第6話

文字数 10,185文字

 彼女はそのおよそ半年後に最初の子どもを流産した。だとするとあの時点ですでに妊娠していたことになる、と私はそのニュースを観たときに思った。でもそんなことはおくびにも出さなかった。どうしてだろう? というかなんで私はそれに気付かなかったのだろう?

 その正確な意図は分からなかったものの、とにかく彼女がその話を私の前で持ち出したくなかったことはたしかだった。あるいは話が広がり過ぎるのを避けたかったのかもしれないな、と私は思う。あのとき彼女はあくまで、親密な、良くいえば罪のない話をするためにこの街までやって来たのだ。そういえば未来を暗示するような話題は一度も出なかったような気がする。

 さらにその半年ほどあとで、彼女は離婚した。どうやら夫の方が別の女優と浮気をしていたことが発覚したらしかった。マスコミはその事件をももちろん食い物にした。彼女は流産したあとに、精神的に落ち込んで、一時夫と別居していた、とのことだった。別のマンションを借りて、そこで母親と一緒に暮らしていた、とメディアは報じていた。その間に彼はドラマの撮影で一緒になった若い――彼女よりも若い――女優とこっそりと会っていた。彼女の方が離婚を要求し、彼がそれを呑んだ。「真実の愛」の寿命は思ったよりも短かったな、と私は思った。

 その辺のごたごたが起きている間、一切こちらには連絡はなかった。例の食事のときに連絡先は聞いてはいたのだけれど、こちらからあえて電話をかけるほどの勇気が出なかったのだ。それに彼女のまわりにはいつも誰かしら人がいるようだった。あちらからかかってこない限り、むしろこちらから邪魔をするような事態は避けた方がいいのかもしれない。

 それでも心配であったことは事実だ。結婚生活がそんなに甘いものではないだろう、ということもある程度は予想が付いていたし、一種の幻滅に直面したときに、彼女が一人でそれを乗り切れるとも思えなかった。それでも私にできることは限られていた。彼女が本心を打ち明けたくなったときに、ただそれを聞いてあげるのだ。結局のところ誰も彼女の代わりに生きることはできないのだ。良くも悪くも、もうあのような流れに乗せられてしまっている。自分で選んだわけですらない流れに。周囲が騒ぎ、そして本人たちもそのような騒擾(そうじょう)を引き起こすことに慣れてしまっている。多額の金が動く。わけの分からない意図を持った人々が、それぞれの思惑の中で、うろつき回っている。

 結局彼女がまた連絡してきたのは、離婚してからさらに四カ月ほど経ったあとのことだった。時刻はやはり日付が変わる五分ほど前だった。私は例によって、たった一人、狭い部屋で文章と向き合っている。あるいは自分自身と。

「もしもし」と彼女は言った。なんだか少し声の質が変わったようにも聞こえる。「起きてた?」

「起きてたよ」と私は言う。「ずいぶん久しぶりじゃない」

「うん。久しぶりだと思う。前に会ったのは・・・」

「もう一年半近く前だね。あれは」と私はあのファミレスでの食事を思い出して言う。「よく車でこんなところまで来たよね」

「たしかに」と彼女は少し笑いながら言った。「ほとんど運転経験もないってのにね」

「あれからどう?」と私は言って、少し失敗したかな、と思った。それですぐに取り(つくろ)った。「いや、ニュースなんかでは動向を辿(たど)ってはいたんだけど・・・。いろいろ大変だったみたいだね」

「大変だった」と彼女は言った。なんだかまるで他人(ひと)(ごと)みたいな口調だった。歴史上の、自分とは何の関係もない民族の迫害の記録。それをあとから教科書で辿っているみたいな。「子どもも死んじゃったし、夫とは離婚した。慰謝料はもらえたからお金的には心配はないんだけどね」

「本当は連絡しようと思ったんだけどね」と私は言った。「なんだかそれが正しいことなのかどうか分からなくて」

「いいんだよ。そんなこと」と彼女は本当になんでもなさそうに言った。「あなたとしゃべれれば楽にはなっただろうけど、でも本質的には何も変わらなかったと思う。私はきっと・・・あれを通り抜けなければならなかったんだね」

