第2話

文字数 14,828文字

 言いにくそうに告白したランの言葉に、(れん)は間抜けな声で返してしまった。
「はあ?」
 場所は長崎の出島の端の、異人が使う宿。
 そこに難なく忍び込んで、若者はランと会っていた。
 数か月前に主である僧侶が、人間にしては永い生涯を終え、この国にはそれほど未練が無くなっていた若者は、薩摩の山に住む大男を訪ねた後、この地に足を踏み入れた。
 そこで久し振りに、ランと再会したのだった。
 ランの父親が、頭領をしていた群衆は様変わりし、頭領も代替わりしたらしい。
 生憎、その頭領とは入れ違いになったが、昔馴染みの者達との再会を喜んだのは、ひと月前の話だ。
 ランは、男勝りだが人懐こい顔立ちの女だ。
 蓮よりかなり長身で、剣の腕は若者と対等に打ち合えるほどだ。
 若々しい顔立ちなのに、髪の毛の色は抜けて白くなってしまっている。
 その時、ランに紹介された女がいた。
 その女は、十七、八の愛らしい娘で、色とりどりの団体の人間の中でも、ひときわ目立つ明るい栗毛色の髪と、薄い若葉色の瞳を持っていた。
 何やら妙な感じで、小柄な娘を見つめた蓮に、ランは紹介した。
「お前の、祖母さんだ」
 目を見開いたまま、固まった若者に、祖母と紹介された娘は、涙ぐみながら名乗る。
「メル、だ。良くここまで、生きててくれてたなあ」
 涙声で蓮を見上げる目は、優しい。
「母親に似たんだな。ヒスイの面影は全くねえや。それに、こんな半端に時が止まっちまっちゃあ、生きにくかっただろう?」
 しみじみと言って、隣の男を睨んだ。
「何で、こんな衝撃を受ける前に、助けてやれなかったんだ?」
 睨まれた方は、人を食ったような、笑顔を浮かべていた。
 昔会った時も、顔を殆ど崩さなかったからこれが地、なのだろうが今はその中に含みを感じた。
 色黒で大柄なこの美丈夫は、蓮の内心の戸惑いを、分かっている。
 分かっていて、この場を思惑通りに、持っていく気なのだ。
「ちょっと、待ってくれ」
 若干低くなる声は、仕方ない。
 蓮はゆっくりと口を開き、振り向いたメルを見返した。
「その、ヒスイってのは、誰だ?」
 本名では、あるまい。
 この国の人間の名にしても、珍しい。
「オレの息子で、お前の父親の名前だ」
「オレの、伯父貴に当たる人だ」
 ランも付け加え、にこやかにしているが、若干その顔は引き攣っている。
「伯父貴? つまり、あの、カスミの旦那の、兄貴ってことか?」
 言いながら、ランと大男の思惑を探る。
「そうよ、あたしの従兄弟に当たる、カスミちゃんの、腹違いのお兄さん」
 カスミには、二人の兄弟がいる。
 一人は姉で、これは病弱なため、家を出ることが出来ないでいるらしい。
 そして、もう一人が赤毛の大男で、ここにいるメルの、息子でもあるのだと言う。
「ヒスイちゃんは、家を継いで出歩けないから、代わりにメルちゃんが、子供の顔を見たいと言って来たのよ」
「そしたら、孫兄弟の内、上の子の方は生死も定かでなく、下の子は半端に時を止めちまったって言うから……」
「上の子? ……コウヒの事か?」
 ぼんやりと考えながらの呟きに、ランが思わずぎくりとしているが、蓮はそれを見とがめる、心のゆとりはない。
「コウヒって言うのか、お前の兄貴は?」
「……」
 問いかけられて目を背けると、メルは頷いた。
「すまないな、嫌な事を思い出させて。コウヒの方は、火事に、巻き込まれちまったんだな」
 あの後、必死に探しても見つからなかった、只一人の兄弟。
 何故、そういう事態に、なってしまったのか。
 その理由を、ランと傍にいる男は、察しているのだろうか。
 無言の二人の様子に、蓮は小さく笑った。
「ただ一人の、血の繋がった兄弟を亡くしちまった、そう思ってたんだが……」
「会うのが遅くなっちまって、寂しい思いをさせたなあ」
 何度も頷きながら、若者に答えるメルからは、疑う様子は伺えない。
 だが、気まずげにしているランは、間違いなく知っていた。
 コウヒは、間違いなくそのヒスイと言う男の実の息子だが、蓮は違うと。
 コウヒとは、父親違いの兄弟だった。
 だから目の前の女とは、一切血は繋がっていない。
 なのに、ラン達はコウヒの代わりに、メルに自分を紹介したのだ。
 未だに、生死すら分からない、兄弟への後ろめたさを承知の上、いや……もしかしたら、蓮がコウヒの死に関わっていると、気づいているのかも知れない。
「知らなかったんじゃあ、仕方ねえだろ。あんたがそんな、気にすることじゃねえ」
 蓮は男の思惑通りに、微笑みに見えるように笑い、メルに答えるしかなかった。
