第3話

文字数 1,414文字

 携帯のバイブレーションが鳴った。博也からだ。
「旦那さま?」
「珍しい、彼には遅くもない時間だと思うんだけど」
 食事もとても美味しかった。一人で切り盛りしている彼女の邪魔はしたくなかったけれど、川北さんは人魚のように優雅にカウンターキッチンとテーブルの間を行き来して、誰との雑談にも応じてくれる。それになんとなく耳を傾けて飲むのは、とても充足した時間だった。みんな家族や仕事や生活のいろいろな悩みも楽しみもあって、日々を暮らしているのだと思う。誰一人同じ悲しみでも喜びでもないけれど、そんな“同士感”が互いにちょっとだけ元気を与えてくれる。
「帰宅したら私がいないから、驚いたみたい」
 普段は遅くに帰ってきて、取り置いた夕食も手を付けずそのまま寝るくせに、今日に限ってどういう風の吹きまわしだろう。今ならあの時の親の気持ちも分かる、家族って慣れ過ぎると、互いが何してるのか関心が無くなるのよね。毎日が回っていくために、相手がしてくれることも当然になって。私がいなくても彼にとっては何の支障も無いでしょうに。肩を竦めて見せると、川北さんは芙蓉の如く笑った。
「顔を会わせなくても、どこかで自分を見ていてもらえる、っていう確証が欲しいんじゃない」
 まあ、我が儘だけどねえ、わたしも他人さまのこと言えないわ。結局ヒトって、誰かに聞いて見てもらえることでしか、自分が存在しているって実感を持てないものだもの。私がやっぱりお店を再開したのも、遠くに紛れてしまいそうな、小さな声のヒトたちが集まれる場所になれればいいなあ、と思うから。

***

 彼女は学校に来なくなった。翌月の雨の日も、その次の雨の日も次の次の雨の日も、姿が見えない。玄関の傘立てには見覚えの有るビニル傘が残されていたが、誰も持って帰らないのでやがて学校に回収されてしまった。私は思い切って定時制の生徒を待ち伏せし、尋ねてみた。リーゼントにレザージャケットの彼は厳つい外見とは裏腹に、気の毒そうに教えてくれた。オレも又聞きだから。なんか親が事業を畳んで、他県に引っ越したらしいって。ちょうどバブル崩壊後の不況が始まった頃だった。接待や飲み会が減って、外食サービス業への影響は甚大だった。私が力になれることなど、何も無い。憤懣やる方ない気分で校内をうろうろと歩き回った。工夫すると楽しいかも、と思い始めていた放送部の活動も、無茶苦茶にしてやりたいような気がして、そんなふうに思う自分に落ち込んだ。川北さんに聞いてもらいたかった。川北さんのことをもっと聞きたかった。私はあまりにも無頓着で意固地で、やりたいことも、やるべきことも気づかなかった。川北さんもクラスメイトたちや親たちも、みんなこんな思いを抱きながら生きているのか、という漠然としたやるせなさで押し潰されそうになった。雨の向こうから、あなたのあなたのあなたのまだ知らぬ声が響いてくる。私はその中に、傘も持たずに立っていた。

***

 お店の扉を開けると、古いオフィスビルの屋上に細い月がひっかかっている。水たまりを避けて道に踏み出す。店内のライトが漏れ出して、川北さんが見送りに手を振ってくれる。
「夫が慌てて娘のところにも電話したらしいの、外で飲んでるって言ったら、今度連れていけ、って」
 川北さんはうひひ、と悪戯っぽく笑った。楽しみにしてる、有り難う。ビー玉みたいな目が夜気にぴかぴかと輝いている。また雨が降ったら、あの場所で。
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