1.ほろよいに問う自由

文字数 5,090文字

 長い長い夏休みが終わって、下期の講義が始まってしばらくたつ。このところ、どういうわけか、とても調子がいい。夏の間の沈鬱な気持ちが嘘のようだった。学問に精を出すわけでもなく、スポーツに汗を流すわけでもなく、あるいは最後の青春を謳歌するということもなく、ただ何となく日々を過ごしてしまっていることには変わりないのだが、そのことにいささかの迷いもない。自由とは良いものだ、それがたとえ怠惰の色に塗りつくされていたとしても。
 今日もこうして、早々に講義は15時ぐらいに切り上げて、わずかばかりの日銭を稼ぐためにバイトを少々。21時にはコスパぐらいしか褒めることの無い缶チューハイをぐびぐびと呑んでいる。つまみはこれまた安く買ったプライベートブランドのポテトチップス。幸せとは、その正体とは、このようにして簡易に得られる快楽だ。
 ひとしきり食べて飲んで、満足したわたしは、夜風にあたろうと外に出た。いつも通りの散歩道、ひとしきり堤防の上を歩いて、夜空を仰いで、月の位置を確かめて、手ごろな場所にあった公園のベンチに腰掛けた。満ち足りた気分で、使い古したリュックからもう一つ缶チューハイの缶を取り出して、プルタブを空け、そしていっきに呷る。安っぽいレモンの酸味。ぬるい液体が喉を通った後が、じんわりと熱を帯びるのを感じる。
 ふうっと息をついて、ふと空を見上げてみる。今日の空は雲一つない。満月が煌々と地上を照らしている。少し酔いが回ってきて、しばらくぼんやりとそのままでいた。
 そうして気を抜いている間に、誰かが隣に座ったようだった。
「こんばんは、お姉さん」
 声の方を向くと、そこにはあの日の少年が座っていた。どういうわけか、今日は驚かなかった。
「やあ、ひさしぶり、……ひさしぶり?」
「そうでもないんじゃないかな、1ヵ月ぶりだと思う」
「でも、1ヵ月って、夏休み丸々あってないぐらいでしょ。久しぶりになるんじゃない?」
「まあ、お姉さんがそういうならそういうことにするよ」
「なんだよ、それ」
 前と同じくどこか人を馬鹿にしたような物言い。でも今日は気にならない。わたしは笑って受け流した。
「まったく、今日もお酒飲んでるの」
 少年はあきれた声を出す。
「たまたまだよ、たまたま。わたしだって、いつだって飲んだくれてるわけじゃない」
「ふうん、でも、外で、しかも公園でお酒を飲んでいる人が、普段から飲んでないわけない気もするけれど」
「それも、たまたまだよ」
「じゃあ、何本目?」
「……三本目」
 少年はニヤリと笑う
「状況証拠が一つ増えたね。何か申し開きはある?」
「疑わしきは罰せずの精神、大事だよ」
「陪審員は納得するかな」
「ここはアメリカじゃないよ。裁判員が妥当じゃない」
 少年は口ごもる。どうやら、二の句が継げないらしい。知識の量で大学生に勝てると思うなよ、と今度はわたしがにんまりとした。たまたま、最近受けた教養科目の法学の授業で習いたてほやほやの知識だということは秘密だ。ついでに言えば、口が動くに任せた言葉なので、その真偽はわたし自身もあやふやになっている。
「……それはともかくとして、今日はだいぶ機嫌がよさそうだね」
「うん、まあね」
「なにか、いいことでもあったの」
「何もないよ」
「何もないのに、機嫌がいいんだ」
「そういう日だってあるよ。というか、前の時がひどかっただけで」
 わたしはそう言って、手にしたチューハイを少し舐める。
「そういう君はどうなのさ」
「ぼく?ぼくこそ何もないよ。何もない毎日がずっと続いていくだけだよ」
「そんなこともないでしょ、学校は?学校で何もないだなんてないよ。なんでもいいから言ってみてよ、面白かったこととか、たのしかったこととか」
「お姉さん、僕は学校に行っていないんだ」
 わたしは少し言葉に詰まった。視線を少年に向ける。
「不登校?」
「うーん、まあ、そんな感じ」
 なんでもなさげに少年はそう言う。
「行けないのか、行かないのか、それは言えないけれど、とりあえずはフトーコーってことでいいと思う」
