた。

「びびってはいないけど。確かに、怖そうだね」

 閑散とした街並み。血みどろの姿で顔をゆがませる、たくさんの人。彼らから逃げている男女の主人公。力強い筆圧で書かれた映画タイトル。

 ネットで大きく騒がれている洋画ホラーだ。ウイルス感染パニックもの。従来の作品よりグロテスクなゴア表現がとにかく多い、という情報を、幸人はすでに仕入れている。

「嫌だろうがなんだろうが付き合ってもらうからな。チケットももうとってあるし」

「そう。じゃあしょうがないね」

「感謝しろよ。この俺がわざわざとってやったんだから。おまえと一緒に見るためじゃなきゃこんなことしないんだからな」

「……そう。ありがとう」

 桜空(さく)がホラー好き、という情報は聞いたことがない。好きだったとしてもこのレベルの内容なら、さすがに平常心ではいられないはず。

 怖がらせて怯えさせ、そんな桜空(さく)に付け込んで夢中にさせる作戦だ。

 これなら絶対にうまくいく。頬を緩める幸人に、桜空(さく)の声がかかった。

「俺、飲み物買ってくる。なにがいい?」

「え? いや、いいよ。俺が買ってくる」

「……じゃあ、お金」

「いいって。どうせチケットも俺が払ってやってるんだし。大人しくおごられとけよ」

「……わかった」

 桜空(さく)をその場に残し、幸人は映画館の売店へ向かう。店員を前にすると、冷ややかな顔つきで淡々(たんたん)と注文していった。

 めったに飲めない大好きなコーラと、どうせなら桜空(さく)も甘いものがいいだろうとメロンソーダを頼む。

 待っているあいだ、すました表情の裏側で、悶々(もんもん)と考えていた。

 ほんとうに桜空(さく)が自分のことを好きになってしまったらどうしよう?

 それならそれで仕方がない。こちらもその想いに応えるくらいはしてあげなければ。今日いきなり家に連れ込むのはさすがに進みすぎかもしれない。手をつなぐ、までで我慢してもらおう。

 こっちだってたくさん、我慢しているのだから。

 ドリンクを受け取った幸人は、笑みを浮かべて桜空(さく)がいるほうを向いた。が、進むことなく、笑みは消える。

 幸人の視線の先には、当然桜空(さく)がいた。外したサングラスを胸ポケットに入れ、映画館の入り口に立っている。キツネのように吊り上がった目を細め、快活に口角を上げながら話していた。
 ――見ず知らずの女性二人に向かって。