 だが、気安い女相手なら、話は別だ。
「おい、どういう事だ?」
「ん? 何のことだ?」
 部屋で待っていた蓮は、酒をもって来たランに低い声で尋ねた。
 けろっとしたその返しに、思わずいらっとする。
「とぼけんじゃねえっ。お前、コウヒを知ってんだろうがっ」
「まあ、話には、何度か出たもんな」
 ランは、酒を茶碗に注いで若者に手渡しながら、頷いた。
「住処にしていた家が焼かれて、お前が気づいた時には、完全に家は形がなかったって」
「……」
「遺体くらいは見つけようとしたが、見つからなかったんだったよな。それなら、お前が息を吹き返す前に、逃げることが出来たかもな」
「それなら、いいが……それなら、痕跡が残ってるはずだろう? いくら探してもそれはなかった」
 当時仕えていた方々も、手伝ってくれた。
 なのに、焼け跡からも、その近辺からも何も出なかった。
 だから、もう諦めたのだ。
 それこそ、残る事すらしないほどの炎であったのだと、思わざるを得なかった。
 いや、もしかすると、炎の中で意識を失った自分が、小屋もろとも、かき消してしまったのかも知れない。
 ……罪は、重くなる一方だ。
「……」
 一気に器の中の酒を開ける蓮を見守りながら、ランは後ろめたそうにしていたが、咳払いをして声をかけた。
「まあ、どうであれ、よかったよ。後は、ヒスイ伯父貴にお前を会わせられれば、いいんだけどな」
「そうかね」
 曖昧に返しながら、ランの酌を受け、蓮も酒を器に注いでやる。
 そうやって、夜を過ごしたのだが……翌日、起きたら辺りが一変していた。
 いや、場所もその場の物も、変わってはいなかったが、一つだけ受け入れられない事態があった。
 蓮は、酒の勢いで、どうやら、ランと同衾していたようなのだった。
 そして、今日、ランが言いにくそうに告げたのだ。
「……月のものが、来ない」
「……はあ?」
 思わず、間抜けな声で返してから、我に返る。
 ランも、曲がりなりにも女だ、月のものくらい、あるだろう。
 それを、危うく問いかけとして返そうとしていた蓮は、必死で言葉をかみ殺してから、その言葉の意味を考えた。
 徐々に、その意が胸に落ち、若者は体中に鳥肌が立つ思いがした。
「ち、ちょっと、待て。それは、まさか……」
「言っとくけど、お前としか、あんなことしてないからな」
 立っている地面が崩れそうな衝撃が、襲って来た。
「いや、だが、あれ以来は……」
「すごいよな、たった一度で、お父さんか」
 その場で、倒れそうな程の衝撃だが、生憎、そこまで心はもろくない。
 いや、ここは倒れた方が、まだましな場だろうがっ。
 自分に怒鳴りたい気持ちだが、まずは、確かめてみる。
「確か、なのか? 遅れてるとか、そういうんじゃねえのか?」
「多分、な。オレのは、月に一度じゃなく、結構間隔が空いてるんだ。そろそろ来るはずなのに、来ない。はっきりするのは、もう少し先だけど、それまではここにいてくれるよな?」
「……」
「もし、身ごもってた時は……一緒に、子育てしてくれるよな?」
「あ、ああ」
 図られた……頷きながら、若者は墓場に片足突っ込んだことを、自覚したのだった。
「もうすぐ、今の頭領が、帰って来る。挨拶もしてほしいから、ね?」
 小首をかしげて言われても、なぜかそれほど惹かれない。
 困惑しかない蓮を置き去りに、ランと仲間たちは、祝いの準備を始めていた。

 混乱している蓮に、ランは、心の中で詫び続けていた。
 あの夜は、酒以外のものが、蓮の意識を奪った。
 酒や薬には、めっぽう強い蓮を眠らせるのは、至難の業だ。
 だから、メルを引き合わせることで心を乱し、その隙をついた策を、ロンは行ったのだ。
 それは、術の類に入る法だった。
 首尾よく眠らせ、ランはただ同じ床に入り同衾を装った。
 仲間たちも面白がって、着物を着崩したりさせていたので、抜群な反応があった。
 策が上手くいったら、土下座してでも、謝り倒そうと思っている。
 コウヒの事や、蓮本人の事も含めて、だ。
 ある時カスミから、ヒスイの子供がいると聞き、会いに行った先で山火事に合った。
 正しくは山の中にあった小屋が燃えていたのだが、その中に人がいるのに気づき、ロンが炎の中に飛び込んだ。
 抱えて来たのは、赤毛の若者だった。
 すぐに息を吹き返し、若者はまだ、兄弟が中にいると戻ろうとした。
「遅いわっ。それに、その子は、もう息をしてなかったからっ。諦めなさいっ」
 ロンが一喝し、有無を言わさず、その場を離れた。
 木々に火が飛び火し、炎に巻かれ始めていたからだ。