「今はどんな感じなの?」

「今はもっとずっと小さいマンションに引っ越して、お母さんと一緒に暮らしているの」と彼女は言った。「まあぼちぼち女優の仕事も再開しようかな、と思っている。もちろん前ほど仕事のオファーは来ないだろうけどね。少しくらいはあるんじゃないかな」

「そう」と私は言った。

「そっちは?」

「こっち?」と私は言う。「相変わらずだよ。本当に面白味もない生活を送っている。退屈な日常。でも少なくとも文章は書き続けている」

「偉いな君は」

「偉くないよ。全然偉くない。ただこれ以外にできることがないってだけ」

「私はどっかで間違っちゃったんだと思うな。たぶん。ごく普通に就職して、結婚して――つまり普通の人と、という意味だけどね――それで子どもを産んで育てていれば何も問題なかったはずなのにね」

 私は黙っていた。本当にそんなことが可能だったのだろうか?

「でもなぜかこんなことになっちゃった。いろんなことがこう・・・自分の手のひらから抜け落ちていくみたいな感じがするの。でもなんとか生きている。過去の記憶にすがりついているせいかな」

「ねえ正直なところを言わせてもらってもいいかな」と私は意を決して言う。

「もちろん」と彼女は言う。「あなたはいつも正直だからね」

「これが正しい流れだったのだとは思わない?」

「これが?」と彼女は言って少し黙り込む。「それは・・・どういうこと?」

「つまり今みたいなあなたの状況に陥るのが自然な流れだったってこと。子どものことは残念だけれど・・・それ以外に関しては。仕事のこととか、結婚のこととか。あの状況は・・・やっぱり不自然だったんだよ。本来のあなたじゃなかった」

「たぶんそうなんだろうね」と彼女は言った。そして浅い溜息をついた。どこにも行かない溜息だ。「なんだか同じところをグルグル回り続けているような気がするの。最近特にね」

「それは・・・具体的にはどんな感じ?」

「具体的には・・・そうね。つまりまた女優のお仕事に戻ったとしても、結局は一緒なんじゃないかって思うの。もちろんあの頃のような人気は戻らないと思う。私だってそれくらいは知っている。でも本当の問題はそんなことじゃないの。本当の問題は・・・」

「なにもかも不毛だってこと?」と私は言う。

「そう」と彼女は言う。「あなたはなんでも知っているのね。何をやっても表面を撫でているような感じなの。正直にいえば、お母さんにはそんなことは理解できないと思う。あの人はまた女優業に戻れば全部回復するはずだって信じているの。でも私は分かる。所詮何をやったところで徒労に過ぎないんだって」

「それについて私にいえるのは」と私は言う。「結局あなたはあなた自身ときちんと向き合わなければならない、ということだけ。月並みな結論だけど、それしかないと思う。最終的にはね。そういう姿勢を取ったときに初めて、何かが現れてくると思うな」

「あなたは私がそれをできると思う?」

「それは・・・」

「ねえ、正直にいってみて」

 私は迷ったけれど、本当の意見を言うことにした。「正直にいえば・・・今の状態では難しいと思う。あなたはなんというか・・・自分を取り(つくろ)うことに慣れ過ぎているから。みんなにちやほやされることが(くせ)みたいになっちゃってるの。もちろんそんなに美人なんだから仕方がないんだけどね。でもどこかの時点で、何を大事にするかってことを、入れ替えなくちゃならないと思うんだ。そうしないと一生

を続けることになる。これから先あなたが本当の意味で自分と向き合えるようになるのかは分からない。

分からないの。それはあなた次第だと思う。私なんかそんな偉そうなこといえる立場にないんだけど、これまで生きてきた経験からそう断言できる。あなたが自分で自分を救おうとしない限り、やっぱり全部徒労に終わっちゃうんじゃないかな」

 彼女はしばらく黙ってその話を消化していた。そういう気配があった。日付はもう変わっている。時間は今この瞬間も、執拗に流れ続けている。一秒、また一秒と・・・。

「どうもありがとう・・・」とやがて彼女は言った。その声は軽く震えていた。まるで風に吹かれる木の枝のように。「あなたのほかにそんなこと言ってくれる人はいなくて・・・」