 不快な感情を隠すことなく、幸人は大股で近づく。

「おまえなにしてんだよ! ちょっと目放してる隙に」

 向けられた怒声に、三人は顔を向けた。それが幸人だと気づいた女性たちは、ぱあっと笑う。

「俺がいないときに勝手に女くどいてんじゃねえよ! 俺が見張ってないとこれだもんな!」

 女性たちの表情が困惑に変わった。なにも言い返さない桜空(さく)のようすをチラチラとうかがっている。

「そういうところが意識低いんだよ、昔から。まあ、俺と違って気にするご身分でもないんだろうけど?」

 桜空(さく)は返事をせず、短く息をついた。女性たちに笑みを向け、近場に見えるエスカレーターを指でさす。

「一階のラフトは広いからすぐに見つかると思う。バス停も近いから、夕方からのライブには余裕で間に合うよ」

「あ、ありがとうございます」

 女性たちに、笑顔が戻った。桜空(さく)にぺこぺこと頭を下げながら、エスカレーターに向かっていく。

 今度は、幸人が困惑する番だった。

「え? なに? どういうこと?」

「大好きな芸人さんの単独ライブに行きたいんだって」

 桜空(さく)は笑みを消し、冷静に続ける。

「わざわざ地方から出てきたらしいよ。始まる前に買い物に来たけど、劇場はそこそこ遠いし地下鉄を調べても難しくて、パニックになったみたい。だから声をかけて」

「口説こうとしたんだろ?」

 ふてくされる幸人を、桜空(さく)は静かに見返した。つり上がる、凛々しい目で。

「道案内してただけだよ。そのついでに好きな芸人さんのタイプが一緒で、ちょっと盛り上がっただけ。それを口説いてると思うんだったらそれでもいいよ」

「……そうかよ」

 自身の勘違いにいたたまれない幸人だったが謝罪はしなかった。桜空(さく)のドリンクを、強気に差し出す。

「ああ、ありがとう」

 受け取った桜空(さく)は、カップのふたから見えたドリンクの色に眉をひそめた。

「え? これなに?」

「メロンソーダ」

 幸人は平然と、自身が持つドリンクのストローをくわえる。

「ああ……そう」

 開場アナウンスが流れ始めた。目的の場所が開場したことに気づくと、幸人はショルダーバッグから二人ぶんのチケットを取り出す。

 コーラを飲みながら、桜空(さく)に差し出した。

 桜空(さく)が一枚抜き取り、一緒に係員のもとへと向かう。



          †



 ――映画の内容は、すこぶるよかった。

 最初から最後まで緊張感の連続だ。猟奇的なシーンが続く中、こだわりがこれでもかと詰まっていた。吹きすさぶ血しぶきは当たり前。臓器が飛び出すのも当たり前。その表現や音響がまたリアルだ。

 人を人とも思わない残虐性のあるシーンや、見る者が吐き気をもよおすような演出が立て続けに流れていった。――というのに。

 映画館のロビーに戻った桜空(さく)の顔は、観る前となにも変わらない。

「おまえ、もしかして寝てた?」

「ちゃんと見てたよ。なんで?」

「なんでって……」

 幸人は怯える桜空(さく)の姿が見たかったのだ。平然とされては付け込む隙がない。

 不満げに視線を下げる幸人に、桜空(さく)は眉尻を下げる。

「あー……大丈夫? 結構リアルだったしね」

 予想どおりにいかない悔しさからか、映画があまりにも残虐だったからか、幸人の体が小刻みに震えていた。

「……別に」

 桜空(さく)に心配されるのは望んでいない。好きになってもらうために、ここから挽回しなければ。

 幸人は桜空(さく)に向かって手を差し出す。

「それ、くれよ。俺が捨てておくから」

 その手の先にあるのは、桜空(さく)が持っているドリンクだ。

「いや、いいよ。自分で捨てるし。姫小路のぶんも、俺が」

「いいって。俺がやるって言ってんだろ」

「あ……」

 無理やり、カップを奪い取る。想定外の重さに、一瞬腕が下がった。

「え?」

 カップの表面から、揺れている緑色の液体がよく見えた。幸人はコーラを飲み干しているというのに、メロンソーダはなみなみと注がれたまま。それどころか氷が溶け切ってさらに重くなっている。

 戸惑う幸人に、桜空(さく)はぎこちなく声をかけた。

「あ~、その、映画に集中してたから。ドリンクの存在を忘れてて」

「なんっ……で……」

 俺がせっかく買ってやったのに――。

 怒鳴り散らしたくなるのを、ぐっとこらえた。顔をしかめつつ、落ち着いた声で続ける。

「いや、いい。……捨ててくる」

 桜空(さく)に背を向け、ゴミ箱へと足を進める。

 メロンソーダは、苦手だったのかもしれない。気分ではなかったのかもしれない。

 幸人が、怒鳴る権利なんてない。桜空(さく)はまったく悪くない。

 ――何が飲みたいか聞かなかった幸人が悪い。桜空(さく)のせいではない。

 売店の横に設置されたゴミ箱に、自身が飲んだカラのカップを放り入れる。桜空(さく)が持っていたカップのふたを開け、ゆがめた顔で、飲み残しを投入口に流しいれた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み