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「自転車とか、すぐ錆びちゃうんだよ」と言って、煌月(こうが)が差し出した缶ビールに、コツンと同じ缶を合わせる。
「へえ……。海が近いって、いいことばかりじゃないんだね」

 俺たちは煌月(こうが)の住んでいる部屋のベランダに並んで、同じように柵に肘をついていた。夕焼けが群青色に変わった頃。まだ日は落ちきっていないから、周囲はまだ、ぼんやりと明るい。

 遠くにちらりと海が見える。手に持った缶ビールは、まだ日中の暑さの残る空気のせいで、早くも水滴に濡れていた。

「サーフィンするにはちょうどいいんだけどな。あ、あと、洗濯物がたまにしょっぱくなる。風が強い日とか」と煌月はあははと笑って、俺に日焼けした顔を向けた。

「洗濯物、舐めたの?」と聞いたら、「んなわけねえだろ」と手の甲でパシリと肩を叩かれた。

 頬を撫でていく風がほんの少し、ベタついている。湿気と、多分、塩っけを含んでいるんだ。自転車が錆び、洗濯ものがしょっぱくなるのはこのせいか。

 海まで徒歩十三分の煌月の家からは、海はほとんど見えないが花火はよく見えるらしい。

「見に来いよ」と誘われて、ビールを手土産に上がり込み、ベランダで花火待ちをしているのだ。選んだ銘柄はいつもと同じ、煌月の好きな地ビールだ。

「あと、もう少し?」
「うん、多分。絶妙な時間設定なんだろうな。時計なんか見なくても、すっかり日が落ちて、空が暗くなる……、と始まるんだ」

 隣から聞こえる声が、風に流されていく。
 深く息が出来る気がする。

 いつもよりも、ほんの少し空に近づいて、頭の上に屋根がないだけで。
 空が色を変えていくのを眺めているだけで。
 機械ごしじゃない、煌月の声を聞いているだけで。

 手に持った缶に口を付け、グビ、と喉をならす。ふと思いついて、水滴のついた手を隣に差し出して見せた。

「これも、しょっぱいかな?」
「違うしょっぱさだろ、それ」

「あ?」少し考えて、思い当たる。「あー! なんだよ、それ! 海の雰囲気、台無しだろ」
 肩で肩をドン、と押すと、隣であはは、と笑い声がしてグビリ、と煌月(こうが)の喉が鳴る。

 だけど……、もしかしたら、台無しなんかじゃないのかもしれない。
 あとほんの何分か後には、空には夕闇を照らす花が咲き始めるだろう。
 煌月(こうが)と俺とビールと、そして馬鹿話。これは何かを待っている間にしか訪れない時間なんだ。

「おーい!」


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