 赤毛の若者は、一命をとりとめたが、今はいない。
 コウヒと名乗ったその男は、ランの妹と共に姿を消したのだ。
 引き留められなかったことが、今のこの場を、作る理由だった。
 本当なら、カスミの後を継ぐのは、自分か腹違いのエンだ。
 だが、偶々見つかった、血の繋がらない大叔父の子供に、強引に押し付けてしまっていた。
 その子供セイは、独り立ちできる年になったら、足を洗いたいと言っていた。
 それでいいと、ランは思っている。
 だが、いざその時になって、セイ自身が躊躇うような体制のままだったとしたら、自分の願いを押し隠して、居続ける事を選ぶかも知れない。
 それだけは、させたくない。
 自分で選んで、そうするのなら嬉しいが、ラン達を心配して選ばれるのは、いやだった。
 それは、烏合の衆であるはずの、自分たちの心を一つにできる、唯一の思いだった。
 カスミやセイには劣るとしても、ランとエン二人の他に、足りないところを補える者を引き入れる。
 そうすれば、セイは選ぶことができる。
 その、補える者として白羽の矢が立ったのが、蓮だったのだ。
 その昔、カスミの寝床に、忍び込んだ若者だ。
 そして、息をしていなかったはずの、コウヒの腹違いの兄弟だ。
「それも疑わしいわよね。コウヒちゃん、弟かって訊いた時、そんなものだって、曖昧な答え方したもの」
 ロンは生来、子供好きだ。
 だが、単にその年で時を止めただけの蓮の事は、それほど気にならないようだ。
 炎の中で、息をしていなかったのを知っているから、尚更だ。
 コウヒと腹違いの弟だと言う話も、疑わしいという。
 コウヒ自身の話で、母親は物心つく前に、亡くなったと分かっているからだ。
 あの時に、時を止める程の、衝撃を受けたのは後ろめたいが、だからと言って、偶々の体の異常を、コウヒとの血の繋がりに結び付けるのも、どうかと思っているらしい。
 ランからすると、それはどうでもいい話だ。
 何しろ、カスミの枕元に近づき、寝首をかいてしまった事のある若者だ、十分な力はある。
 後は、セイと引き合わせて、一緒にこの国を出てもらうだけだ。
 蓮を見ると、まだ成り行きについていけないのか、ぎくしゃくとメルを手伝っている。
 今夜は少し考える時間をやるか、と、ランは若者に声をかけた。
「部屋で飲もうか?」
「……」
 鋭い一瞥から、図られたことを察しているのが分かるが、ランは笑いながら言った。
「今、ロンは留守だ。あいつ、背丈はあるけど、そこまで黒くないだろ? だから、この島だけじゃなく、本土の方にも行けるんだ」
「……」
「悪かったよ。でもな、ちょっとこちらにも、事情があるんだ。聞いてくれよ」
「それは、先に話す事じゃあ、ねえのか?」
 逃げ場をふさいで置いてよく言う、と睨む蓮にひたすら下手に出て、ランはいつもの部屋へと招き入れた。
 酒の用意をしながらふと、考える。
 ロンが出かけて行ったのは、二日ほど前だった。
 あの男が、どこかに入り浸るとは、珍しいこともあるものだ。

 夜中ひっそりと村を出て、出島への近道である、海路で帰るべく小舟の乗り込むと、セイはようやく、知らず殺していた息を、大きく吐き出した。
「……怖かった」
 見送りに来た、古谷の御坊と律が顔を見合わせる中、己も乗り込みながら、エンが意外そうに目を見開いた。
「何が?」
 聞き返したが、安堵し過ぎて、座り込んだ若者には、答える気力もない様だ。
「これに懲りずに、またおいで下され。今度はぜひ、他の方々も連れて。歓迎いたします」
「……」
 古谷がそう言っても、セイは傘を目深にかぶり直し、返事することが出来ない。
「では、そろそろ」
 エンが声をかけると、するりと乗り込んだオキが、セイの膝に収まる。
「……もう、お会いする機会は、ないかもしれませんが、どうかお元気で」
 若者は、ようやくそう挨拶し、少し躊躇ってから続けた。
「あの、村の方々に、挨拶もせずお暇してしまって、申し訳ないと、伝えて下さい」
「はい。どうか、お元気で」
 短く返し、古谷は深々と頭を下げてお辞儀をし、船が見えなくなるまで見送っていた。
「……取り逃がした奴が、新たな連中を引き連れてくる気配は、なかったな」
 岸が離れていく中で、その人影がずっと立ち尽くしているのを見ながら、エンは来た時と同じように櫂を動かし、ふと呟いた。
 眠りから覚めたセイは、一度山の中を見て回り、周囲に気配がないかも確かめていた。
「そんなに、楽に集められるような奴らじゃないから、大丈夫だろ。それよりも、そこまで強い奴じゃなかったから、まだ近くにいると思ってたんだけど、見つからなかったな」
