第1話

文字数 7,927文字

―れいちゃん、こぶしの()のお客さん、上地蔵(かみじぞう)さまさ案内してもらえるか。『(なみだ)()』見れっといいと思うから、寒いが朝食前に頼むね。
 玲奈(れいな)女将(おかみ)からそう頼まれるのは、今年に入ってからだけでももう五度目になる。
「はい、わかりました。」
 ひと時でも屋外へ抜け出せる息抜きは、玲奈にはとても有難い。老舗温泉旅館に住み込みで働いていると、24時間仕事と暮らしが連続しているようで、息苦しくなってしまうのだ。
 しかも、掃除・洗濯・調理助手のすべてが苦手分野である玲奈には、仕事に楽しみを見出せない。この時期かかせない雪掻きも運動不足の身体には楽ではないし、何より苦痛なのは自分を取りまく故郷の人間関係だ。
―れいちゃんて、みよしあねの末っ子だべ?ちっちぇえ頃からめごい娘だったなぁ。
―んだ、みよしさんとよぐ似て美人だなぁ。でも、出戻りで帰ってきたんだと。なんだか、悪いだんなだったみてえで、れいちゃんに手をあげるようになったらしいぞぉ。
―あれ、ひでぇこっちゃ。子どもがいねくて、まぁだよかったなあ。
旅館従業員の中には、悪気なくそんな噂話をする者もいる。ここは玲奈が生まれ育った里とは少し離れた隣町だというのに、血縁交友関係はしっかり伸びていて、濃密に絡み合っている。女将は母と同い年の従姉妹だし、大旦那も遠縁にあたる。
 憧れのウェブデザイナー目指して上京し、就職先で知り合った先輩とめでたく結婚した玲奈が5年で破局を迎えた噂は知られているし、長兄一家が仕切る実家には居づらいため、住み込みで働らくことにしたという経緯まですべて筒抜けらしい。
(あー!だからこんな田舎嫌なの、絶対戻らないって決めてたのに…。)
時折大声で叫びたくなる。離婚裁判調停中で住まいもない玲奈に同情し、呼んでくれる友人もいたが、家族のいる友人宅へ身を寄せるのも、実家の敷居をまたぐ気まずさと大差ない。
 清見川(きよみがわ)沿いに立つ一軒宿にやってくる宿泊客は、ローカル単線の駅舎までワゴン車で送迎する玲奈に、申し合わせたように同じ言葉を投げかける。
―雪の絶景、すばらしいお宿ですね、温泉も人もあたたかくて。
―おまけにべっぴんさんに送り迎えされてな。
―本当に。こんなお宿でお仕事してらっしゃるなんてうらやましい!
ありがとうございます、またいらしてくださいね!と営業スマイルをふりまき、内心はうんざりする。
(好きでやってるんじゃないわよ…。)
 これから案内する客からもそんな言葉を浴びせられるだろうか…玲奈はため息をついたが、気を取り直して玄関を出た。その途端、暖房で緩んでいた体内の全細胞がピリッと引きしまった。肺の奥まで凍った大気が到達し、体の芯に外気温の低さを知らしめる。
 玲奈はジャケットのフードを被り、マフラーを鼻まですっぽり引き上げた。厳冬期の早朝、豪雪地であるこの地方では老若男女このスタイルがごく普通だ。10年前この土地を出た玲奈にもそれは染み付いていた。手袋をはめていると、自分を待っていたらしい人物がまっすぐ近づいてきた。
「れいなさんですか?」
玲奈と同じように目元しか出ていなかったが、その声で女性とわかった。小柄な身体に全身黒っぽい防寒着をまとい、ネックウォーマーだけが紫と白の千鳥格子模様で浮き立っている。
(あたしの名前知ってるって事は、女将さんと知り合い?)
