第14話 ダニエルの問題

文字数 4,038文字

 休み明け。久しぶりに、大学へ。

 登校の途中で朝市に寄る。買い込んだ馬鈴薯(じゃがいも)が詰まったリュックを背負い、埃っぽい通学路を歩く。

 擦れ違う若者が、ジム・モリソンの顔がプリントされたTシャツを着ている。ネパールに来てから、矢鱈(やたら)と見掛けるTシャツだ。
 ジム・モリソンは、60年代に活躍したロック・バンド、Doors(ドアーズ)のボーカルである。今頃になってDoorsが流行(はや)っているのだろうか? 着用者たちが、ジム・モリソンを知っているのか不明だが。
 ジム・モリソン自身も、まさか自分の顔のTシャツがネパールで出回るとは想像しなかっただろう。しかも、死して何十年も経ったのちに、だ。

 ネパールにいると、時間の(ひずみ)を感じる。時間経過が滞っているような。60年代にタイム・スリップしていても違和感のない、ノスタルジックな光景が各所に見られる。

 Doorsの知的な歌詞と土臭い音楽は、案外、ネパールの空気にマッチするかもしれない。うろ覚えの『Hello, I Love You』を口遊(くちずさ)みながら、上機嫌で足を進める。

《ヴィパッサナー瞑想センター》の事務所に寄る。併設の瞑想室で、隅に重ねてある座布団を取り、他の瞑想者の邪魔にならない場所に敷く。通学前に、さくっと瞑想しようか、と。



 ゴエンカ師は、コース終了後も各自が朝夕1時間ずつ座るように勧める。毎日2時間の捻出である。瞑想すると、睡眠時間も短くて済むそうだが。

 20分も座っていると、飽きてくる。
 早々に切り上げ、座布団を元の場所に戻す。瞑想室を静かに出て、再び大学に向かって歩き始めた。

 市場やら瞑想センターやら、とにかく寄り道が多い。直行するよりも3倍の時間を掛けて、ようやく大学に到着した。
 正門を(くぐ)り、校舎の2階へ。教室のドアを開ける。

 埃の飛び交う教室の中で、篠田さんが椅子の上で胡坐(あぐら)()いていた。休み明けで久しぶりといっても数週間しか経っていないが、なんだか懐かしい感じがする。

 ダニエルは、まだ来ない。

 いつも早く来ていたリカルドの姿もない。本当に、退学したのだろうか? いなくなると寂しい。教室が広く見える。
 
「休暇が始めに道端で偶然、リカルドに会いました。退学するそうですよ」
「ほら、私の指摘したとおりでしょう? やっぱりリカルドにサンスクリットの学習は無理だったんだ」自分の思うように事が運んで得意顔だ。「リカルドの学習進度に合わせてて、間怠(まどろ)っこしかった。これからは授業がサクサク進む。もっと楽しくなるぞ」

 ああ、リカルドは不運だった。よりにもよって、篠田さんと同じクラスになるなんて。サンスクリットを嫌いにならなければ良いが。

 篠田さんのリカルドに対する批判を聞いていられない。話題を変えた。

「スンダリジャルは、どうでしたか?」
 休暇中に篠田さんが訪れたはずの地名を挙げる。

 篠田さんの顔が急に曇る。
「駄目だ。スンダリジャルも汚れてしまった」

 聞けば、いつも泊まる宿に新たな従業員が増えていたそうだ。篠田さんの主張では、新しい従業員は心に深い悩みを抱えており、苦しみの思念が篠田さんに飛んでくるので、心身ともに調子が悪くなるのだ、とか。

「あーあ。スンダリジャルも駄目になったか。ネパールは、何処(どこ)彼処(かしこ)も汚れだらけだ。見切りを付けて中国に移ろうか。今、注目すべきは気功だ」

 中国のほうが過酷な状況では? ネパールは内紛でゴタゴタしているものの、人は温和で押並(おしな)べて親日である。
 篠田さん自身が変わらなければ、どこへ行っても同じだ。結局は、自分の軸がブレないことが一番大事。