 若者は眠そうに答えながら、月のない空を見上げた。
「隠形に長けているのなら、初めから見つからないように、身を隠していそうなものだ。あそこまで行くのに、随分騒がしくしてしまったからな、私が奴の前に来る前に逃げるか、姿を隠してやり過ごすか、どちらかの方が、容易かったはずだ。なのに、どちらもしないで、子供たちと一緒にいた」
 欺けると、思ったのか。
「オレだったら、ついつい(たばか)れていたかもな」
 エンが苦笑しながら、穏やかに言う。
「そうだな。あんたは、私にすら謀れてる」
 セイも少し顔を緩めて返し、再び夜空を見上げた。
「もしかしたら、住処は別だった、のかも知れないな」
「通って来ていた、と?」
 あり得るか? と首を傾げる男に、若者は、空を仰いだまま続ける。
「見知らぬ者が、突然来たら周りが浮つく。周りの村もあの村自体にも、そんな気配がなかった。……私たちが、騒がせた以外は」
 付け加えた言葉が、少し疲れたものになっていた。
「そいつ一人なら、あの坊さんでも、楽に対処できるはずだ。変な具合に頭が回る奴だから、妙な画策をしないなら、だけどね」
 膝の上の黒猫を、ゆっくりと撫でながら、呟く様に言う若者に、エンは穏やかに言った。
「律さんがその辺りの事は、気にかけてくれると、請け負ってくれた。心配は、いらないだろう」
 黙って頷いたセイが、深く溜息を吐いた。
「……怖かった」
 しみじみと、再びそんなことを言う若者に、目を見はる男の前で、セイは神妙に続けた。
「跳ねのけたら、それだけで潰しそうな人たちを相手にしたのなんて、初めてだ」
 言われて、何を怖がっていたのか、ようやく分かった。
 相手は妖怪の類ではない。
 村にいた大勢の、百姓衆だ。
 老弱男女問わず、村を救った若者の姿を拝みに、代わる代わる御坊の住まいに訪れた。
 何の細工もない素のセイを見ても、彼らは崇拝の眼差しで拝むだけで、只の異国の人間だと、疑う事もなかった。
 透き通る肌と髪色が、後光を放っているように、見えたのだろうか。
 神仏の一人の化身、などと言われても、その手のことに詳しくないセイは戸惑い、拝まれてもオロオロするしか、なかった。
 どいてくれとも言えず、ましては蹴り飛ばす訳にもいかず、若者は本当に、参っていたのだった。
 思えば、セイの周りには屈強な男や、気の強い女しかいなかった。
 今は亡き祖父ですら、年相応に皺や白髪はあれど、大きな人だった。
 大きなものから感じる圧と言うものは、幼い頃から嫌と言う程感じていたから、怯える事がなかったが、恐ろしく細く、自分ほどの背丈の者とは、あの村に入るまで親しく話したことがなかった。
「……そうだな」
 エンは、少し考えて微笑んだ。
「たまに、子供を大きくなるまで、養ってるだろ?」
 自分たちの集団には、子供好きが多く、戦で親を亡くし、路頭に迷った子供を拾って養い、手に職を持てる年になったら、送り出すことが少なからずあった。
「あのくらいの力加減で充分だ。仮にも、田畑を耕して、暮らしてる人たちだ、そんな怖がり方は、失敬だぞ」
「分かった」
 兄貴分の言い分に真顔で頷き、ぼんやりと、夜空を見上げ続けた。
 静かな夜の海で、櫂を漕ぐ音だけが響く。
 波も殆んどない中、小舟は静かに進んでいた。
 時々、会話を一言二言交わすだけで、二人は黙ったまま、連れたちの待つ所に帰り着いた。
 長崎と言う、ある島国の中の小さな国の、更に人の手で作られた出島と言う島。
 そこに貿易船に紛れて船を停め、金をつぎ込んで宿を貸し切って、連れたちは待っていた。
 小舟が、その島の端の岸に着いた時、その内の二人が、迎えに出て来てくれた。
「お帰りなさい」
「ただいま。留守中、何事もなかったか?」
 陸に上がりながら返すセイに答えたのは、若者より少し背丈のある、小柄な娘だった。
 この国に馴染む体つきだが、色合いが綺麗だ。
「今のところは、何もないわ」
 艶やかな白髪の、この国の娘たちと、変わらぬ顔立ちの娘は、やんわりと答えた。
 鮮やかな紅玉のような瞳は、若者を優しく見る。
「きちんと、治めて来たそうね。ご苦労様」
 その目を見返しながら傘を取り、セイはもう一人の娘を見た。
「お帰り。元気だったか?」
 笑って見返す娘も、小柄だった。
 明るい栗毛色の髪で、白い肌の娘だ。
 嬉しそうに若草色の目を細め、若者と後ろから、陸に上がってくる男を出迎えた。
「ランは?」
 エンが、珍しくその場に来ていない女の名を出すと、栗毛色の娘メルが首を竦めて言った。
「今、オレの孫と一緒」