玲奈は少し身構え、会釈した。
「こぶしの間のお客さんですね?」
「はい、案内をお願いした大川(おおかわ)です。朝早くからすみません。」
大川と名乗る宿泊客は、黒縁眼鏡の目元しか出ていないが、五十歳を越えたばかりの女将や自分の母の年齢に近そうだと玲奈は推測した。早口で話す言葉は標準語だが、同郷の知り合いがいるなら自分の噂も耳に入っているだろう…玲奈は気が重いのを振り切るように、
「では行きましょう!滑るので気をつけてくださいね。」
と、出発を促した。
 ゴム長靴できしむ足音を立てながら、旅館裏手の坂道を上り始める。年々積雪は減っていると言われているが、左右の雪壁は1メートル半を越していた。集落を見下ろす地蔵堂までの道は、本来冬季は雪に閉ざされる。けれど、宿に備える小型除雪車が3日に一度キャタピラで踏みしめ、雪の道を造ってくれるのだ。この時期『涙の樹』を観たいと希望をする宿泊客が少なくないからだ。
 厳冬の氷点下が続くと現れる『涙の樹』とは、山腹に湧く清見温泉源泉の噴出しぶきが降りかかり、枝先へしずく型の凍結氷を付着させた大樹のことだ。古くから「吹き上げ(こお)り」として知られていたその神秘的な現象を、数年前に著名な詩人が『樹が涙している』と表現したことから、厳冬期におけるこの地の風物詩となったのだ。
 不定期な噴出泉(ふんしゅつせん)のタイミング、気温と風の条件がそろわないと遭遇できない現象で、それまで案内した4人の客も、秋口にここへ身を寄せた玲奈も未だ観たことがない。そんな希少さも訪問客には魅力のようだ。また来年リベンジしますのでよろしくお願いします!と言う客に、玲奈はぜひいらしてください!と笑顔で返しながら、内心毒を吐く。
(いいえ、あたし来年はいないから。樹についた氷なんか、どうしてそんなに観たいんだか気がしれない…軒下のつららで充分だわ。)
 宿の裏手から最初の登りが一番きつい急坂だ。玲奈は案内に出るたび雪道になれていない客をこの坂でぐんと引き離し、勾配がゆるくなる地点で息を整えながら待つ。
 その間、下方に広がる清見川とアーチ橋、遠く重なる山稜を眺めるのだ。故郷に愛着などないのに、その水墨画のようなパノラマは不思議に心が落ち着いた。
 今日も小刻みに足を運んでそこへ到着し、客が追いつくまでひととき休むつもりで振り返ると、驚くことにすぐ後ろに大川は立っていた。深呼吸した大川は、玲奈と同じように下方を見下ろすと、わあ!っと無邪気な歓声を上げてカメラを取り出した。一人はしゃいで何度もシャッターを切っている。
「いいねえ、やっぱこの坂から見る川、いいわ!おお!ベストタイミングで列車が通過!」
 玲奈は、昨夜食器を洗いながら聞いた厨房の会話を思い出した。
―こぶしの間のお客、リコルドとかいう旅行雑誌の人だと。女将さんインタビューされてたみてえだな。
―あれ!んだら、わたしたちも載んないべか?ノーメークで来ちまったけど!
 写真をひとしきり撮った後、大川は楽しそうに歩き出した。自分より先にスタスタ坂を上がって行く客を見ていると、玲奈の心に疑念が膨らんだ。
(この人、なんであたしに案内頼んだの?荷物も道も、助けなんかいらないじゃないの。)
そうは思っても、女将に頼まれた宿泊客を放るわけにいかない。玲奈はあわてて大川の前へ進み出た。
 そこから先の緩やかな勾配は、幾度かつづら折りを越えて源泉のある山腹へ向かう。カーブごとに雪囲いされたお宮やお堂が現れ、雪に埋もれて見えないが、道沿いには道祖神や馬頭観音が多数点在する。現在は一軒宿になってしまったが、以前は数戸が身を寄せていた集落にとって大切な、神仏合混ざる『祈りの道』なのだ。
 玲奈は、不意に背後で大川の声を聞いた。
「お休み中なのにすみません、おじゃまいたします。」
大川が赤い屋根の宮へ拝していたので、玲奈も慌てて黙礼した。そんな拝礼を繰り返して歩いていくうち身体が温まり、玲奈も大川もジャケットのフードを頭から外した。両側の冬木立と雪が、次第に白さを増していく。大川は、上気した頬をゆるませ、楽しげにシャッターを切っていた。
 旅館を出てから30分が経とうとする頃、除雪道終点に上地蔵堂の屋根が現れた。赤銅色の屋根の背後に回りこめば見える『涙の樹』へ、一筋踏み跡がある雪の階段を小走りで上がり切ると、玲奈はそこに立ち尽くした。
 今まさに稜線を越えつつある太陽が、巨樹を斜めから照らして黄金色に輝やきはじめている。枝々に留まった見事なしずく氷が陽を浴びて乱反射し、辺りを煙らせている源泉の湯気に光の筋が幾筋も横切る。
(なにこれ…すごい…。)