 ――と、瞑想修行を(かじ)った所為(せい)か、(もっと)もらしい言葉が浮かぶ。
 
 休暇前に醤油を戴いたので、お返しに김밥(キンパ)を渡した。近所の韓国料理店で作っている、韓国風太巻である。篠田さんの眉間が開き、表情が和らいだ。弾む声で「ありがとう」と。シャイな少年のような、照れの混じった笑顔だった。

 こういうところは、可愛いんやけどなぁ。なぜ、憎まれ口を叩くのだろうか。良さが発揮できていなくて、勿体(もった)ない。

「篠田さんがスンダリジャルでお過ごしの間、私は瞑想センターで修行しました。瞑想って、なかなか集中できませんね。脚が痛くて(たま)らなかった。練習すれば、座れるようになるでしょうか?」

 篠田さんは、(さげす)んだ目を私に向ける。「あなたが胡坐を掻けない理由は、精神集中の問題ではない。太り過ぎだ。体が重いから、座っていられないんだ」

 まったくもって、(おっしゃ)るとおりです。

 ディーパが入ってきて、授業が始まった。
 短い(うた)を覚えたり、文法事項を習ったり。贅沢(ぜいたく)な時間だ。サンスクリットを学び、『ギーター』を繰り返し読むだけの単純な生活が送れたらいいのに。

『ギーター』には有名どころの注釈本が数冊出ている。さらに、その注釈本の注釈本とか、注釈本の注釈本の注釈本がある。1冊ずつを(ひもと)いて、『ギーター』の理解を深めていく作業さえあれば、私の人生に暇はなくなりそうだ。原文で読みたいので、サンスクリットのスキルを上げねばならない。まずは、『ギーター』の本文を頭に叩き込むべきだろう。

 休憩を挟み、授業の後半が始まる寸前、ドアが(ひら)いた。

 ダニエルだ。

 頭を掻きながら、窓を背にする後方の机に鞄を置く。気怠そうに腰掛けると、投げやりな手つきで鞄から教科書を取り出した。

 私と目が合うと、「おはよう、宏美。朝っぱらから、よく登校できるね。もう眠くて、眠くて」と愚痴を(こぼ)し、大きな欠伸(あくび)をした。教科書を(めく)り始める。目が開いていない。(まぶた)がトロトロのチーズのように垂れ下がる。

「28(ページ)だよ。ちょっとダニエル、起きてる?」

 詩の暗唱の練習をして、授業が終わる。
 ダニエルと学食でチャーイを飲む。

 手相を見てくれた。私の手首を握り、眉間に皺を寄せた険しい表情だ。

「気を使わなくていいよ。悪い結果は、わかっているから」
 空気を和ませようと、そっと声を掛けた。

 日本でも何度か占い師に見てもらったが、どうも凶相みたいだ。時間の経過とともに手相は変わるものらしいが、今のところ不吉な線のまま。

 世の中には、運気の上がる手相に変える手術もあるのだとか。マジック・ペンで線を描き足しても、運勢を変える効果があると聞く。
 占い師を困らせる楽しみも捨てがたいので、変えるつもりはない。私は私の手相に責任を持って生きていこう、と。

 ちょっと恰好(かっこう)を付けた言い方になってしまった。実際は、もっと込み入った考えだ。

 幼い頃から強情だった。「あんたは頑固で、言い出したら聞かない傾向がある」と親にも指摘された。。友達にお気に入りの玩具(おもちゃ)を壊されると、烈火のごとく怒る。「別の新しい玩具を買ってあげる」と親が(なだ)めても、怒りは治まらない。さらに激しく泣き叫ぶ。

 他の玩具じゃ駄目。〈あれ〉じゃないと嫌。

 心の傾向は、大人になっても変わらない。

 25歳のときに、私は人生で一番大切にしていた希望を失った。誰の所為(せい)でもない。自分の過ちだ。この先の人生で、どんな幸運が訪れたとしても、〈あれ〉の代わりにはならない。

 だから、()えて不幸を背負いたい。

 子供が泣き叫んで周囲を困らせるように、私も自分が幸せにならないことで、苦しさをアピールしている。誰に向かってのアピールかは、わからないが。おそらく自分自身への罰だろう。

 ダニエルは、急に興味を失ったかのように、私の手首を放した。占いの結果は伝える気がないようだ。余程の悪相なのか?