「ごめんね。なんか偉そうに」と私は言った。「でも正直になる必要があると思ったから」

「全然構わない」と彼女は言った。「私はなんというかさ・・・たぶんあなたとしゃべることで勇気をもらっているんだと思うんだよね。ほかにはそんな人がいなくて・・・。あなたは芯というものを持っている。それでその芯がどこかに結び付いているの。私はそれを感じ取ることができる。その存在を感じるだけで、ああ、生きるっていうのは本当は素晴らしいことなんだな、って実感することができるの。私の場合あくまで想像だけどね」

「私だって日々苦闘しているようなものだよ」と私は苦笑いしながら言った。「決してあなたよりすごく強いってわけじゃない。ただなんとか前進しようとしているだけ。実際にはただコンビニでバイトしているだけだしね。ねえ、出口を塞いじゃ駄目だよ。どれだけ悲しくて、辛くて、なにもかも投げ出しそうになっても、出口だけは塞いじゃ駄目。それは約束して」

「分かった。約束する」と彼女は言った。「でもそれって部屋の出口のことじゃないよね?」

「心の出口のこと」と私は言う。

「心の出口」と彼女は言う。

 そこで二人とも一瞬だけ黙り込む。どこかから風が入り込んで、そしてどこかから抜け出ていくのが感じ取れる。心の風。移動。変わり続ける世界。時は一秒、また一秒と流れ続けている・・・。

「ところでさ」と彼女は口調を変えて言う。

「うん」

「神様って知ってる?」

「神様って・・・あの神様?」

「そう、あの神様」

「それがどうかしたの?」

「この間会ったんだ」

「どこで?」

「どこかで」

「何か言ってた?」

「何も言っていなかった。ただね」

「ただ?」

「神様的微笑みを浮かべて、じっと立っているの。私はただそれを見ていた」

「何かお願いしなかったの?」

「しなかった」と彼女は言った。「するの忘れちゃったの」

「もし今度会ったら」と私は言った。「私の分もお祈りを捧げておいてね」


 彼女はその後何度か連絡をしてきたけれど――いつも真夜中の、日付が変わる直前の時刻だった――このときほど突っ込んだ話をしたことは一度もなかったと思う。もっと軽い、罪のない世間話をして、お互いの生活へと別れていく。そういった会話が続いた。声の調子から察するに、彼女の精神状態は一進一退といったところだった。仕事の方は少しずつ少しずつ再開しているようだった。母親の方はもっと仕事を入れたいのだけれど、私がそれを止めているの、と彼女は言っていた。別にそこまでお金が欲しいってわけでもないしね、と。それがいいと思う、と私は言った。そして美味(おい)しいパンケーキ屋さんの話をした。いつかこっちに来たら――つまり都心の方だ――連れていってあげる、と彼女は言ってくれた。

 私の方は相変わらず本当に同じような生活を続けていた。週に五日アルバイトに行き、空いた時間に小説を書く。ときどき将来のことを考えて暗澹(あんたん)たる気持ちになることもあったけれど、そういうときこそむしろ今ここの瞬間に集中するようにした。そうすると不思議と文章の流れが良くなるのだった。

 私はたぶん歳を取りながら、徐々に自分というものを再構築していたのだと思う。それはどちらかといえば、自然に(おこな)われた行為だった。決して意図的に、狙いを持って行われたわけではない。私は日々生きながら、たぶん世界の見方を少しずつ変え、それによって自分自身の捉え方をもちょっとずつちょっとずつ変えていったのだと思う。そしてその変化があるポイントに至ったとき、私はあることを悟った。それはこういうことだった。

 

