ヒスイの手に持っていた鍵は、手元から“勝手に”浮かび上がる。
そして、その鍵はヒスイの目の前で反時計回りに90度傾き、また角度を戻すと更に輝きが増した。
光輝くのと同時にヒスイの鍵は強い冷気を放った。その冷気の勢いによって瞼(まぶた)を一度塞ぐと、瞼を開いた時には既に形がまるで別の姿に変形していたのだった。
鍵が氷ナイフに形を変えると輝きは無くなり、ヒスイの手の上にゆっくりと落ちてきた。
(まるで、これで“戦え”って言われてるみたい…。でも、どうやって?)
ヒスイが手のひらに乗っている氷ナイフに気を取られていると、隠れていた日下部が突然木の影から飛び出して険悪な顔で大きな声を出した。
目の前のその敵は、言葉に言い表せないような不気味さを放って“こっちを見ている”。
雪のように真っ白く、サンタの帽子を被った姿をしたヘンテコな形のその生物は、どこにも顔が無いのにヒスイの所までやって来たのだ。
(“顔なんて無い”のに何で“こっちを見ている”気がするんだろう。気持ち悪い)
ヒスイの体は固まって動けなくなっていた。
しかし、ヘンテコの胴体をよく見ると、薄っすらとその体内に日下部の鍵があるのを見つけてしまう。
ヒスイは日下部の鍵を取り返そうと、氷ナイフを握っている手を振りかざしたその瞬間―――…
先手を打とうと考える余地もなかったヒスイ。
ヘンテコが自分の目の前に現れたその数十秒の間に、自分の身体に強烈な痛みが走った。
ヒスイは自分の足元を見てみると、ヘンテコの腕のような部分がヒスイの片足に刺さって貫通していたのだ。
日下部はヘンテコから遠ざかるのを止め、ヒスイの方へ向かって駆け寄ろうとする。
気が狂いそうになるような痛みが全身を巡っていて震えが止まらなかったが、ヒスイは氷ナイフを握っているその手を離さなかった。
そして、ヘンテコの一部が自分の足に刺さって動かない隙に、氷ナイフを握っている手を大きく振りかざす。
ヒスイの氷ナイフがヘンテコの胴体に刺さり、その後刃が離れた瞬間、刺した部分から冷気が一気が溢れ出す。
すると、そこから巨大な氷柱が出現したのだ。
ヒスイの氷ナイフによって出現させた巨大な氷柱は、ヘンテコの体の一部を凍らせた。
(巨大な氷!?どういう原理で?…いや、今はそんな事より――…)
ヒスイはもう一度、氷ナイフを振り上げてヘンテコに突き刺した。すると、先ほど出現した巨大な氷柱に続いて、再び巨大な氷柱を出現させる。
今度はヘンテコの身体をすべて包み込むほどの巨大な氷柱で、ヘンテコの体は完全に凍ってしまい、そのまま動かなくなった。
ヒスイの足に刺さっていたヘンテコの腕のような一部も、力が抜けたようにヒスイの足からスルッと抜け落ちると「シュー…」と音を立てて全身が丸々溶けていった。
日下部がちょうどヒスイの元へ着いた直後、目の前でヒスイはその場に倒れ込む。
日下部はすぐ隣で呼びかけたが、ヒスイは苦しそうな表情を浮かべて意識が朦朧(もうろう)としていた。
倒れ込んでいるヒスイの足からは大量の血が流れていて、雪の上を真っ赤に染めている。
(どうする…この状況。誰か呼んでくるか?…いや、ここがどこかも分からない上にさっきから人気(ひとけ)も全く無い。)
ヒスイの弱弱しいその指が示す方向に目を向けた日下部。
そこにはヒスイが先ほど出現させた巨大な氷柱があった。
日下部は近くまで歩いて行くと、ヘンテコが溶けていなくなった所に日下部の鍵が落ちている事に気が付いた。
(俺が持っていた鍵の事を示しているのか…?こんな鍵に道角が守るほどの価値なんて…)
(でも、道角が守ったものをこのまま放置するわけにもいかないしな…)
日下部は一度見逃そうとしたその鍵をぎゅっと握りしめると、丁寧に自分のポケットへしまうことにした。