「ねえ、宏美。最近、授業が難しくなってきたから、勉強を教えてよ。授業の終わりに、ちょっと居残ってさぁ」
「まずは、遅刻(ぐせ)を直したら?」
 ダニエルの遅刻は、日に日に(ひど)くなっていた。
「授業の開始時間が早すぎるんだよ。そう思わない?」
「別に。私はダニエルみたいに、夜更かしして遊ばないから」

 ダニエルは毎晩、ディスコに繰り出している。明け方まで酒を飲んでは踊る。帰宅後は寝てしまうので、朝の9時スタートの授業に来られない。

 大幅に遅刻して授業の内容を聞かずに、私に居残って補習をしろとは。ダニエル、それは甘えや。

「だって、眠いんだもん」と、口を尖らせる。

 遅刻しながらも、なんとか欠席せずに顔を出していた。が、そのうち授業に来る日も減っていった。

 中間テストの日――テストが始まっても、ダニエルは来ない。時間内に来て答案を提出しなければ、退学になる。

 早めに答案を出し終わった私は、後ろの窓際に移動した。
 外を眺める。グラウンドを駆けて、今にもダニエルがやってくるのではないか、と。チャイムが鳴るまで眺め続けたが、とうとう現れなかった。

 篠田さんは上機嫌だ。
「ディスコで女の子のお尻ばっかり追い掛け回しているダニエルには、サンスクリットの学習は無理だったんだ」

 ホクホクした笑顔を観察し、篠田さんの心の内を分析する。

 ダニエルを憎むが故の発言ではないだろう。篠田さんの思考回路では、「サンスクリットができる人」イコール「神に選ばれし人格者」だ。つまり、他の生徒が脱落していく結果により、自分自身の徳の高さを実証したいのだ。篠田さんにとって周囲の人間は、自分自身を高く見せるための駒に過ぎない。私も含めて。心の奥では、私の脱落も望んでいるだろう。

 そうは問屋が卸さない。私は意地でも、やめない。大阪女の根性を()めんな。

 1週間後、道端でダニエルに会った。リカルドに続き、またしても、ばったり。

「退学でも構わない。学生ビザも取れたから」私の目を見ずに、(ふく)れっ面で吐き捨てる。

 こんなはずでは、なかったのに。

 リカルドもダニエルも貴重な仲間だ。サンスクリットを学ぶために集まったクラスメイト。もっと仲良くしたかった。コースが終わって散り散りになっても、連絡を取り合う仲でいたかった。いつか世界のどこかで待ち合わせて、同窓会を開けたら。「ネパールは内紛中で、苦労したねえ」なんて、思い出話をしたかった。

 外の世界は、内紛中。
 教室の中でも、ゴタゴタ。

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登場人物紹介

リカルド

クラスメイト

メキシコ人

40代半ば(当時)

神話やインドの文学に興味があり、『ラーマーヤナ』(インドの代表的な文学作品。ラーマ王子の英雄譚)を原文で読みたい

きっちりした性格

ダニエル

クラスメイト

イスラエル人

30代半ば(当時)

アメリカでカメラマンをしていた際、ヨーガを学び始める。精神世界・瞑想に興味ありいずれはサンスクリットでヨーガ・スートラ(ヨーガの経典)を読みたい

大の甘党。ディスコでの夜遊びがやめられない

篠田さん

クラスメイト

日本人

65歳(当時)

ヨーガ、瞑想の(自称)エキスパート。日本の某私立大学の英語講師を25年に亘り勤め上げた。サンスクリットを学んで教本を出版したい

本人曰く、動物をも感動させる歌声を有し、森で鹿を泣かせたことがあるらしい

ディーパ

教師

ネパール人

25歳(当時)

幼少の頃から英才教育を受け、サンスクリットをマスターした才女

3児の母でもある

宏美(私)

日本人

27代半ば(当時)

大学1年生の時にインド旅行で衝撃を受け、インドの虜に

基本的にボーっとしてる

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