、ということだ。

 それはまあ考えてみれば当たり前のことだった。私は今ここにいる肉体である。ホモ・サピエンス。哺乳類。ヒト化。それはたぶん間違いはないと思う。しかし、それと同時に今ものを考えている私は一つの意識である。意識は常に動き続けている。一カ所に固定される、ということがない。それは他人もそうだし、私自身にしてもそうだ。だから自分はこうである、と決めつけてしまうことができないのだ。私は当然のことながらそんなことは分かっているつもりでいた。頭の中では、自分は風のような存在なのだ、と想像したりしていた。でも、この東京の外れで、結果も出ず、鬱々(うつうつ)としながらアルバイトをしているうちに、ふと悟ったのだ。自分は結局いくつになったところで今を生きるしかないのだ、と。「今」のクオリティーを少しでも上げていくこと。それ以外自分にできることはないのだ、と。

 そう思うと自分の流動性がより強く、ありありと認識できるようになった。ある意味では私は火のような存在なのだ、と。物質でなく、ただの反応である。過去や未来について思いを巡らすことはできる。ときどきその中に生きていると錯覚することもある。でも実際には肉体は――そして意識は――今を生きている。誰もそこから逃れることはできないのだ。だとすると、未来のどこかにある桃源郷(とうげんきょう)を求めるのではなく、「今ここ」を有効に燃焼しなければならない、ということになる。それはむしろ当然の帰結だった。

 考えがそこまで至ったときに、なぜか彼女の姿が浮かんできた。彼女はそれについて知っているのだろうか、と思ったのだ。でもきっと知らないだろうな、とすぐに私は結論付けた。なぜなら彼女は

逃げ続けているからだ。あの愛嬌(あいきょう)のある笑顔の裏には、孤独な心が潜んでいる。それはいつも恐れている。何かと向き合うことを。そこにいるのは暗くて、恐ろしいものかもしれない。あるいは輝かしく、美しいものかもしれない。いずれにせよ、彼女がそれを見ることはない。なぜならいつも目を(そむ)けているからだ。

 私は彼女に何かを言ってやりたいと思った。何か、本当の意味で勇気を与えられる言葉を。なぜなら私は一歩先に進んだからだ。責任というものの意味を、ようやく理解し始めたからだ。私はここで――この世界で――なんとか踏ん張って生きなければならない。そしてその中にいる透明な自分自身を、少しでも自由にするのだ。おそらく自分はそのためにこそ今生きているのだろう、と私は思った。

 もっともその後実際に彼女に何かを言ったわけではない。連絡そのものは徐々に少なくなっていったが、そのたびごとに感じたのは、彼女へのシンパシーというよりは、むしろ二人の間の断絶だった。私はすでに先に進んできてしまっていたし、彼女はまだぐずぐずと安全な場所に留まっていた。私は一種の(いら)()たしさを感じながら、彼女の話を聞いていたことを覚えている。

、と私は思う。そして問題は、彼女自身がそれを心のどこかではちゃんと認識している、ということだった。言葉の端々(はしばし)からそれが感じ取れた。きっと彼女はそんな私の気持ちをある程度察していたのだと思う。電話はだんだん短いものになり、彼女は彼女の生活へ、そして私は私の単調な生活へと戻っていった。

 そうした関係に変化が生じたのはつい二週間ほど前のことだ。ずいぶん久しぶりに――一年くらい間が()いていたかもしれない――夜中に電話があり(やはり日付が変わる五分ほど前だった)、私たちは話をした。彼女の声には以前にはなかった自然な明るさがあった。二人とももう二十九歳になっていた。もちろんまだまだ若くはあるのだけれど、少しは成長し、幻想ではなく、現実を見ることを学びつつある歳。久しぶりということもあって、彼女の方にも私の方にも話したいことは溜まっていた。そのときには不思議と以前のような苛立たしさを感じなかった。どうしてだろう、と電話を切ったあとで思う。あるいはそれは、彼女が一歩前に踏み出した、ということを意味するのだろうか?