荘厳な光景に、玲奈は自分が何故ここにいるのかも忘れて見入った。そして不意に大川を思い出し、背後を振り返った。
「お客さん、早く!ものすごい写真撮れますよ…あれ?どこ行かれました?!」
地蔵堂が見える最後のカーブまですぐ後ろを歩いていたはずの大川は、どこにも見あたらない。玲奈は一瞬混乱したが、最悪の事態を想像して青ざめた。
(崖に転落?いや、深雪に全身はまって動けないでいるとか…。)
緊迫した乾いた声で大川さん!と大きく呼び、玲奈はカーブの向こうまで見渡して黒いジャケットを探した。すると、思いのほかすぐ近くでくぐもった大川の声が聞こえた。
「ごめんなさい、れいなさん!ここよ!」
除雪溜りの向こうに黒いものが見え隠れしている。玲奈がそちらへ近づくと、大川はうろうろ周辺を歩き回り、雪を掻いたり樹を見上げたりしていた。
「何か探しているんですか?」
「ここに供養塔があったの聞いてない?おかしいな、絶対ここって記憶していたのに。」
 玲奈は去年の秋の日を思い起こした。旅館に雇ってもらうことが決まり、女将と一緒に『祈りの道』をたどって上地蔵までお参りした日だ。女将は御堂前で確かこんな挨拶をしていた。
―この娘はれいちゃん、明日からうちで働いてもらうんだ。まだ若いのにうんと苦労してきたんだ…。地蔵さま、宮の神さま、観音さま、それから虫供養さま、どうか見守ってくんつぇ。
「むしくようさまって女将さんが言ってたけど、そのことですか?」
大川は身体を起こし、玲奈を見て笑顔になった。
「そうそう!虫供養の塔!」
女将が合掌しながら話していた言葉が、色づいた秋の森と共に鮮やかに思い出される。
―虫供養知らねっか?この郷じゃ秋の収穫が終わった後やるんだ。畑や田んぼつくってるとな、虫やらちっちゃい生き物たちの命をうんと奪うべ?みんなでここさ集まって、すまなかったなってその魂をとむらうんだ…。
「確か…塔は倒れたからって、丸い石に手を合わせてました。ええと、あのまっすぐ伸びた木の下だったと思います。」
「桐の木ね。」
雪をざくざく掻き分けると丸い石碑が現れ、菓子や線香、果物が供えられた形跡もあった。
「38年ぶりに来たけど、今もちゃんとやってるんだ、嬉しいな。」
 石碑の雪を丁寧に払いながら大川は自分の身の上話を語った。父の転勤で3年ごとに居住地を変えていた大川には、故郷がなかった。ちょうど中学の3年間を過ごしたここが、一番自分にとって故郷と呼びたい場所なのだと言う。神仏に頭を下げながら祈りの道を上がり、皆でそろって虫供養をした晩秋の風景は、40年近く心に色あせず残っていた。
 石碑に合掌し、大川はジャケットのポケットから目にしみるオレンジ色の果実を引っ張り出し、石碑の台座へ備えた。
「先週取材に行った南国のお土産。普通のみかんより甘いのよ。れいなさんも食べる?」
取材という言葉で玲奈は思い出した。
「涙の樹!今、朝日に照らされてすごいきれいですよ!取材写真撮らなくていいですか?」
「取材はこっちなの。『小さな命を供養する身も心もあったかい郷』を記事にしたくて。でもせっかくだからそちらも観にいこ!まあ、来年からはいつでも来れるんだけどね。」
大川は立ち上がり、果実の皮をむいて半分に割ると、玲奈の手に乗せた。
「不思議に思わなかった?このおばさんはなぜ自分を引き連れて来たんだ?って。実はゆみちゃんとみよちゃんにお願いして、れいなさんに会わせてもらったの。」
「?」
「ゆみちゃんとみよちゃん」というのが、女将と自分の母だという事をかろうじて理解した玲奈だったが、その真意はわからぬまま黙っていた。大川は続ける。
「私ね、今年の秋からこの郷で事業を始めることにしたの。」
雑誌社を早期退職し、無農薬農業と食品加工、同時に生態系復元のNPOも立ち上げるのだと言う。
「退職前の最後の記事は、この郷の温かい記事を組みたくて、取材申し込みの電話したんだ。そしたら!53年生きた間のたった3年の友なのに、ゆみちゃんとみよちゃん、私を憶えていてくれて、感動しちゃった…やっぱり私の故郷だ!ここで第二の人生スタートできるなんて幸せ!と思ったわ。」
エネルギッシュに語る大川を、遠い世界の人のようにぼんやり見ていると、
「で、あなたにも手伝ってほしいの。」
と突然言葉が飛んできたので、玲奈は不意を突かれて目を見張った。二人は、朝日に照らされた涙の樹のそばへやってきた。ファインダーをのぞきながら、大川が淡々と続ける。
「想像通りあなたの事情は聞いてる。あなたが田舎を大嫌いなのも、ウェブデザイナー目指してたけど、自立する前に辞めたのも知ってる。」
(じゃあ…どうして?)
