二十六

文字数 3,485文字


 河川敷へと降りる土手の法面は、背の高い枯れた雑草と砂地で覆われ、踏みどころを間違うと、足を滑らしてしまいそうな急斜面だった。
 里中は、バランスをとるため両手を広げ、ふらつく足取りで土手の斜面を降りて行く谷口の後姿を見ながら思った。支えるものがないと、どうしてもあんな風に足がもつれてしまう。吉田も、あんな感じで河川敷を踏み外し、川の中に落ちてしまったのではないか――。
「気いつけや、なかちゃん。砂で足取られるで」
 枯れ草でぼうぼうとなった河川敷に到達した谷口が、自分に続いて斜面を降りようとする里中に声をかけた。
「これが夜中やったら、さっぱりわからんわ。まさか懐中電灯もって歩くホームレスもおらんやろしな」
 里中は、ああと頷きながら土手の法面を降り、谷口と同じ河川敷の上に立った。
「つまり、ここら辺に吉田の遺体があったいうこっちゃな」
 谷口が、目の前の大信寺橋を見て言った。
 そこから見る景色は、橋の上から見るそれとは違って、あまり開放感がなかった。しかし、下流に向かって緩やかな弧を描きながら見えなくなっていく川面は、二人が住んでいたという新大手橋の、その下での生活をつぶさに見ていたに違いなかった。
 真っ直ぐ橋の下に進もうとしたが、河川敷の構造は草の生えた小型のテトラポット状になっており、危なっかしくて歩けたものではなかった。
「こら、あかんわ」
 谷口が言って、土手を上った。里中も、谷口の後に続いた。
 確かに、夜は暗かったろう。里中は周囲を見回し、吉田が腰まで水に浸かった夜を想像した。土手を上っても、左手にある民家の明かり以外、なにも見えなかったはずだ。明かりといっても、一般家庭の窓から漏れる灯火の量は知れている。
 谷口もおそらく、なにかを感じ取ろうとしているのだろう。彼も無言で歩いていた。右手前方の橋の下に、ホームレスの住居らしき一画が見えてきた。
 土手の上から見ると、そこは、まさに屋根のないモデル・ルームそのものだった。部屋の中央には組み立て式の長机を二つ並べてひとつとしたテーブルがあり、それを不揃いな椅子がぐるりと取り囲んでいた。
 観察のしようによっては、まるで会議室であった。コーナーにある長机には、古びた鍋や薬缶、ガスコンロ、各種食器といったものが、雑然と置かれていた。だが、それらは最近使われた形跡がなく、挨をかぶったままの姿を晒しているだけのようであった。
「ふうむ。こいつは凄い――」
 谷口が土手の斜面を半分ほど下り、下の構造物を覗き込むようにして言った。「けど、誰も住んどらんようや。なんか撤去命令のような市からの看板が出とるし、肝心の寝具がない。いつかは知らんけど、引き払ろてしもた後やろ」
「確かに、一緒に住んでいた人間が死んだというのに、また同じ場所で生活する気にはならないよな」
 里中は言ったが、その眼はホームレスの姿を求めて泳いだ。
 ひよっとして、その辺の草むらで寝ているのではないか。そしてふと姿を現すのではないか。いや、そんなことはない。そんなことがあるわけがない。それはわかっていても、なにか手がかりになるものがほしかった。
「おいおい、どこ行くねん。そんなとこ、入らんほうがええで」
 谷口が言うのを無視して、里中はダンボールやらトタン板やらの壁で囲まれた、みすぼらしいモデル・ルームの正面玄関に足を踏み入れた。広さは、六畳ほどもあるだろうか。足許は均された土が丹念に踏み込まれたせいで平滑な地面になっており、乾電池だの使い差しのボールペンだの、こまごましたものが散乱していた。
 長机の下に、おそらくは防寒具代わりにしていたのであろう、手垢のついた毛布や座布団、着古したコートのようなものが、無造作に突っ込まれていた。おそらく付近の悪戯坊主たちが探検ついでに荒らしたものだろう。
「おそらくこれが寝具だよ」
 里中は、雑多な布類の中で一番、嵩のある毛布を持ち上げた。汗と垢と埃が混じって腐敗した酸っぱい臭いが鼻を衝いた。
 思わず噎せ返りそうになるのを堪えながら、周りのものを取り除くと、その下にはほぼ同じ大きさのダンボールが何枚も重ねられていて、台形になっているのがわかった。厚みは目測で、十五センチ以上はあった。これを寝台代わりにしていたのに違いない。
