2、恋人はご機嫌ななめ-2

文字数 1,293文字

「カンパーイ」
 貴広は明るい声を出して、良平に持たせたワイングラスに自分のグラスを触れ合わせた。コクコクとワインを流し込むと、絹のように繊細な爽やかさが咽を通り過ぎる。
 夕食を終わって、とっておきのワインとチーズ。そして少しのドライフルーツ。
「……うまい」
 良平がようやく笑顔を見せた。
 貴広は嬉しくなってチーズを勧めた。
「ほら。これ、こないだごいんきょが言ってた牧場の。ウチの分も買ってきてもらうように頼んだんだ。ゆうこママも一緒に頼んでたヤツ」
「うん。これもうまいな」
「だろ? 良平の好みじゃない? こういう軽めだけど、ナッツっぽい香りのするチーズ」
「……うん」
 アルコールのせいか、自分の好みを覚えられていたのが嬉しいのか、良平はその頬をふっと赤くした。
(可愛い……!)
 商社を辞めてこの店を継いで、貴広が一番嬉しいと感じているのは、夜が長いことだ。会社員時代はとにかく拘束時間が長くて、人間的な生活ではなかった。今は、こうして、夕食後の時間を楽しむことができる。
 可愛くて愛しい、世界で最も大切なひとと。
 良平のこんな可愛い様子を見られて、たまのこんな贅沢は素敵だ。
 アルコールで舌の回りがよくなった良平は、気になっていたことを口にした。
「貴広さん、付き合ってたんでしょ? あのひとと」
「りょ、良……」
「隠さなくていいよ。まったくあんたは……。『初恋の彼』が忘れられなかったとか言って、どんだけ遊んでたんだか」
 良平は吐き捨てるようにそう言って、手の中のグラスをあおった。貴広は瓶からシトラスイエローの透明な液体を注ぎ足してやった。
「いや、別に『初恋』ったって、そいつとは何かあった訳じゃないし」
 本当のことだ。遠い、遠い昔、まだ十代だった頃、淡い気持ちを抱いた記憶があるだけで。折に触れてその記憶を思い出すことがあっただけで、そいつと何かをしたこともない。
 良平はそれを知っている。知っていてわざと当てこすっているのだ。
「俺だって、いい歳なんだしさ。これまで何にもなかったってことは……。別に生駒が好きだったとかじゃないんだよ。あいつだって結婚したんだし」
 良平はグラスの縁を噛んだまま、ぷいと横を向いた。
「オトナって、キタナイのね」
「良くーん」
 良平だって、貴広のところに転がりこむまでは、寝床のためにその身を危険に晒していた。貴広を責められたものではない。だが。
 貴広は決してそのことを持ち出さない。
 良平が、貴広以外の誰かの胸で眠れなくなってから。
 もうそんな過去は、ふたりの中から消えたのだ。
 良平はまたグラスを勢いよくあおろうとした。貴広は急いでその手を握って止めた。
 良平はそんなに酒に強くない。
「そんなに俺をいじめるなよ」
「いじめてない」
 良平は貴広の指を振り払えない。グラスにまだ半分くらい入ったワインが、こぼれてしまう。
 貴広は空いた手を良平の背に回した。
「良は何も心配しなくていいんだよ。俺にはもう、お前しかいないんだから」
 貴広が良平の耳にそう吹き込むと、良平の肩から力が抜けた。
「貴広さん……」
 貴広は、良平の手からグラスを取り上げ、テーブルに置いた。
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