衝動

文字数 2,336文字

無音。何か音を発すればこの空間を構築していた膜のようなものにひびが入りそうだ。
水面に小石を落とした時に広がる波紋のように、それは徐々に全体へ広がっていき、もう取り返しのつかない何かに化けてしまいそうな。そんな恐怖じみた得体の知れない何かが僕を覆っていた。いつまでそんな時間が続いていただろうか。たかが数秒だったような気もするし、1時間くらいだったかもしれないが、僕にはもうよくわからない。

「何か、悩んでいることでもあるんですか?」

隣に座る彼女が静寂を切り裂いた。
「どうして?」
僕は平然を装いながら訪ねた。顔の筋肉の動かし方と声のトーンは毎日のようにトレーニングしているから問題はないはずだ。

「何だか、今の先輩、とてつもなく深い海の中に沈められているような気配を感じます…うまく言い表せないけど、これまで築いてきたすべての事象を一瞬で無意味にするような、そんな巨大な闇、虚無そのもののような…」
「急にどうしたの?よくわからないけど、詩的なニュアンスでなんだかとてもかっこいいね。」

職場の後輩である彼女は時々このように独特な言い回しをするときがある。感性が鋭い者特有の、世界の成り立ちや、人間を突き動かす、見えない何かを構成する本質のようなものをぴたりと言い当ててしまう審美眼。美しくも、限りなく危険な眼。

「すみません、ただ今の先輩の方が何だかとても安心します。普段とはまるでまとっているものが違うけど、何だかとても温かい。一緒にいるって感じがします。」

彼女が直属の先輩である僕に好意を抱いているのは明らかだった。普段の僕は常に笑顔を絶やさず周囲へのフォローも忘れない。かといって主人公のように際立って光を放ち過ぎることもない。絵に描いたような好青年。それが僕の演じる役割。
彼女に初めてデートに誘われて食事へ行った。SNSで有名なイタリアンレストランへ行き、写真を撮り、食事をした。仕事モードになってしまってはいけないので、プライベートや趣味の話をするよう心掛けた。普段通り役割を演じるに過ぎなかった。彼女はとても饒舌だった。家族のこと、学生時代のこと、仕事のこと、家での過ごし方や趣味。僕と話題を共有できることが嬉しくてたまらないのだという無邪気な笑顔。眩しかった。彼女の放つ圧倒的な光が僕の中の何かを飲み込んでいくような気がした。。
気づいたら僕は彼女を家に誘っていた。彼女は二つ返事で了承した。

「もう気づいていると思いますけど、私、先輩のことが好きです。普段の先輩が素敵だからっていうのもそうなんですけど、なんていうか、さっき話したこと、実は普段から少し感じてました。この人は深い闇の渦のようなものと戦っているんじゃないかって。孤独なんじゃないかって。ただそう感じるときはほんの一瞬で、気づいた時には先輩は爽やかな笑顔を浮かべているから、私の思い違いなんじゃないかって流していました。でも先輩の家に来てから確信しました。やっぱり思ったとおりだって。」

僕は何も言わない。鼓動が早くなっていく。

「そんな先輩だから私はどうしようもなく惹かれてしまうんです。闇を隠して必死に光を演じ続ける、世界に対してひたむきで真面目な先輩がどうしようもなく好きなんです!先輩、すごくかっこいいです。私が先輩の中に潜む闇を取り除いてあげたい。先輩が隠していることとか、過去とか、そういったものをもっと共有してほしい!先輩のことをもっと知りたい!」

凄まじい熱量が僕の心を満たす。僕もずっと疑問に思っていた。イタリアンレストランで感じた僕の内側を飲み込んでいくようなあの片鱗は一体何だったのかと。その正体がやっと分かった。喉の奥に閊えていた骨が綺麗に取り除かれたような爽快感が僕を包んだ。気持ちいい。

「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいよ。」

彼女の頬に手を触れる。僕の身体へ引き寄せる。恍惚とした表情を浮かべる彼女はとても淫靡で美しいと思った。彼女の顔に僕の顔を近づけると同時に、頬から首元をゆっくりと撫でる。鼓動が早くなっていく。まるで熱にうかされるように何も考えることができない。

「っ、が、あ、あ、かヵ、」

彼女のえずく声が響き渡る。彼女の喉が徐々に熱くなっていく。焼けるような熱が僕の手を覆っていく。僕は馬乗りになり、必死に抵抗する彼女を蹂躙する。

「せ、ぜんば、い、ああじて」

彼女の苦悶の表情が僕の視界に広がっていく。その表情を見たとき、僕は奇妙な感覚を覚えた。まるで自分の身体が自分のものではないようにコントロールが効かない。誤作動を起こした機械のように。僕と彼女のやり取りをもう一人の僕が、映画を見ているように事態を傍観していた。命の輝き。僕は時と場所を選ばずにそんなことを考えていた。これが命という実体のないものの正体なのだと思った。
常軌を逸した全能感が僕を包む。光を浴びることができない代わりに僕にはこれが与えられたのだと思った。彼女の首と僕の手はもう焼けそうに熱い。しかし僕の手は固定されたように離すことができない。

「ぜんばい、どうじて…」

彼女の身体から力が抜けた。首から徐々に熱が失われていく。もう動かない彼女の血走った眼球を見ても、僕はしばらくの間彼女の首から手を離すことができなかった。
僕を包んでいた熱も徐々に引いていき、再び深い海の底に沈んでいくような感覚へ戻っていた。僕を再び覆った虚無のような何かは、これまでのどの闇よりも色合いが深く、澄んでいた。綺麗だった。
静寂が訪れた。彼女の亡骸をただ見つめていた。いつまでそうしていただろうか。
数秒かもしれないし、数時間かもしれない。それ以上だったかもしれないが、僕にはもうよくわからない。



                   「了」


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