「……来たのか。メルも会ったのか?」
「ああ。まさか、あんなに幼い姿で、生きてるとはな」
 娘のしみじみとした言葉に、エンも神妙に頷いた。
「そうか。大変だったろうな」
「でも、大抵の事は、自分で出来そうな子よ」
 白髪の娘ジュリが微笑んで言い、目を細めたまま、黙った若者を見た。
「さ、帰りましょ。皆、眠ってるけど、あなたが戻ったと知ったら、起きて来るわ」
「……」
 促されても動かず、セイは二人の娘を見た。
「? セイ?」
「ロンは? あいつはどこかに、出かけてるのか?」
 若者を見返した娘は、それぞれの顔をした。
「ええ。城下に、遊びに行ってるみたいね」
 おっとりと答えるジュリの横で、メルは顔を強張らせて、無言で頷いた。
「……いつから?」
 目を細めている、若者の更なる問いにも、ジュリは答えた。
「二日前から、かしら。ねえ、メル?」
「ああ」
「へえ。珍しく、馴染みの店が、出来たのかな?」
 エンが穏やかに言う傍で、セイは大げさな溜息を吐いた。
 何かを感じて、エンまでこの場を治める言葉を投げたが、それが、わざとらしすぎる。
「せ、セイ?」
 メルが呼びかける目の前で、若者は足下にいる生き物に、声をかけた。
「オキ、少し、探してみてくれ」
 すぐに答えた黒猫を見下ろし、セイは続けた。
「面倒なことになっていないのなら、それに越したことはないけど、あいつが、二日もの間、何の知らせもよこさずに、姿を見せないのは、流石におかしいからな」
 娘二人が目を剝いて、顔を見合わせた。
 答え方が間違っていたと、気に病んでいるが、それはどうでもいい。
「ひと眠りした後には、ロンの所在も知れるだろ。眠らせてくれ。向こうでの話は、その後、まとめて話す」
 セイは欠伸をしながらそう言い、連れたちを促して歩き出した。

 セイが、この集団の中に連れてこられたのは、八つの時だ。
 それから、六年の年月が経つが、未だに不安で仕方ない事がある。
 だから、ひと眠りした後目覚めたら、初めに両手の指を動かしてみる。
 息をするように、それが動くのを確かめて身を起こし、辺りを見回してから寝床から這い出す。
 遠くから、喧騒や何やらの楽器の音が聞こえ、この地は賑やかだ。
 この島から出るのは難しいが、異国の者も気軽に楽しんでいるようだ。
 立ち上がって部屋を出ると、十歩も行かない内に、エンに声を掛けられた。
「よく眠れたか?」
「どのくらい眠ってた? 日は高いけど」
 男は、穏やかに答えた。
「ほんの二刻ほどだ。オキも戻ってる。奥の部屋だ」
「そうか、ありがとう」
 手短に知りたいことを答えてくれる男に、セイは軽く礼を言い、奥へと向かう。
 その後ろから、エンが続くのを見て、首を傾げた。
「迷わないよ」
「分かってる」
 ならどうしてついてくるのかと、不思議に思いつつ奥の部屋の引き戸を開いて、足を踏み入れて思わず立ち竦んだ。
 中に集っていたのは、この渡来に同行した者たちだった。
 目を見開く若者に、濃い栗毛の髪の女が、悪戯っぽく言った。
「挨拶もなしに、ひと眠りなんて、あんたらしいわ」
 二十代の女マリアに、ジュリの兄のジュラも頷いて笑う。
「だが、無事に帰れて何よりだ」
「本当に。帰りなさい。お勤めご苦労様です」
 岩のような銀髪の大男ゼツも、無表情で言うと、傍に座っていたジュリとメルが呆れて首を振った。
「出迎えなかったのは、あなた達でしょう? よく文句が言えるわね」
「全くだ」
 そんな娘たちに答える声は、悪びれない。
「すみません。夕べあなたが無事、事をやり遂げたと知らせを貰い、つい……」
「嬉しくて騒いでしまって、な」
「申し訳ありませんでした、出迎えもせずに」
 明るく謝る声に、セイは首を振った。
「こちらこそ、すまなかった。……戻ったら眠る事しか、考えてなかった」
 更に、明るい笑いが沸き起こる。
「そんな事だと、思いましたぞ」
「三度の飯より、眠るのが好きだもんな、あなたは」
 揶揄い交じりの言葉を受けながら、セイは奥の席に向かい、まずは朝餉を取った。
 食後の白湯が出た頃、それまで大人しく隅で丸くなっていたオキが、セイの前に近づいた。
 それを見た娘たちが、速やかに動き、器を下げていく。
 オキは話し出したが、当然猫の鳴き声にしか聞こえない。
 その言葉を解する者もいるが、一握りだ。
 その一握りが近くの仲間にそれを訳し、話の全てが全員に浸透する。
「……」
 直にそれを解したセイは、一つだけ問い返した。
「……屋敷って、武家の、か?」
 一声上げて返事したオキに頷き、若者は小皿に取ったおかずと酒を注いだ盃を、猫の前に置いた。
