蝋燭

文字数 2,455文字

 昨今の電気代の高騰で俺の家ではエアコンの使用が禁止され、就寝中の電気毛布以外には数年前に買った電気パネルのみが使用を許された。Sルミエ。これは新聞広告で「電気代が安い」「空気が汚れない」「日だまりのような温かさ」との触れ込みだったのを気に入り妻が買ったものだ。

 これを使っている方はご存じと思うがこのパネルは「全く部屋が温まらない」。ボタンを強にしてもパネルの前だけがじんわり熱くなるだけで、部屋全体を温めるものではない。ゆえにエアコンや石油ストーブとの併用が望ましい。読者でもしこの商品を購入する予定の方は、この辺をよくよく注意されたし。

 わずかな面積の部屋が温まらないので、指がかじかんでパソコンのキーが打ちにくい。俺はいま在宅勤務でパソコンを扱う。USB式の電気手袋も片っ端から試したが、画像をいじる細かい作業はもちろん、タイピング自体が手袋を嵌めては思うようにできない。これでは仕事にならず、妻に訴えたが
「もう二万円余計に入れてくれるならエアコンを許可する」
 と言う。彼女はパソコンを触る習慣がないので自由にキーが打てない辛さが判らないのだ。

 俺は病気のため数年前に会社を辞め、いまは派遣会社に登録し仕事をしている。コロナ渦で在宅勤務となりまず驚いたのは光熱費の高さだ。オフィス勤務から在宅になったとたん、光熱費ががんと跳ね上がった。会社からは五千円の補助費しか出ない。通信費+光熱費が五千円なのだ。昨今の電気代の高騰でもこの金額は変わらない。

 さっそく妻の嫌みが始まった。あんたがずっと家にいてるからこんなに高くなったのよ。家に入れる金、増やしてよね。俺は元よりインドア派でお洒落に興味がなく趣味も読書くらいしかないのでそう金はかからない人間だ。それでも二万は痛い。それを言うと
「甲斐性なし。もっと稼いできたら?」
 本の購入費を抑え、二万を入れようと思えばできたが、俺は死んでも入れないと決心した。

 俺と妻とは大恋愛の末、結婚した。当初は彼女の気の強いところを魅力に思っていた。夫の小遣いは月二万なのに自分の美容には五万も費やしている事にも、それで綺麗を保ってくれるならいいか、と最初は鷹揚に考えていた。妻も仕事をしているので強く言えなかったのもある。しかし自分の価値観を押し付けるところ、自分の意見は正しいと信じて疑っていない性格に、だんだん嫌気がさしてきた。それでも可愛げがあるうちはまだ良かったが、俺が派遣社員に成り下がり、妻の収入を下回ってからは嫌みのオンパレードなのだった。

 離婚の二文字がちらついたことは何度もある。子供がいないのは吉か、凶か。俺は吉と思っている。俺たちを結びつけるものは極力少ないほうがいい。そう思っても離婚を考えるたびに、その手続きを巡る煩雑さに面倒が立ち、諦めてきた。実際口にしたこともある。だが返ってきた返事は「私がいなくてどうやって生きていくの」。
 確かに、情けない話だが妻の収入がなければ生活をこれ以上下がらぬよう維持するのは難しいといえた。だから妻の嫌みも当然といえば当然なのだった。
 離婚を承諾せぬのは愛情のゆえか。こんな俺にもまだ愛情を持っているらしい妻に、感謝よりもなぜか恐怖が先に立った。

 カエルを水から茹でると水の沸いたのに気づかぬままカエルは死ぬという。
 自分は茹でガエルだと思った。
 そう気づいている分だけ、不幸かもしれない。

 深夜十二時。ああ、寒い。エアコンを点けたいが、妻がリモコンを隠してしまった。それに狭いアパートで寝ている彼女はエアコンの音で目を覚ますだろう。これでは指が動かない。キーが打てない。仕事の見直しやネット閲覧も自由にできないのか。リモコンを渡せ、渡さぬで喧嘩になったことも何度もある。

 俺は避難袋を思い出した。あれに、蝋燭が入っていたはず。蝋燭を点ければいくらか温まるかもしれない……。避難袋とは地震災害の際に必要なものをまとめた袋だ。台所の隅にある避難袋を開けると、蝋燭と燐寸の箱があった。俺は蝋燭に火を点け、小皿に蝋を落として立てた。炎を見詰める。

 俺は昔から炎を見詰めるのが好きだった。ゆれる炎を見ているとなぜか心が落ち着くのだった。仏壇の蝋燭立てに蝋燭を立て、燐寸で火を点ける。そうして暗がりにじっと座っている。こんな俺を両親は危ないと言ってよく叱ったものだ。近所の火事を見物しにいったことも何度かある。火を好む子は性格が異常と読んだことがあるが、そうだなあ、異常なのかもしれない。

 炎に手をかざすが、やはりこんな小さな蝋燭では役に立たないようだ。部屋は全く温まらない。マウスを動かした拍子に小皿が落ち、蝋燭が倒れ、畳に火が移った。火がじわじわと広がってゆく。消さねばならぬのに俺の身体は動かない。ああ、きれいだな。心が落ち着く。

 もっと早くに別れていればよかったのだ。
 俺はどんなに貧しくとも、自由に生きたい。

 火と煙が広がり向こうの台所がよく見えない。服を脱いではたいて消す方法も脳裏に浮かんだが、俺の身体は動かない。別室で寝ている妻を起こさなければ、と思うのに、俺の身体は動かない。ふたりとも助かったところで、愛してもいない、むしろ憎んでいる妻とこれから先死ぬまでずっと暮らさねばならぬのか。

 俺は一生茹でガエルのままなのか。ああ、いやだいやだ。
 決心した俺は炎を跳び超え、アパートの扉まで突進しようとした。
 今ならまだ間に合う。

 しかし一方で、妻を助けなければ自分に殺人の疑いがかかる恐れもあった。助ける余裕は十分にあったのに逃げたと、焼け跡の様子から警察は嗅ぎつけるかもしれない。俺たちの喧嘩の声を近所の連中は知っている。日本の警察はまあまあ、優秀なのだ。こう考えるのはミステリーの読みすぎだろうか。



 どうしようか。どうしようか。
 炎を前に男はぼうっと立っていた。
 今に至るまで、そして最期に及んでのこの決断の遅さが彼の人生を決定づけた。
 男が一酸化炭素中毒で意識を失うのにそう時間はかからなかった。









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