「……ふうん、じゃあ聞かないけどさ」
 本当のことを言えば、もう少し話を聞きたかったけれど、たぶん少年ははぐらかすだろう。
「それにしても、今思うと小学生というのは大変だね。学校に行かなくちゃならないんだから。義務教育で。それに比べれば、大学生なんてのはだいぶ気楽なのかもしれない」
「それはどういうこと?」
「自分で選んで通っている、ってことだよ。訳も分からず、必要かどうかもわからず、通わされてるんじゃなくて。自分からお金を出して、やりたいことをやっているわけだから。気分が向かなければ、授業を休んだっていいし、本当に合わないようなら退学って選択肢もある。逃げようがあるってことだね。ところが、小学校というのは逃げ場がない」
「たしかに、無いわけじゃないけれど、逃げるのに一苦労だね」
「また、そうやって小賢しいことを言う……。まあ、いずれにしてもわたしは自由と言って差し支えないのかもしれない。もう少し、そのことを幸福に思わなければならないのかもね」
 少年は目を丸くした。
「なんか、お姉さん、この前よりずっと大人っぽいよ」
 わたしは鼻で笑った。ガキが。ぬかしやがる。でも満更でもなかった。緩む口元を隠すように、もう一口お酒を口に含んだ。
 少年は、そんなわたしの心の内を知ってか知らずか、生意気な笑みを浮かべる。
「でも、お姉さん、本当に、自由をいいものと思っているのかな」
 まったくこいつは、またわたしをバカにしようとしているのかもしれない。でも、今日は調子がいいから乗ってやろう。
「まったく自由がないよりは、自由な方がいいんじゃない。こうして、お酒を飲むのも自由だし、夜出歩いたっておとがめなし。夜更かししたって、昼まで寝てたって、誰も文句言わない。いいことづくめじゃないか」
「まるでおばけみたいだね」
「残念ながら、試験はあるんだな」
「あ、そう」
「ついでにいえば、そんなにねっとりととたのしいな、たのしいな、なんてのたまわないよ」
「楽しくはないけど、いいものってことだね」
「なんか悪意を感じるけど、そうなるね」
 わたしはなんとはなしにチューハイの缶を右手から左手に持ち直した。
「それにしても、自由って、何物からも縛られないことだけをさすんだろうか」
「たとえば?」
「何かができる自由というのもあるんじゃない」
「お酒を飲むことが出来る」
「それも、結局、誰からも否定されないという意味の自由でしかなくない?そうじゃなくて、自分でありたいようにあることのできる自由。言ってしまえば、自己実現の自由。もっと、簡単にいえば、他者の目線に関わらず、やりたいことのできる自由。そういうものがあるんじゃない」
「わたしはお酒を飲むことによって、自己実現をはかっている」
「本気で言っている?」
「……そんなことはないね」
「じゃあ、お姉さんにとって、そういう類の自由を発揮する、ってどういうことになるんだろう?」
 わたしは返答に困った。わたしに、そういった種類の願望があっただろうか。
 いまはない。ただ、毎日をこなすのに精いっぱい。頑張って生まれた歪をいやすために、お酒で解きほぐしている。
 でも、そういった歪を意識している、ということは何か理想の形がある、ということになるのだろうか。
 いや、ある。あったはずだ。わたしにも、こうありたいという願いは。でもそれは、もう心のタンスの奥深くにしわくちゃにして押し込んでしまっている。そうしたのはいつだったろうか、なぜだったろうか。
 返答に困ったわたしは自己問答の迷路に迷い込んでしまった。
「どうだろう、ね」
 少年は憐れむような笑みを浮かべた。
「はぐらかすのは、お姉さんのためにならないと思うよ」
 わたしは、残り1/3ほど残っていた缶の中身を飲みほした。
「でも、出てこないんだもん」
「自分の望みを言葉にすることが出来ない、それって不自由なんじゃない」
「できないんだから、自由じゃないね」
 そう、わたしは自由じゃない。自由からは程遠い。
 わたしは、どうしてこうしているのだろう?
