「タツルくん」

文字数 1,023文字

 ハナミズキが咲くころ入院した母が、紫陽花が色づく梅雨時になって退院した。
一時は口から食事もとれないくらい衰弱していたが、今では3食プラスおやつも食べて元気いっぱいである。入院中、亡くなった父や姉のことを「どうしてる?」と何度となく尋ね、「もういないよ」と答える度に新鮮に驚いていた母は、仏壇に手を合わせてようやく二人の不在を理解したようだった。

 その代わり、あらたに登場したのが小学生の男の子だ。
母が弟夫婦と夕食をとっているとき、「○○はまだ帰ってこないね」と言い出した。
「○○?」
「○○よ」
「○○なら目の前にいますよ。お義母さん」
「そうじゃなくて、ほら小学生の…、小さい○○」
弟夫婦に子どもはいない。
「何言ってるんだよ。小さい○○なんていないよ。俺が○○だよ」
「○○がいないなんて、なんでそんなこと言うのよ。○○死んじゃったの?」
いくらなだめても、なかなか収まらなかったらしい。

 数日後、うとうとと微睡んでいた母が唐突に話し始めた。
「ばばちゃんが串木野からタツルくんという男の子をよく家に連れてきて」
「串木野?ばばちゃんって誰のこと?」
「ばばちゃんはお祖母ちゃんのお母さん」
「串木野に住んでいたんだ?」
「そう。子だくさんだったからたくさん孫がいて」
「へぇ、初めて聞いた」
「うちはわりと安定していたから」
当時母は鹿児島市内で暮らしており、父親、つまり祖父は国鉄の職員だった。
一方でタツルくんの家はあまり裕福ではなかったのだろう。
だからばばちゃんが気にかけて従妹たちのところに連れてきていたのだ。
「一緒に遊んであげてって言われたのに、足をつねったりしていじめちゃったの」
「子どもって意外と意地悪だもんね。」

 母の話によると、そのタツルくんが小さいころの弟と重なって、たびたび母の前に現れるらしい。
昔、弟がよく着ていたという茶色の縞々のズボンを履いて。
小さいタツルくんはもういないし、弟は50がらみのオッサンだ。
それでも母の足もとでは、少年がきゃっきゃと遊んでいるのだ。

 母の頭の古びた引き出しの中に、わたしの知らない記憶がたくさん詰まっている。
あとどれくらい母と会話ができるのかはわからないけれど、わたしはその記憶を少しずつ紐解きたくなった。

 帰り際、母がお見舞いにもらったマンゴーを持たせてくれた。沖縄の伯母から送ってきたものだ。
そうだ、伯母にタツルくんのことを聞いてみようか。
梅雨の晴れ間、ずっしりと重いマンゴーをぶら下げながら家路を急いだ。
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