 もっとも会話の内容そのものはほとんど罪のないものだった。彼女は母親と離れ、今では一人暮らしをしていた。女優の仕事を細々(ほそぼそ)と続け、ボーイフレンドもいるということだった。「もう週刊誌もあまり追ってこないんだ」と彼女は言った。「ありがたいことにね」

 私は私の方の話をした。とはいっても大して話すことなんかなかったのだけれど。なにしろ毎日同じことをして、歳を取ってきたのだから。それでもこうして同年代の友達と罪のないおしゃべりができる、ということが久しぶりに私をリラックスさせていた。これはこれで悪くないかもな、と私は思っていた。

 ちょっと様子がおかしいかもしれない、と思ったのは、その一週間後にまったく似たような会話を交わしたときだ。同じ時間に電話がかかってきて、同じような話をした。いや、「同じような」というような代物(しろもの)ではなかった。

一緒なのだ。それが彼女の口調に一切変なところがないから、気付くのに時間がかかったのだが、よく会話の内容を聞いてみると、一週間前に聞いたのとまったく同じものであることが分かる。私はそれについて何かを言おうとしたのだけれど、あまりにも気持ち良さそうに彼女がしゃべっているのを聞いて、思い留まった。これは一種の精神的な(やまい)なのかもしれない、と私は思った。適当に相槌(あいづち)を打ち、一週間前とまったく同じような返事を返して、やがて電話を切った。通話時間はたしかに一秒の狂いもなく一緒だった。私は呆気(あっけ)に取られていた。一体何が起こったのだろう?

 彼女の心にある種の変化が起こったことは事実だったけれど――それはその口調からも明らかだった――あるいはその変化が、彼女を危機的な状況に陥らせたのかもしれない、と私は思った。意識の統合性のようなものが、(おびや)かされているのかもしれない。だから一種の防衛本能として、まったく同じ話を繰り返しているのかもしれない。世界の変化に目をやらないためだ。

 そう思うとその明るい口調にも、何か不気味なものがあるような気がしてきた。私たちは二十九で、もうお互いに子どもではない。でも彼女の方には明らかに何か(もろ)い部分があった。それは事実だ。でもだからといってこんな状況に陥るだろうか? 彼女は何かを得ようとして、決定的に足を踏み外してしまったのではないか?

 二度目の会話のあとで、私は意を決してこちらから電話をかけてみることにした。すでに日付は変わっていたが、そんなことを言っている場合ではない。でもどれだけ待っても、彼女は出なかった。只今(ただいま)電話に出られません、というアナウンスが流れるだけだ。私はまんじりともしない気持ちで、ベッドに入った。翌朝起きたときも、不吉な空気は身体に付きまとっていた。私の中の夢のようなものが死んだことをその朝悟った。それは要するに、未来を信じようとする心だった。混じりけのない未来。幸福で、人生を明るい光で満たす未来。

、と私の中の何かが言っていた。それは穴に近い何かだった。空虚で、奥に何があるのかも分からない。私は溜息をつき――予想外に深い溜息だった――あきらめて朝食を取ったあとで、アルバイトに行った。結局私にはここ以外生きる世界は存在しなかったのだ。それでもへとへとに疲れて帰ってきたとき、私は自分が確実に歳を取ったことを知った。死が自分の身に染み込んでいるのが分かった。これから先私はどうなっちゃうんだろう、と私は思った。でももちろん、そんなことは誰にも分からなかった。


 その三日後と、そしてつい昨日にも電話はかかってきた。最初はむしろ出ようかどうか迷ったのだが、意を決して出ることにした。会話は一字一句同じものだった。私もまたまったく同じような返事を返した。重力が奇妙に歪んでいるような感覚があった。時が繰り返され、何一つ前には進まない。空気が淀んでいるのだ、と私は思う。もっとも彼女はそんなことにはお構いなしに、気持ち良くしゃべり続けていた。もし今目の前にいたら顔をひっぱたいてやるべきなのかもしれない、と私は思う。暴力が良いことだとは思えないけれど、今の彼女にはそれくらいインパクトのある何かが必要であるような気がした。そうしないとどんどん状況は悪くなっていくだろう。私は歳を取り、彼女は歳を取ることを避けている。いや、正確にいえばそんなことは誰にも避けることができないのだが、あくまで意識の上では避けているように

