ハッピーエンド

文字数 2,607文字

 空が高くなり、吸い込む空気はひんやりと気持ちがいい。そろそろ何か温かいものを食べたいね、と三上と話しながら教室から出たところで、香ばしく懐かしい匂いが漂っていることに気づいた。

 大学近くの路上に、焼いも屋の軽トラックが停まっている。「紅はるか使用!」などと大々的に書いてはいるけど、わたしたちは紅はるかの価値を知らない。わざわざ書くくらいだからおいしいんだろう。いや、わざわざ書くことで「おいしいんだろう」と思わせているだけかもしれない。

 そんなことを話し合って、「食べてみればわかる」と結論に至る。わたしは軽トラックに近づいて、焼いも二つください、と指を立てた。

 焼いも屋のおっちゃんは気前がよさげで、大きいのを二本くれた。五百円玉を二枚渡して礼を言って、三上が座っているベンチに向かった。

 どちらが大きいか、手で重さを量る。より軽い方を三上に渡すと、そっちの方が大きくない? と不服そうだ。

「小さい方が甘いんだよ」
「そうなの?」

 適当にごまかすと、三上はごまかされる。単純なやつめ。

 焼いもを半分に割って、皮ごとかぶりつく。口の中で甘みが優しく広がってゆく。自然な甘さに頬が緩んだ。ほくほくしていて、立ち上る湯気に身体も暖かくなる。

 三上は皮をちまちまと剥がしてから食べていて、冷めちゃいそう。じっと見つめながら食べていると、そんなに見られると食べにくいよ、と苦笑いをこぼす。

「侑花ちゃん、豪快に食べるね」
「三上は丁寧に食べるね。冷めないの?」
「俺、猫舌だから」

 そう言って薄い唇を開き、焼いもを食べた。艶めかしさは存在していない、ただの食事。三上とみかは、やはり違う人物だ。少なくともわたしの中では。

 三上はわたしのことを「侑花ちゃん」と呼ぶ。対するみかはわたしのことを「侑花」と呼び捨てにする。それだけでも別人のようだ。みかの間は変身しているつもりだったりして。

 みかの「侑花」は特別だ。あの猫のような瞳に見つめられて名前を呼ばれると、心が小さな音を立てて甘くきしむ。

 心がきしむと、音とともに痛みが生ずる。その痛みを愛おしいと思えるほどの余裕は、持ち合わせていない。

 小さな痛みを不快と捉えてしまうのは、あの人のせいだ。わたしが受験をしている間に結婚していたあの人は、年上だった。恋愛の痛みにひどく怯えるようになったのは、あの人のせいだ。

 秋は物悲しい。日照時間の減少とか、気候の変動とか、科学的な根拠はいくらでも見つけ出せるけど、この澄んだ空気を自分の嫌なところと照らし合わせて、こんなにも違う、自分は濁っている、と思い知らされているようだから、秋が悲しい季節のように感じるんじゃないか。

 実際に自分が濁っているのか澄んでいるのかはわからない。けれどこの秋の風よりはよどんでいるだろう。だから、あの人のことを思い出してしまう。

「侑花ちゃん、冷めちゃうよ」

 三上に声を掛けられて、焼いもを食べる手が止まっていることに気づく。何事もなかったかのように慌ててかぶりついたが、焼いもは冷めかけていて最初のおいしさは失われていた。

「おいしかったね、紅はるか」
「うん、大々的に書くだけのことはあるね」

 最後のひとくちを飲み込んで、ベンチから立つ。すると、こちらをじっと見ている人物がいた。誰か、目を細めてよく見ると、澤田くんだった。視線がばっちり合うと、澤田くんは逃げるように、嫌そうに、視線を外す。

「あれ、澤田だよね」

 三上は苦虫でも噛み潰したように口元を歪め、澤田くんの後姿を目で追いかける。

「うん。澤田くんっぽかった」

 そういえば、三上は高校生のとき澤田くんと同じ部活だったと聞いた。ふたりが何をやっていたのかは知らないけど、あまり仲が良くなさそうなのは窺える。因縁が最近のことなのか、もっと前のことなのか、ただ馬が合わないだけなのかはわからない。

 澤田くんからしてみれば、わたしと部活の同期が仲良くしているのは嫌だろう。彼がひねくれている人であれば、三上がわたしをとったと思い込むかもしれない。わたしは誰のものでもないのに。付き合っていたとしてもその人の所有物になどなりやしないのに。

 浮かない顔をしている三上に、大丈夫、と問いかける。

「うん。大丈夫だよ」

 そう力なく笑う三上は、いつもの三上だった。

 帰りの駅で、映画のDVDが発売された旨の広告があった。その映画は、以前わたしとみかが観たものだった。

 慣れないヒールを履いて、靴擦れを起こしたとみかが言ったんだっけ。お化粧も、服の着こなしも自信がなく、カフェに入る勇気すらそのときはなかったから、薄暗く周囲を気にしなくて済む映画館で休もうと、わたしが提案した。映画は観なくてもいいから。

 その映画館でたまたま上映していたのが、この映画だった。

 つい、食い入るように観てしまった。同性愛を扱った映画で、ハッピーエンドではなかった。作中で主人公たちは結ばれるのだけど、終わりには主人公の片割れが結婚する、という報せを受けて、もうひとりの主人公が静かに涙していた。わたしは正直、そんなに好きな映画じゃなかった。夢のようなのに、妙にリアルで。食い入るように観たくせになんだ、と自分でも感じるけど。

 だけどみかは心揺さぶられたようで、映画が終わり場内の明かりがつくと、目元のお化粧がすっかり取れてしまっていた。しゃくりあげてもいた。

 そのころはまだ自分でお化粧ができなかったので、ネットカフェに寄ってわたしがみかのお化粧を直してあげた。

 鼻の先と目尻を赤くして、ときおりすんすんと鼻をすするみかは、可哀想なくらいに可愛らしかった。ファンデーションで目元を整えて、シャドウをのせ、アイライナーを引き、ビューラーでまつげを上向きにする。最後にマスカラでまつげを伸ばすと、目の前にいるのは男の子じゃなくて、女の子以上に女の子らしい、みかだった。

 そのとき、心を握りつぶされるような感情を覚えた。この人と一緒にいたい。この人の一部になりたい。この人もわたしの一部であってほしい。握りつぶされた心から血が滴るほどに、祈っていた。

 目をつむっているみかは、まるで口づけを待っているようだった。どれほどキスをしようか迷ったが、それで全てが終わってしまうのが怖かった。

 それがもう一年以上前なのか。そう思うと、わたしはこの感情を持て余しすぎているな、と嘲笑したい気持ちになった。
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