涙の樹が朝日を受けて輝きを増すのと反比例に、玲奈の心は暗く沈んでいくのを感じた。
(母に頼むって泣きつかれ、同情であたしを雇うって?それとも、おかみさんが旅館の仕事出来ないあたしをお払い箱にしたいってこと?どっちにしたって最悪…。)
玲奈は、自分の胸の奥のどす黒い濁流を覗き見た。人に見せないその川に背を向けようとしたその時、カメラから顔を離した大川が、玲奈の胸へ鋭く指をさして言った。
「口に出しちゃえばいいのに。しまって置かないで、言っちゃったほうがいいよ!」
その言葉を合図に、玲奈の胸から黒い水が溢れ出した。
「じゃあ…言います。私、母や大川さんの同情で雇ってもらうのは嫌だし、自分の居場所見つけたら旅館も辞めます。向いてないことくらい自分でもわかっていますから。」
「もっとあるんじゃない?遠慮しないほうがいいよ。さあ、そのかわいい顔が鬼になって本音吐くまで怒っちゃえ!」
大川のケラケラ笑う声が、胸の濁流をとめる堰を破壊した。
「からかわないで…みんなで私のことなんて呆れてるくせに。どうせ、父母も兄夫婦も、恥ずかしい出戻り女にうろちょろされて迷惑なはず!いっそ、蒸発でもしてくれたほうがよかったって思ってるでしょうよ!」
玲奈のその言葉を、大川は静かだが力強く制した。
「それは違う。みんなただ、心配なだけ。」
玲奈は激昂(げっこう)を抑えられず、咳き込みながら叫んだ。
「違う?どうしてあんたがそんなこと知ってる?他人の家庭のこと、口出さないで!」
「わかった、じゃあ口出さない代わりに…。」
大川は雪原にズボズボ埋もれながら走って遠ざかると、雪玉を作って勢いよく投げてきた。
「これでもくらえ!!」
パシャンッ!派手な音を立て、雪玉は玲奈の顔の真ん中にヒットした。
「なにするの!」
「素晴らしいコントロールでしょ!ソフトボール得意だったの!」
雪だらけの顔を拭いながら、玲奈は大川をにらんで自分も雪玉を投げたが当たらない。そうしている間に、大川は2発3発と玲奈の額や頬へヒットさせる。
「下手くそ!くやしかったら当ててみな!あら、すかした顔も、メイクも台無しね!」
玲奈は自分の目の奥で火花が炸裂するのを見た。過去に飲み込んで抑えてきたあらゆる怒りが一点に集中し、瞬時に閃光となって飛散する。その向こうにいるのは大川ではなく、自分だった。夫から理不尽な暴力を振るわれてもやり返せず、上司である夫と離れた社内では不当な処遇を受け、夢を諦めた自分だった。
 玲奈は、無言で左右の腕をめちゃくちゃに振るい、握り締めた雪つぶてを四方八方へ投げ始めた。そのうちの一発が大川の黒縁眼鏡を吹っ飛ばした。大川は鼻から水滴を垂らしながら仁王立ちで叫ぶ。
「ついにやけくそになったね!よーし、私も!」
両手で大きな雪の塊を持ち上げ、玲奈のそばまで駆け寄ってどさっと頭上から落とした。玲奈も目をむいてやり返す。寒さも冷たさも飛び散っていた。
 二人は、野うさぎの足跡がひっそりついた雪原で、朝日に照らされながら相手へ雪をぶつけ合い、しまいには取っ組み合いになって転がった。互いの肩をつかんだまま雪に半身を埋めていると、玲奈は目の前の火花がすうっと白い雪に吸い込まれる気がして、力が一瞬抜けた。
「スキあり!」
大川がそう言って玲奈の腕から抜けて立ち上がった。そして、さっと手を差し出した。
「引き分けってことでいい?いや、年齢のハンデ考えると、私の勝ちだね。」
大真面目にそんな宣言をする大川に腕を引っ張られ、玲奈も雪を払った。