 やっと餌にありつく黒猫を見下ろしたまま、緊迫した仲間に問いかけた。
「ランは、どう言っている?」
 この場には、ランがいない。
 何か察しているが、単に今日は捕まらなかっただけか、集まった者たちの意で呼ばれなかったのか、どちらなのかで、こちらの動きも変わる。
「あんたがここを離れてから、男と一緒で、ここ数日、顔すら見てない」
「そうか。それなら……」
 再び頷いて、セイは言った。
「明日の朝まで待って、戻ってこない様なら、私が迎えに行く」
 周りがどよめいた。
「おいっ、お前が直に出向くことは……」
「私の領分、だろう」
 慌てたジュラの言葉を遮り、若者は静かに言った。
「気配が、武家の住まいで途切れて辿れず、本人は二日もの間、何の知らせもよこさない。その辺りで、何かに巻き込まれたのなら、只探すだけで、見つかるとも思えない」
「で、でも……」
「明日まで待つって、その間にもし……」
 ジュリが言いかけるのを遮ったマリアは、途中で言葉を詰まらせた。
 ジュリも、はっとして口を継み、目を伏せる。
 そんな二人を見つめ、セイは静かに言った。
「大丈夫だ。まだ、たったの二日、だろ?」
 無感情な声が優しく響き、自分でも驚いたが、言われた方はもっと驚いた。
 呆然と顔を上げて見つめられ、居心地が悪かったが、セイは続けて言った。
「あいつに何があったにせよ、この二日を、耐えきれない様な目に合っているのなら、それ程の者を、相手にしているのなら、私が行っても、どうにもならない。助けられないと分かっているのなら、呑気に探そうと考えるより、あいつの事は諦めて、さっさと、この国を出る事を考えるよ」
「……それのどこに、大丈夫と言えるところがあるの?」
 目を細めるマリアに、若者は天井を仰いで答える。
「さあ、どこだろう」
「もう、いい加減なんだからっ」
 力はないが、いつもの言い方に戻った女にほっとし、仲間の一人が話を変えた。
 戻って来た若者が、どんな風に事を治めて来たのかを、興味本位で尋ねる。
 それに、エンが面白く話を膨らませながら答え、仲間内の緊迫した空気は和んでいく。
 聞かれた事には素直に答え、明るい仲間たちを見守っていたセイだったが……。
 いつからだろうか、床下から妙な気配がする。
 敵意を持った者にしては、緊迫した気配ではなく、それでいて、妙に取り乱した獣……巨大な鼠、と言ったところか。
 傍で食べ終えたオキが、体を伸ばしながら傍に寄って来て、ことさらゆっくりと、毛づくろいを始める。
 それを目の端に入れたまま、仲間の一人と目を合わせる。
 灰色がかった髪と同じ色の目を向けて、無表情で頷いたゼツが、音もなく小刀を抜き、おもむろにその刃を床に突き立てた。
「い、痛てえっっ」
 曲者らしからぬ悲鳴と共に床が震え、板を突き破った者が、その場にいた者達の前で立ち上がった。

 (あおい)が親に付けられた名前は、葵一郎(せいいちろう)と言う。
 市原(いちはら)葵一郎。
 仕官を夢見て放浪していた腕利きの牢人と、一族のしきたりに嫌気がさし、親元を飛び出して来た、娘との間にできた子供だ。
 父親は自分が生まれる前に、他界したと聞いている。
 母親も、二十歳になる頃に他界した。
 その後葵一郎は、葵と名乗るようになり、一度、母親の凪沙(なぎさ)の実家に厄介になったが、すぐに飛び出して来た。
 居心地が悪かったせいもあるが、母の死に直面した時、我を失った自分を、正気付かせてくれた若者が、気になったせいでもあった。
 一見、葵より幼い十四五歳の子供のような、小柄で童顔のその若者は、蓮と名乗ったが、自分の前に現れた訳を、未だに教えてくれない。
 つかず離れずの、それでいて葵が迷いに迷った時は、すぐに駆け付けて手を引いてくれる、そんな奇妙な付き合いが、それなりに永く続いている。
 そんな蓮が、少し前に葵が住み込んでいる山に、姿を現した。
 顔を見に来たと言う若者は、すぐに暇を告げて去っていったが、帰った後忘れ物に気付いた。
 珍しい事もある、と思いつつも追いかけたが追いつけず、仕方なく探し始めたのだが、それは葵にとっては、無謀以外の何物でもなかった。
 探し始めて半刻もしない内に、自分が今いる所が、分からなくなった。
 これはまずいと夜を待ち、高い木の上へと上がり、今の位置を確かめると、一面水だらけだった。
「ん? 海?」
 この島国は、海に囲まれているから、珍しい光景ではないが、珍しくないからこそ、これが何処の海なのかが、分からなかった。