 脇のリュックをまさぐって、もう一つ、道すがら買った缶チューハイを開けた。あきれたように見咎める少年をよそに、口に含む。やはり安っぽいグレープフルーツの味がする。味わう必要もないのに、もったいづけて口の中で転がしてみる。思案している風を装ってみる。
「そういう、何かをやりたいっていう強い気持ち、今のわたしにはないのかもしれない」
 だからいまこうしている。刹那の快楽を求めている。
「でもさ、そういうあんたはどうなのよ。そうやってゴコーセツ?を垂れるぐらいなら、意見があるんじゃないの」
「うーん、どうだろう。ぼくは実はその二つにはあまり興味がなくて」
「なんだよそれ、自由人か」
 わたしは思わず強めにツッコミを入れた。
「それよりも、心が自由かどうか、ってことに興味があるんだよね」
「心が?」
「そう、心が」
「というと?」
 今までの議論とあまりかわらないのでは、とわたしは思う。もう一口缶チューハイをなめる。そして、おや、と思った。
 今までのように、人をバカにしたように、言葉を並べたてることを予想していたが、その予想に反して、少年はとても言いにくそうにしている。少し困った顔をして、視線がわずかに揺れている。
 わたしは攻め手を見つけたぞと、大人げなく思わずにんまりした。
「あれ、どうした?言葉がでないか、少年」
 そう問うわたしに、少年は弱く笑った。
「難しいね。なんといったら、いいのだろう?自分の思うように動くことのできるのも自由だけれど、物事に対して自分の好きに考えたり思ったりすることができる自由、っていえばいいかな。そんなものもあるのかなって」
 わたしはいまいちピンとこなかった。
「例えば、どんな?」
 ここでまた、少年は逡巡するような素振りを見せた。
 ような気がしたが、不意に目が光ったかと思うと
「お酒を飲みたいと思ったら、好きに飲むことが出来る。これは自由、だね。ある意味では。じゃあ、お酒を飲んでおんなじ味を、香りを、舌ざわりを、のどごし?を、感じたとして、それを美味しいと思うか、まずいと思うか、幸せだと思うか、不幸せだと思うか。それを、自分がしたいように考えられる、そういった類の自由かな」
 なんて言ってニヤニヤ笑っている。
「お酒を飲みたいから飲んだんだから、普通美味しく感じるでしょ」
「だから、その時に、あえてまずいと思ったり、不幸せだと思ったり、することのできたら、ある意味自由じゃない?お腹を満たせば、嬉しいと感じる。そういった生物的本能をはねのけて、自分が思いたいように思うことが出来たら、自由じゃない?」
 なんだか詭弁なような気がする。納得がいかない。一方で、何と答えたらよいものか。眉間にしわを寄せたわたしを見て、なぜだか少年は楽しそうだ。
「逆を、考えたらどうだろう」
「逆?」
「端的に、嫌なことを嫌なことのように思うんじゃなくて、嬉しいことのように思えたりしたら、どうだろう?自分を抑圧する何かに対して、それは自分にとって苦ではないと主張することは、単なるやせ我慢じゃないと思う。屈しない強さ、それも自由じゃないかな」
 なるほど……?わかったようなわからないような。なんか言いくるめられているような気もするけれど。釈然としない気持ちの中で、わたしはふとあることが気になった。
「それじゃあ、なんでその自由に興味をもっているのよ」
「……さて、なんでだろうね」
 少年は、やにわに立ち上がった。皮肉っぽい笑みをわたしに向ける。
「僕、そろそろ帰らないと。じゃあね。お酒はほどほどにしてよね」
 そう言い残すと、わたしの返答なんてお構いなしに、歩いて行ってしまった。アルコールにひたってすっかり腑抜けていたわたしは、そんな少年の後ろ姿を呼び止めることもなく見送った。
 公園を無機質に照らす外灯の先の暗がりを少しの間ぼんやりと眺めている。いくらか時間がたった後で、不意に一つの疑念が遅れて浮かんできた。
 少年は、明らかに話を打ち切って去っていた。一体何が、少年をそうさせたのだろう。少年は何を隠したかったのだろう。なぜああも自由にこだわっていたのだろう。わたしは、どうなのだろう。今の境遇を、本当に、自由だと、それもいい意味での自由だと、断言できるだろうか。不意に浮かんだ好奇心も、次の瞬間には燃え尽きて灰色になる。少し寒いような思いのして、今日はこの辺でいいだろうととぼとぼと家路についた。
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