「負けず嫌いですね…こんなバカみたいな戦い、勝ち負けなんてどうだっていいです。」
「確かにバカみたいだけど、正直言って楽しかった!本気で人と組み合うなんて、子どもの頃の姉妹ケンカ以来。でもふわふわ雪でよかったわ、30万のカツラ壊れるかと心配だったもの。」
「え?」
冗談を言っているかと思った玲奈の前で、大川はぺろりとウィッグをはずして見せた。毛髪が一本もないスキンヘッドについた水滴を、ハンカチでぽんぽんと拭いて笑う。
「去年大腸癌になってね、投薬が無事終了したとこ。生き返らせてもらって、おかげで第二の人生に踏み切れたんだから、これくらい我慢しないとね。」
(そんな…。)
玲奈は絶句し、病み上がりで母ほど年上の女性と取っ組み合いした事を後悔した。
「悪いことした、と思った顔ね。私からケンカ売ったんだから気にすることないよ。れいなさん!自分が悪くない時は、そっくり返るくらい胸はっていたほうがいいよ。」
 地蔵堂の石段の雪を掻き、二人は並んで腰を下ろすと『涙の樹』を眺めた。輝く氷を見つめながら、玲奈は自分の心も涙型の氷のように澄んで静かなことに気づいた。大川が不意に問う。
「どうして、樹が涙しているって、詩人が詠んだか知ってる?」
「いえ…知りません。詩って、全然興味なくて。」
大川は、正直でいいわね、と笑った。
「私も他人の心象風景、あまり興味ないの。ま、編集者の端くれだから一応読んだけど…。この樹は、春に自分の枝先で生まれた虫達も、夏に自分の梢でさえずった小鳥達も、秋に自分の幹を駆け登ったリス達も真冬になるとぱったり来なくなるから、寂しさで泣いているんですって。」
(そんなことで、樹は泣くかな。)
玲奈がそう思っていると、大川がにやっと笑った。
「樹は自分が寂しいだけじゃ泣かないと思わない?でも、根を張っているこの地が毒されて、鳥もリスも、虫も、苦しんでいるのを見たら泣くかもと思う。だから私、樹が泣かないような事業を起こそうと思ってるのよ。そして虫供養される命を減らしてあげたい。どう?力貸してくれる気になった?」
玲奈は、黙って大川の顔をまっすぐ見た。同時に、母と女将の顔も浮かぶ。
―みんなただ、心配なだけ。
ケンカの最中聞いた大川の言葉が目の奥に現れ、急激にふくらんだ。そのふくらみに涙腺が刺激され始めたので、玲奈は慌てて立ち上がった。
「…ほんの少し、考えてから答えさせてください。」
「了解!返事急がないわよ。なんなら秋まで保留でも。」
「いいえ、ここから旅館へ帰るまでで…十分返事できますから。」
「そう?そうだ、もう降りなきゃゆみちゃん心配するね!」
 青空を映す涙の樹を背にし、二人は並んで歩き出した。来た時に青白かった雪の道は白く眩しい。朝日に背を押されながら無言で歩いて行くと、早くも清見川と旅館の青い屋根が見えてきた。
「下りは速いね。来る時は置いていかれると悔しいから、必死に歩いてたんだから。」
「ほんとに負けず嫌いなんですね…。」
「れいなさんほどじゃないわよ。ああ、大暴れしたからお腹空いた!」
大川がお腹を押さえてへっぴり腰で坂を下る。
 最後の急勾配を降りながら、玲奈は心に散らばっている言葉をまとめた。
 けれど、返事は歩き出す前から決まっていた。感謝の気持ちをどう伝えたらいいか考える時間が、玲奈には必要だったのだ。
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