 混乱しかかって、振り返ると見た事のある風景が、広がっていた。
 これは、長崎だ。
 ということは、あの海の中に浮かぶのは、出島だ。
 今いる場所は分かったが、葵ははてと首を傾げた。
 日向の国の、薩摩寄りの山を出て、いつの間にこんな所に出たのだろうか。
 江戸に行くには、逆方向だ。
 しかし、と葵は考えた。
 もしかしたら、知り合いがこの国に入っていて、蓮が来ているかもしれない。
 異国の白髪の女ランと、蓮は酒友達なのだ。
 剣の話では、葵とも語り合い、気安い相手だった。
 永く会っていなかったから、そろそろ来ているかもしれない。
 そんな、取ってつけた思い付きに一人頷き、葵は自然での島ではないそれに、目を向けた。
 迷い癖がひどい男が、一人で生活できるのは、母譲りの遠くが見渡せる、目があるからだ。
 まっすぐそこへ向かい、一つの旅籠の床下に潜り込む。
 客として入ればよかったと気付いた時には、床下のどの辺りなのかが、分からなくなっていた。
 混乱して床下をさまよっていた時、その真上で賑やかな声が聞こえた。
 何か喜ばしい事でもあったのか、陽気な笑い声も聞こえる。
 不味い不味いと首を竦め、葵はその場を離れようとした。
 突然、真上で殺意が湧き、同時に床の合わせ目から、刀の刃が大男を襲う。
 思わず出そうになる声を殺しながら、とっさに避けたが傍の柱に嫌と言う程頭をぶつけ、ついに声を上げていた。
「い、痛てえっっ」
 飛び上がった拍子に、床を頭が突き破ってしまった。
 頭を抑えながら顔を上げ、辺りを見回すと大勢の異国の客が、黙り込んで自分を見ている。
「す、済まねえ。こ、ここは何処なのか、尋ねてもいいか?」
 引き攣った顔で見回す客たちの顔が、徐々に強張っていく中、近くに正座していた若い金髪の人物が、無感情に言った。
「……刺さってないな」
「ええ、刺さっていません」
「どうして、あんな声を上げたんだろう?」
 その呟きに、無表情の銀髪の大男が、答えた。
「大方、床下の柱に、頭でもぶつけたんでしょう」
「お、当たりだ、すげえな」
 思わず答えてから、二人の目が呆れているのと、辺りの大勢の目が険しくなっているのに気づき、慌てて手を振った。
「ま、待てっ。済まねえ。本っ当に迷っちまっただけで、ここに忍んでくる気はなかったんだっっ」
 自分で言っていても、これは信じられないと思うのに、見ず知らずの者たちが疑うのは無理がない。
「あのなあ、こんな島の床下に、わざわざ迷い込む侍が、どこにいるって言うんだ?」
「こ、ここにいるだろうがっ」
 白髪の男に返しながら、その場にいる者たちの物々しさに、葵は慄いていた。
 これは、山で出会う賊に似た顔つきだ。
 物騒な気配で、男どもが立ち上がる。
「どこから聞いていたかは知らぬが、このまま返す訳にはいかんなあ」
「ちょうど頭の話を聞いて、うずうずしていたんだ。お相手願おうか、お武家様よお」
 大ぶりの太刀を構える者や、鈍器を振り回す者を見回し、異国の者にしても珍しい色合いの者がいるのに気づく。
 きょろきょろを見回しながら、この場ではどうでもいい事を口走った。
「す、すげえな。この国の言葉、すらすらじゃねえか」
「ついでに、こっちも達者だぞっっ」
 怒号と共に、異国の者たちが飛び掛かって来た。
「うわあっ、待てって……」
 慌てて腰の物で応戦し、何とか話を聞いてもらおうと話しかける。
 父親譲りの剣の腕は、衰えていないが、数が多すぎる。
 しかも、葵は相手を傷つけまいと、おっかなびっくりで刀を握っているため、更に勝ち目がない。
 何とか、彼らに話しを聞いて欲しいと、途方に暮れた男は、気の進まない事をすることにした。
 飛び掛かって来た者たちを弾き飛ばし、相手の体制が戻る前に、動いていた。
 その先には、乱闘から身を引き、壁際に立って見守る、金髪の小柄な人物がいる。
 それに気づいた、男の一人が間に入るより先に、葵はその小さな体を捕えていた。
 卑怯な手と知りつつ、腕の中に捕らえた人物の首筋に、刀の刃を向ける。
「すまねえ。だが、少しでいい、話を聞いてくれっ」
「……そんな事をして、こちらが下手に出ると、思っているんですか?」
 背丈はあるのに、優しい顔立ちの男が、穏やかに笑いながら聞いてくるのに、何故か背筋に寒気を覚えつつ、ひたすら詫び口調で言う。
「汚ねえ手だとは思う、だが、本当に、迷っただけなんだよ、信じてくれっ」
「その、汚ねえ事をやってる奴の、言ってることを、信じろってのか? 虫が、良すぎやしねえか?」
 小柄な女に、言われるまでもなく、とても、後ろめたい。
