辞表
文字数 1,504文字
退職願
この度、一身上の都合により、誠に勝手ながら、20××年×月×日を持ちまして、退職いたしたく、ここにお願いいたします。
入社してからの数年間、多くのことを学ばせていただき、社会人として、何より人間として大幅に成長することができました。
平凡を絵に描いたようなアットホームで小さなオフィス、そこで日々お茶を汲みながら上目遣いで媚びを売る日々、凡庸な男性社員の下卑た嗤い声、一つ一つが今となってはかけがえのない思い出です。思い出せば出すほど本当に貴重な日々でした。
私の退職理由をまだ明かしていませんでしたね。結論から言うと転職です。あまりにも一般的過ぎて失笑してしまうことでしょう。私もそう思います。
しかし私はここでの生活から学習いたしました。私には力があるということを。そう、顔です。私は顔がいいのです。私は美しいのです。飢えた獣のような皆さんの生々しい視線がそれを教えてくれました。
女性の持つ美しさは時として大乱を巻き起こす力があるといわれています。クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていただろうというパスカルの言葉があるように。私もそう思います。妲己がそうだったように、あまりにも美しいと言われた女性が結果的に国を滅ぼした事例も実際にあるのですから。
話が逸れましたね。私の転職先は○○製薬会社です。ご存じでしょう。日本を代表する大手製薬会社ですから。私はそこで社長の秘書を務めます。
取り入るのは簡単なことでした。私の持つ陶器のような白い肌と、支配欲を搔き立てるような上目遣い、天使のような甘い声音を駆使すればいいだけのことですから。拍子抜けです。日本経済の一端を握ってらっしゃるお方がこのような茶番で篭絡されてしまうのです。これからこの国はどうなってしまうのでしょうか。
しかし私はそのおかげで長年描き続けていた夢への道を切り開くことができました。
転職し、秘書業務に従事する私は、仕事柄、多くの経営者やハイスペックなビジネスマンと接触します。若く美しい私を手に入れたいという方はきっと多い。会食に誘われ夜景の見えるレストランで食事をし、ワインの甘さに酔いしれた後、毎晩のように高級ホテルのスイートルームで代わる代わるイケメンに抱かれる自分の姿を思い浮かべるだけで身悶えしてしまいそうです。
やがて私は多くの情事、求愛の中から、最も有能かつ容姿端麗な男性と恋仲になり、婚約し添い遂げます。東京中を一望できるタワーマンションに居を構え、玉のような美しい我が子に愛情を注ぎながら、昼間は美容に精を出し、絵に描いたような優雅で豪奢な生活を営むのです。
贅沢という贅沢を貪り続けても終わらない華美な日常、それはもはや退廃に等しいのかもしれませんね。
しかし私にはもうこうするしか道はないのです。限られた者が立ち入ることの許される領域に足を踏み入れることでしか幸福を感じることができないのです。物心ついたときから普遍的な存在を許すことができず、ささやかながらも微笑ましい日常に満足できなかったのです。だから私は進み続けます。垢にまみれたこれまでの人生を侮辱するために。
そういう意味では皆さんにはとても感謝しています。
凡庸な空気が作り出す輪の中に居続けることなどできないと、自らの夢を実現するための意志を明確化するきっかけを与えてくれたのですから。ここまでくるともはや宣戦布告ですね。
長くなってしまいましたが、今まで本当にお世話になりました。皆さんの益々のご活躍を心よりお祈り申し上げます。
「了」
この度、一身上の都合により、誠に勝手ながら、20××年×月×日を持ちまして、退職いたしたく、ここにお願いいたします。
入社してからの数年間、多くのことを学ばせていただき、社会人として、何より人間として大幅に成長することができました。
平凡を絵に描いたようなアットホームで小さなオフィス、そこで日々お茶を汲みながら上目遣いで媚びを売る日々、凡庸な男性社員の下卑た嗤い声、一つ一つが今となってはかけがえのない思い出です。思い出せば出すほど本当に貴重な日々でした。
私の退職理由をまだ明かしていませんでしたね。結論から言うと転職です。あまりにも一般的過ぎて失笑してしまうことでしょう。私もそう思います。
しかし私はここでの生活から学習いたしました。私には力があるということを。そう、顔です。私は顔がいいのです。私は美しいのです。飢えた獣のような皆さんの生々しい視線がそれを教えてくれました。
女性の持つ美しさは時として大乱を巻き起こす力があるといわれています。クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていただろうというパスカルの言葉があるように。私もそう思います。妲己がそうだったように、あまりにも美しいと言われた女性が結果的に国を滅ぼした事例も実際にあるのですから。
話が逸れましたね。私の転職先は○○製薬会社です。ご存じでしょう。日本を代表する大手製薬会社ですから。私はそこで社長の秘書を務めます。
取り入るのは簡単なことでした。私の持つ陶器のような白い肌と、支配欲を搔き立てるような上目遣い、天使のような甘い声音を駆使すればいいだけのことですから。拍子抜けです。日本経済の一端を握ってらっしゃるお方がこのような茶番で篭絡されてしまうのです。これからこの国はどうなってしまうのでしょうか。
しかし私はそのおかげで長年描き続けていた夢への道を切り開くことができました。
転職し、秘書業務に従事する私は、仕事柄、多くの経営者やハイスペックなビジネスマンと接触します。若く美しい私を手に入れたいという方はきっと多い。会食に誘われ夜景の見えるレストランで食事をし、ワインの甘さに酔いしれた後、毎晩のように高級ホテルのスイートルームで代わる代わるイケメンに抱かれる自分の姿を思い浮かべるだけで身悶えしてしまいそうです。
やがて私は多くの情事、求愛の中から、最も有能かつ容姿端麗な男性と恋仲になり、婚約し添い遂げます。東京中を一望できるタワーマンションに居を構え、玉のような美しい我が子に愛情を注ぎながら、昼間は美容に精を出し、絵に描いたような優雅で豪奢な生活を営むのです。
贅沢という贅沢を貪り続けても終わらない華美な日常、それはもはや退廃に等しいのかもしれませんね。
しかし私にはもうこうするしか道はないのです。限られた者が立ち入ることの許される領域に足を踏み入れることでしか幸福を感じることができないのです。物心ついたときから普遍的な存在を許すことができず、ささやかながらも微笑ましい日常に満足できなかったのです。だから私は進み続けます。垢にまみれたこれまでの人生を侮辱するために。
そういう意味では皆さんにはとても感謝しています。
凡庸な空気が作り出す輪の中に居続けることなどできないと、自らの夢を実現するための意志を明確化するきっかけを与えてくれたのですから。ここまでくるともはや宣戦布告ですね。
長くなってしまいましたが、今まで本当にお世話になりました。皆さんの益々のご活躍を心よりお祈り申し上げます。
「了」