一服先は闇

文字数 1,956文字

「コーヒー二つで」
「かしこまりました。席を取ってお待ちください」
 男性は女性店員に短く注文すると、慣れた様子で隅っこの席を取る。私は彼の後ろに付いて行き、向かい合う形で座った。
 ここは私たちが通う大学から程近いカフェだ。落ち着いたウッド調のインテリアは窓ガラス越し見えていたが、小気味良いボサノバまで流れては、誰もがイメージしやすいありがちなカフェと言えた。
「悪いな。消えちゃった発表資料、手伝ってもらって」
「別に良いですよ。先輩とペアだった時点でアクシデントは覚悟してました」
 目の前に居る優男は大学の先輩で、私の同級生からは“疫病神先輩”と呼ばれている。トラブルメーカー、不幸体質――古今東西さまざまな言われ方があるが、彼が趣味とする読書に焦点を当てるならば「事実は小説よりも奇なり」を地で行く人、ということにでもなるのだろうか。
 特に近しい話の中では、彼と付き合った女の子が二度も事故に遭い、とうとう入院沙汰。終いには身の危険を感じて別れてしまったという。無論、先輩に直接的な悪意は全くないのだが、本人がよくドジを踏むものだから彼に原因があるのではないかと邪推されてしまった。
 そして先輩にとって元カノとなる女の子が私たちの同級生。だから私たちの間では“疫病神先輩”なのだ。本人いわく、不幸は大学生になったくらいから都合三年は続いているらしい。
「どうしてデータ消えちゃったんだろう」
「何にでも原因を求めるのは間違ってると思いますよ。現実では意味もないことがたくさんあります。強いて言うなら、先輩の不注意ですね」
 私が捲し立てるように言うと、彼は「厳しいなぁ」と頭を搔いた。
「ここのコーヒーもさ。飲んだら絶対寝ちゃうんだよ」
 さらりと言われた一言で、口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになる。不快な気分でコクを喉に落としてから、疫病神に向かって睨みを飛ばした。
「なんで飲ませたんですか」
「いや、それがな。周りを見てもらったらわかる通り、俺以外そんなやつ一人も居ないんだよ」
 先輩がキョロキョロと周囲に目を遣った。私も追うように客たちを見たが、仲良く談笑する人や課題に追われている学生は居ても、突っ伏して寝ているような人は見当たらない。彼は「な?」と憎たらしい顔で同意を求めてきた。どうやら私を実験材料にしたかったらしい。
「元カノと別れてからくらいだから、三か月前からかな」
「止めようとは思わないんですか」
「ここ、近くて便利だからずっと使ってるしな。それに正直なところ……よく眠れて気持ち良いんだ」
 気持ち悪い理由だ。まさか体に訪れているイレギュラーを快感だと思ってしまっているだなんて。不幸体質も極まれば救いようが無いのだと呆れてしまった。それと同時に、このくらい図太い神経をしていないと生きていけないのではないかとも思う。
 私は「さいですか」と言って再びカップを口に当てた。ここのコーヒーはブラックでも僅かに甘みが感じられて非常に飲みやすい。豆の香りは弱い気もするが、高級嗜好ではない私にとっては、疫病神先輩の与太話以外はどうでも良いくらいだった。
「それにさ、聞いてくれよ。ここで寝る度に変なことが起きるんだ。バッグの中に色んな物が入ってるんだよ」
「色んな物?」
「最初はハンカチだろ。あとはお菓子とか、読んでた小説と同じ作者の本とか……」
「まるでプレゼントじゃないですか」
 思わず笑ってしまいそうになる。ハンカチやお菓子はともかく、本なんてわざわざ彼の趣味嗜好を理解しているとしか思えない。誰かが善意で入れているのか、それともイタズラの類なのか。少なくとも疫病神先輩には嬉しいお届け物のようだった。
「そうなんだよ。俺の不幸体質もとうとうオサラバなのかもしれないぜ」
「はあ。油断していると、足元……」
 すくわれますよ、と言おうとして口が動かなかった。あれ、と思った頃には、ガクッとテーブルに突っ伏してしまう。
「お、何だ。眠くなったのか?」
 興味津々な疫病神先輩。しかし私は返事するどころじゃなかった。動悸が妙に激しくて、体を起こそうとする腕に力が入らない。ようやく私の様子がおかしいことを察した先輩は、店内の人々に助けを求め始めた。
 重たい目蓋を力ませて途切れそうな意識を保とうとした。するとこちらを見る女性店員が、シンクの隅に置いたゴミを見るような目を向けている。私は彼女を見て、疫病神先輩に訪れていた不幸の原因を察した。コーヒーの濃さに隠れていたのは美味しくなる魔法ではない。
 ――ああ、事実は小説よりも奇なり、だ。
 ゆっくりと狭くなっていく視界に恐怖を覚えても、発散させる機能は既に体から奪われていた。冷たく何も感じない世界で、周囲がざわつく音に乗せて確かに届いた台詞があった。
「あなたにも渡さない」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み