 多勢に無勢でも、申し訳なさで一杯になっている葵は、混乱しながら喚いた。
「あんたら、人の事言えねえじゃねえかっ。こんなか弱い娘っ子まで仲間に引き込んで、悪いことしてるんなら、オレの事悪く言えね……」
 周りの気配が、凍った。
 が、葵は気づかなかった。
 いや、気づく余裕は無くなっていた。
 右足を、何かに踏みつけられ、砕ける寸前の激痛が、舌を固まらせてしまったのだ。
「……この国で、鬼と、呼ばれるものの血を継ぐ割に、随分目が悪いんだな」
 若い無感情な声が、葵の腕の中から聞こえた。
「まさかその目、遠くしか見えない、節穴なのか?」
 恐る恐る見下ろすと、こちらを睨むように見上げる、人質と目が合った。
 ぎょっとして、思わず腕の力を緩めた時、すかさず人質が動く。
 腕から逃れた人物は、右足を踏みつけていた足を避け、よろめいた大男の鳩尾を、正確に肘打ちした。
 息を詰まらせて、前のめりに座りこんだ葵は、必死で息を取り戻しながら見上げる。
 殺伐とした空気を治め、一転して苦笑交じりで見守る、異国の客たちを背に、小柄な人物は無感情に、大男を見下ろしていた。
 心なしか、殺意まで帯びているその人物を見つめ、葵は思わず声を上げた。
「お前、男かっ?」
 首を振って額を抑える優男と、腹を抱えて笑いだす、同じくらいの年格好の白髪の男を背に、目を細めたその人物は口を開いた。
「本当に、死にたいらしいな」
「い、いや、悪かったっっ」
 本気で怒っているのに慌てつつも、なぜそこまでと困惑気味な大男は、更に墓穴を掘ることになる。
「何でそんなに怒るんだよっ。見間違えられるほど、綺麗ってことだろうがっ? 誉め言葉だぞっ」
「誉め言葉? どこがだ? さっきあんたは、か弱い娘と言った。つまり、この中で一番、弱そうな奴を見繕ったわけだ。扱いやすい、力でどうにかしやすい奴、と言うのは誉め言葉じゃないだろう」
「ち、違うっ。それは、言葉の綾って奴で……」
 慌てた言い訳を最後まで聞かず、娘の様な若者は、後ろに立つ男を呼んだ。
「エン」
「何だ?」
「角を出した鬼の首は、この国のお偉い人に、喜ばれるかな?」
 無感情ながら素直な問いかけに、エンと呼ばれた男は少し考えて答えた。
「化け物退治で、報酬が出るかは、分からないな。調べてみようか」
「それより、どこかの寺に、売った方が、早いっ」
 曖昧な言葉に、傍の男が助け舟を出したが、笑いを治めきれず、紅い目に涙をためて苦しんでいる。
「そうか、お坊さんに売れば、その人が退治したことにできて、その坊さんの験が上がるんだな。よし、高く買ってもらおう」
 頷いた若者が、微笑んだ。
 この笑みに抗える者が、何人いるのかと思えるほど、綺麗な笑みだ。
 思わず見惚れた大男は、不意に湧き上がる感覚を、無意識に抑えた。
 永く、思い出しすらしなかった、感覚だ。
 激しく首を振って、我を保とうとするが、振り払えない。
「いらねえ、いらねえ」
 呟く大男を、戸惑いながら見下ろす面々の前で、立ち尽くす若者だけが無感情のままだ。
 蹲る大男を見下ろしたまま、若者は静かに言った。
「皆、部屋から出ろ。何も、こんな姿を、見る事はない」
 感情の見えない声の主を、睨むように見上げた葵は、一瞬、自分の今の状態を忘れた。
 若者の背後の異国の者たちは、葵のその姿に目を見張り、その名を口に載せている。
「鬼?」
「いや、先程は、こんな……」
 戸惑う会話が聞こえる中、若者は静かに大男を見下ろしているのだが、無感情な目に、僅かな感情が見えた。
 その僅かな感情が、妙に無邪気なものに見え、思わず見惚れてしまった。
 見惚れて、力を抜いてしまった途端、抑えていた感覚が、一気に吹き上がってしまった。
 辺りの音が消え、ただ一つの感情に、頭の中が埋め尽くされていく。
 その感情のまま、葵は若者に、飛び掛かっていた。
 男の叫び声と、女の悲鳴が入り混じるのも、どこか遠くで聞いていた。
 どの位の時が経ったのか、夢から覚めた気分で身を起こした葵だが、そこは先程と同じ場所で、それ程時は経っていないと知る。
 顔を強張らせて、男たちが自分を見ている。
 女たちも、恐怖を張りつかせて見ていたが、その前に立つ若者は目を細めて、全く別な者を見ていた。
 葵の前に、立ち塞がる、小柄な人物。
 その顔を見上げて、大男は思わず名を呼んでいた。
「蓮」
「……お前な、こんな所で、何やってんだ?」
 呆れた顔で、蓮はいつも通り落ち着いた声を、葵に投げた
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