のだ。全部が演技なのだ、と私はようやく悟る。彼女はきっと心のどこかではこれが演技なのだと知っている。あるいはこれは、私に対する一種の必死なメッセージなのかもしれない。私はここにいて、苦しんでいる。自分で自分を狭い檻に閉じ込めてしまったの。それは今始まったことじゃないのよ。ずっとそうだったの。だからあなたに助けを求めていたの。でもあなたは自分が生きることに忙しくて、私に構ってはくれなかった。その結果がこれなの。私は現実を見ない。歳も取らない。永遠にこうして平和で罪のないことをしゃべって生きていくの。そう決めちゃったのよ。だからあなたはそれに付き合って。なにしろ寂しくて仕方がないのだから・・・。

 そして今日また同じ時間に電話がかかってきたとき、私はそれを無視する。ここ数日寝不足で気分がすこぶる悪かった、ということもある。でもそれだけではなく、もう付き合っていることはできない、と悟ったことも事実だ。彼女は彼女の力でなんとかそこを乗り切らなければならないのだ。それはずっと思ってきたことだし、今でもそれは変わらない。それでも日付が変わる五分前にまた同じように電話が鳴り――正確にはバイブレーションだが――彼女の名前が表示されたとき、私の心は震える。やはり出てあげるべきなのではないか? またあの同じ話を聞いてあげるべきなのではないか? そうやって彼女のイノセントな小世界を守ってあげるべきなのではないか?

 それでも一人の真実を(こころざ)すフィクションライターとしては、その道を取ることはできなかった。私は真実を見たいのだ。そのためにこそこうして生きている。かつて持っていた夢が死んでもなお、こうして生きている。この変わり()えのしない、退屈な日常を。なぜならここしか生きるべき世界がないことを知っているからだ。私たちは今を生きなければならない。そして今を生きるということは、

ということでもある。

 電話が死んだとき――それは文字通り死んだのだ――私は知らぬ間に涙を流していた。何かが切り替わったことを知ったからだ。淀んでいた空気が流れ出したのが分かった。私は以前よりもずっと一人ぼっちになり、その結果真の自由に近づいてもいた。でもこんなことに何の意味があるんだろう、と私は思う。こんな風に生き延びていたら、最後には擦り減って、ただのぼろ切れみたいになってしまうんじゃないか?

 でも予想外にその夜の眠りは深かった。私は一個の空白となり、ただ純粋に睡眠を(むさぼ)っていた。まるで一度死んで生まれ変わったみたいだ、と起きたとき私は思った。外では小鳥が鳴いていた。チュンチュンと。カーテンを開けると、雲一つない青空が見渡せた。五月で、世界のなにもかもが生命を祝福しているように思えた。でも、と私は思う。一人だけ例外がいる。一人だけ、その祝福から漏れている人物がいる、と。


 彼女が自殺した、というニュースはそれこそ(またた)く間にネット上に広まった。コロナウィルスによってもたらされた閉塞的な状況の中で、いかに若い女性たちが自殺を選んでいるのかがワイドショーではフォーカスされていた。彼女の俳優仲間が追悼のメッセージを載せていた。あとから知ったことだが、彼女は最後に電話をかけてきた数時間前にはすでに息を引き取っていたことになる(クローゼットで首を吊ったのだ)。だとすると、一体

あの夜電話をかけてきたんだろうな、と私は思う。でもそんなことは考えたところで分からない。結局それが何だったとしても、私は意図的に電話を取らなかったわけだし。

 彼女の死は世間に大きなショックを与えたが、実をいえば私にはそれほどでもない。あの夜何が起こったのかを、本能的に悟っていたからだ。それでも何が本当の意味で正しいことなのかについては、いまだに判断できずにいる。私はこうして生きて先に進み続けたいと欲しているし、彼女はどこかの時点で自分を信じることをやめてしまった。あるいは甘やかされ過ぎたせいかもしれない。あるいはほかにもっと根本的な問題があったのかもしれない。

 いずれにせよ、一人ぼっちになってしまうと、世界はより哀しみを増したように思えた。それはどのような手段をもってしても取り除くことのできない哀しみだった。私はそれを受け入れ、受け入れながらもなお、先に進むことを選んだ。そして今、この文章を書いている。彼女に関する記憶が、薄れて消えてしまう前に。一種の記録として。

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