その一部始終を薄れゆく意識の中、見ていたヒスイは少しホッとする。
そして、近づいてきた日下部に向かって口を開いた。
ヒスイは痛みに耐えながら自分の上半身を自力で起こした。
「…あのさ、後で必ず追いつくから先に行ってて。私は大丈夫だから」
その後に続く言葉を何か言いかけた日下部だったが、そっと自分の口を閉じると小さく深呼吸した。
それからヒスイの目の前で膝をつくと背中を向ける
しかしヒスイは一呼吸おいた後、すっとその場に立ち上がって“何ともなかった”かような態度を取った。
「心配かけてごめん。本当はそんな大したことないから大丈夫」
「へーきへーき!本当にヤバかったら、立てる事すら出来なくない?」
日下部は何度かヒスイを説得しようと試みるが、ヒスイは全く聞こうとしなかった。
尚且つ、元気なポーズをとると「さあ、進もう!」と言って自分から進んで歩き始める。
そして渋々重い腰を上げた日下部に「自分は方向音痴だから日下部の後ろに着いていく」と言って自分の前に日下部を“歩かせた”。
黙々と日下部の後ろに続いて進んでいくヒスイ。そのヒスイの姿にあまり大きな怪我では無かったのだと安心してしまう日下部。
降り続ける雪は視界を邪魔していたが、ヒスイにとっては逆に今はこの状況が好都合だと思った。
あえてヒスイは少しずつ少しずつ日下部との距離を離して歩いて行く。
一応時々後ろを歩くヒスイを確認しながら歩いていたつもりであった日下部。
急に静まり返った事に違和感を覚え、もう一度ふと振り返ろうと後ろを向いた瞬間、驚いた。
一方その時、木に背をもたれながら座り込んでいる一人の女性の姿が林の中にあった。
実はヒスイは、日下部の後ろを歩いていながらも徐々に距離を取り、日下部が気づかられないうちに道から外れていたのだった。
ヒスイには、もう日下部に強がって“平気なフリ”をする力はもうは残っていなかったからである。
(自分でやったことなのに、日下部の足まで引っ張りたくない。…ここまで何とか歩いて来れたけど、そろそろ限界…だったか……ら………………)
ヒスイは自分の体に力を入れようとするが、どこにも力が入らない。
“寒気”と“震え”と“痛み”はヒスイを襲うのをやめなかった。
そして、見ている景色は視点が合わなくなると、ぼんやりと霞(かす)んでいった。
ヒスイはついに意識を失ってその場に独りで倒れ込む。
えんじ色の服装をした男性が雪の中を走っている姿が遠くに見えた。
その男性はとても慌てている様子だった。
雪の上を一歩一歩踏み締める足跡が次第にこちらに近づいてくる。
それは自分たちが歩いて来た道を後戻りしてきた日下部の姿であった。
日下部は早足で、下を向きながら足跡を確認していた。
ひたすら来た道を戻って行くと、途中でヒスイの足跡が林に向かって“反れている”箇所を見つける。
(“2人分の足跡”はここまではちゃんと続いてる。…血痕もここまでだ)
足跡と血痕がその場所で途切れているのを確認すると、日下部は道から逸れた暗闇の林の方を向いた。
(…なんで、大丈夫じゃないのに何も言わないんだよ)
日下部はずっとイライラしながらヒスイの痕跡を辿る。
その理由をヒスイの姿を見つけてようやく気が付く事となった。
日下部は林の中に入ってすぐのところにヒスイが倒れているのを発見した。
日下部はその姿を見て思い知る。
ヒスイが痛みを耐え苦しんでいた様子がわかる壮絶なその表情は、さっきの笑顔とは真逆だった。それは本人がどれだけ痩せ我慢していたのか、簡単に想像させた。
日下部は頭に入ってくる視界からの情報に、ショックで言葉が出て来ない。
立ちずさんでいた日下部は、拳をギュッと握りしめる。
すると、倒れているヒスイをそっと自分の背中の上に乗せると、ゆっくりと抱え上げた。
そして、今度はそのまま振り返らずに前を向いて進んでいく。