 その証拠に、ダンボール製簡易ベッドは、腰や背中に当たる中央部がそっくりそのまま人間の形に凹んでいた。いくら南に位置し、盆地の外れにあるとはいえ、伏見の冬も寒いに違いなかった。所詮、素人があちこちから拾い集めてきた廃材や大型ごみの類いを利用してつくった吹きさらしの屋根なし部屋である。
 しかも、風通しのよい川原だ。寒くないはずがない。
 里中は、吉田の妻がこの光景を見たら、どんな反応を示すのだろうと思った。
「寒かったやろな」
 その心を見越したか、里中と同じようにしゃがみ、煙草をふかしながら周囲を観察している谷口がぼそりと言った。
「ああ」
 里中は上にある橋の裏を振り仰いで言った。「この天井のお陰で雨露は凌げても、寒さだけは避けて通れないからね……」
「そやな」
 谷口が『心、橋にあらず』といった風情で、里中の後ろを指差して言った。「さっきから気になってんにゃけど、その後ろにあんのは、なんなんやろな」
 里中が反射的に後ろを振り返ると、さきほど放り出した雑多なものの中に泥で汚れたナイロン袋があった。よく見ると、台所などで使われるチャックつきの小さなナイロン袋であった。
 だが、谷口の言いたいのは、容れ物のことではなかった。
「写真だ。写真が入ってるよ」
 里中が言った。チャックを開けて数枚のそれを取り出す。一枚目のそれは、ラフなジャケットを着込んだ男女が、どこかの海を背景に並んで写っている写真だった。その年恰好からすると、二人とも三十代は下らない。仲のいいカップルのようであった。
「この男が『吉田』だろうか」
「そうかもしれん。そやとしたら、この女が――」
「美貴だな」
 美貴と思われる女性は、里中の予想とほぼ一致していた。
 いわゆる愛くるしいタイプの女性ではなかったが、ひとのよさそうな美人であった。
 吉田は彼女の第一印象を、良家のお嬢さまか未婚の母タイプと書いていたが、むしろどこかの店のオーナーといったほうがふさわしい、スレンダーなボディラインの女性であった。
 いっぽうの吉田は、これまた里中の想像どおりの風貌をしており、長い髪に長身痩躯の、ちょっと暗い感じが、優しい女性受けしそうな美男子であった。写真では、穏やかに微笑んでいる美貴に対して、吉田は、やや含羞んだ少年のような表情で立っており、彼女から組まれた腕に対しても、心なしか遠慮しているように見えた。
 このころはまだ、恋に火が点いたばかりのレベルで、なにをしても幸せに感じられる時期だったのだろう。里中は思った。
「つぎのは、どんなんや――」
 催促するように、谷口が手を出して言った。
 里中が二枚目に手にしたのは、吉田がいまでは存在しなくなってしまったワープロを前に、なにかを打ち込んでいる写真だった。
 傍らにある灰皿には、煙草の吸殻が山のようになっている。
 ヘビースモーカーらしく、口には紫煙の漂う一本が街えられていた。おそらく、執筆中かなにか、彼が文章を打ち込んでいるときに、誰かが冗談半分に撮ったものだろう。フィルムが余ったので、それを費消するために写したのかもしれない……。
「えらい古いワープロやな」
 谷口が、手渡された写真を見て言った。「こりや、二十四~五年前のワープロやで」
「ということは、吉田が三十二~三歳のころだな。このころにはもう、二人は正式に結婚していたのだろうか」
「そやろ。一枚目の写真より顔の相が、だいぶ落ち着いてきとる。生活も、そこそこ安定してたんとちゃうか」
「うん。確かに、いい顔してるよね」
「自信と気負いで、やる気充分いう顔や」
「でも、この部屋はどう見ても、塾の一室という感じはしないな……」
「そやな。普通の会社――。どっちかいうと、なんかの専門商社いう感じかな。おそらく塾では食っていけん。そう思たんやろな」
「じゃ、行こうか。ぐっさん」
「そやな。いつまでもこんなとこにおってもしゃあないし。確かこの辺に警察署があったはずや。おそらく、この事件の管轄は伏見署やろ。帰りにそっちに寄ってみようや」
「そうだな。警察署に行けば、なにか別の情報が掴めるかもしれない」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み