3 ミステリーと近代

文字数 3,105文字

3 ミステリーと近代
 推理小説の起源はエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人事件』(1841)である。それ以前に遡る説もあるけれども、探偵が近代都市の犯罪事件を経験科学の方法に則って解明する形式はこの作品が最初である。移動や職業選択の自由が制限され、地縁血縁が濃密な前近代において犯罪はその人間関係をたどれば、明らかになる。ところが、近代は諸々の自由が認められる。そういう近代人の集まる都市では地縁血縁が希薄で、犯罪が起きた場合、従来と違った捜査方法が必要である。しかし、警察は前例主義の行政組織であるから、新しさに意欲的ではない。そこで、先例に縛られず、日々進歩する経験科学を積極的に取り入れる柔軟さを持った探偵の出番となる。

 ミステリーが安定した人気を維持しているのは、それが近代の産物だからだろう。作者も読者も作品世界も近代社会を共有している。近代がいつ始まるかという問いはその定義によって規定される。しかし、近代を捉える際に、歴史的遡行にのみ頼るわけにはいかない。近代は理論的基礎づけを持っているからだ。

 伝統的共同体はその存立根拠を叙事詩や物語の神話によって語る。それは共同体の形成が人為的ではないことを意味する。そういった神話は共同体の構成員に通時的・共時的な共通基盤を与える。それを共有する人たちが共同体を構成する。

 そうした神話を含めて共同体では規範が共有されている。規範はそれが認める美徳を実践することで理想が達成されると説く。為政者の政策も、その理想を目指し、規範に則っていなければならない。政治はこの徳の実践、すなわちよい生き方をすることを目的とする。共同体主義の前近代では、政治と宗教は一致している。

 一方、近代社会もその構成員に共通基盤が必要である。共有する理解がなければ、人々は社会をどのように維持・運営していけばいいのか皆目見当がつかない。

 近代は欧州で繰り広げられた宗教戦争を経ている。自らの道徳の正しさを根拠に、殺し合いが繰り広げられてしまう。よい生き方は戦争状態では難しい。政治の目的は平和の実現にとって代わる。戦争の経験から宗教を共通基盤にすることは避けられる。信仰は私的な内面の問題と位置づけ、公的な政治には別の見方が必要となる。こうして政教が分離される。

 このトマス・ホッブズの理論がそうであるように、近代は経験科学によって基礎づけられる。神話ではなく、経験的に考察可能な仮定を前提にしている。それは近代という政治社会が人為的に形成されたことを意味する。この経験科学は伝統的な七つの自由学科ではない。社会を考察対象にする「新しい学」である。後にこれは「社会科学」と呼ばれる。為政者の政策も科学に基づいている必要がある。ただし、宗教の教義と違い、科学の知見は絶対的ではない。政策の選択肢は複数感がられるし、後に根拠が訂正され、施策が変更されることもある。近代は、科学を共通理解とするため、動的である。

 『モルグ街の殺人事件』をミステリーの起源にする理由の一つに、この近代の根拠を人為性に求めている点もある。ミステリーはいつの間にか出来上がった習慣ではない。明確な起源を持つことは、それが人為的に生み出されたことを意味する。『モルグ街の殺人事件』を期限とするのは、ミステリーにおける暗黙の社会契約である。

 近代を理解するためにはこうした基礎づけの理論を知る必要がある。この時代は前近代と違う点がある。それは各国が近代化を内発的に行ってはいないことだ。産業革命の英国をモデルとして援用している。実際、近代の基礎づけは英国の思想家から進められている。近代には標準形がある。

 近代を最初に基礎づけた理論は社会契約説である。中でも、トマス・ホッブズやジョン・ロックは政治・経済についての考察を体系的に展開している。さらに、影響された大陸やスコットランドの啓蒙主義者が近代にふさわしい諸制度に関する形而上学的提案も発表している。

 近代は、前近代と違い、人為的に社会が形成されたと考える。この契約は一つの思考実験である。個人が集まって人為的に社会をつくったと考えるモデルだ。それは他者間で必要とされる。他者と共存する社会を想定する際、その相互承認を契約として考えてみる。これが社会契約論の発想である。契約概念が一神教の伝統に縛られるわけではない。

 人間は、本来、自由である。その基本的権利は所有権だ。自然はそのままでは人間にとって有用ではない。人間が労働することで初めてそうなる。だから、労働によって得られたものを個人的に所有する権利は不可侵である。私的所有権こそが基本的人権である。近代において重要なのは徳ではなく、権利だ。ただ、自由な個人が同意するならば、お互いの所有物を交換することができる。その交換の場が市場である。

 市場は需要が増えれば、価格が上がり、供給が増えれば、下がる。参加者は需要側なら、できるだけ安く、供給側ならできるだけ高く価格がつくことを望む。けれども、参加者が多いと、思惑通りにならない。市場において個人は自由であるだけでなく、お互いに平等で、自立している。こうした個人によって形成されているのが市民社会である。市場経済は市民社会の基盤となる。

 個々人が活動すると、自由であるから、利害対立が起きる。それを調停する第三者が必要だ。生命と財産を守るために社会はその第三者に統治を信託する。それが政府である。政府は目的を行使する手段として個人にはない暴力を含めた権力が認められる。

 しかし、政府は社会ではなく、自己の利益のために権力を行使し、暴走するかもしれない。それを防止するためには権力を分立させ、相互に牽制させればよい。行政・立法・司法の三権分立が近代の統治のフォーマットである。

 市民の生命や財産を守るために、暴力を許可されたより専門的組織が必要である。それが警察だ。行政に属する警察は立法があらかじめ制定した法に則って権力を行使しなければならない。罪刑法定主義の原則である。市民が行動を委縮しないように、法の適用は通常人の理性や想像力の及ぶ範囲、すなわち現実検討能力の範囲内でなければならない。

 近代人は自由で平等、自立した個人である。個々人はたがいに道具や物のような客体ではなく、主体として扱わなければならない。犯罪は他の主体を客体として取り扱う行為の中から法によって規定される。自由主義・個人主義に基づいているので、尊属卑属や連座制は原則的に採用されない。

 警察の暴走を抑止するため、それが妥当であるか否かを司法が判断する。警察は自らの判断・活動の妥当性を裁判所に納得させなければならない。近代の刑事では検察に立証責任がある。犯罪の被害者も加害者も市民である。市民を容疑者として逮捕するためには、警察は社会が納得する理由と根拠を示さなければならない。その手法が妥当であると理解を社会と警察が共有できる基盤が求められる。それが経験科学である。

 犯人が誰であり、動機が何で、手口がいかなるものかを合理的に解明する際に経験科学が利用される。これは近代社会で共有されているものだ。経験科学によって立証された謎解きが人々の関心事となり、ミステリーはその好奇心に応える文学である。その楽しみを提供するので、犯罪捜査に重点が置かれ、裁判や更生が省かれる場合が少なくない。

 捕物帳もミステリーであるので、科学的=論理的である捜査が中心に描かれる。しかし、近世人にとっての最大の関心は捜査ではない。実は裁判である。そのため、「捕物帳は生まれず、政談が好まれている。
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