刎頸の交わり

文字数 1,974文字

 最近藺相如(りんそうじょ)は鬱っていた。
 今日も車窓から少しだけ顔を覗かせ、小さくあたりを伺う。
 藺相如は今ストーキングされている。廉頗(れんぱ)将軍に。

「上卿、この先にいるようです」
「そんなら今日は病気っちゅうことで」

 藺相如は小さくため息を付く。

「藺相如は今日もいないのか!?」

 既に遠ざかった背後から大声が小さく響く。

「元気やねぇ」

◇◇◇

 (ちょう)(しん)に攻めらた。国力差は大きく、このままでは滅ぼされる。だから趙王は秦領の黽池に赴き、藺相如はその機転でこの上ない条件で和議を成した。だから藺相如は筆頭大臣になった。
 廉頗は上将軍、軍の総大将だが上将軍より筆頭大臣のほうが地位が高い。総統だ。つまり廉頗は藺相如の下になった。
 これが廉頗は気に食わなかった。体育会系だったから。
 
 将軍となっても体を張って武功を積み上げた廉頗にとって、藺相如はいつのまにか王のまわりにいた胡散臭い謎の人物。和議の功績はわかるけど、何で俺より上? 口を動かしただけなのに、命をかけている俺より上なの? 解せぬ。
 王は何か騙されてるんじゃ?
 なので周りの武官とか部下に愚痴り始めた。

「藺相如ってなんかおかしくない?」
「はぁ」
「鍛えてないし」
「文官でしょう?」
「でもよ、解せなくね? 俺のほうがかっこよくね?」
「はぁ」
「ちくしょー。藺相如に会ったら罵倒してやる!」

 そんな感じで宮中で騒ぐ。廉頗の声は素でもでかい。藺相如の耳にも入ったから、廉頗に会わないよう避けに避けた。。
 けれども逃げの一手は難しい。廉頗は将軍に上り詰めた体育会系中の体育会系。ストーカーはエスカレートの一途、ある日藺相如が家を出た時、道で廉頗が待ち構えていた。踵を返すと廉頗の声が往来に響いた。

「まて! 卑怯者! 逃げるんじゃねぇ!」

◇◇◇

「今日のはあんまりです。上卿は廉頗将軍よりお立場が上。何故そこまで恐れるのです」

 部下は進言した。

「廉頗将軍と秦王で上なんはどっち?」
「そりゃぁ秦王でしょう」
「うん、でも私は秦王もどうとも思とらん。そやなかったら璧の時も澠池の時もあんなことよう言わんわ。やから別に廉頗将軍も別に怖いわけやないんよ」

 藺相如の外交を思い出す。確かに秦王への物言いは酷かった。

「ならどうして逃げ回るんです?」
「私と廉頗将軍の違いてなんや思う?」
「上卿は文官で内政を行い、廉頗将軍は武官で戦争を行います」
「せやね、仕事が違うん」
「そう反論されては?」
「せやけどね。そうしたらどうなる思う?」
「上卿の面目が保たれるでしょう?」
「それだけ?」

 仕事の違いは子供にもわかる。
 武官がいなければ国は守れないが、文官がいなければ国は保てない。

「今秦が攻めて来んのは私と廉頗将軍がおるからよ。私が口先で秦追っ払って、攻めて来ても廉頗将軍が守るやん」
「口先は否定しないんですね……」
「そいで私と廉頗将軍が争うたらそれこそ趙の危機や。どっちかおらんかったら秦すぐにでも攻めてくるで。やから喧嘩はあかんのよ。会うてしもたら絡まれるから逃げるしかないん」
「そんなお考えが」
「けど正直待ち伏せはかなわんわ。こっそり進めてる外交壊れてまうやん。廉頗将軍めっちゃ目立つし。この話こっそり流しとって。廉頗将軍もわかってくれるやろ、多分」

 この話はその日の夜には廉頗の耳に入った。だからさっそく藺相如のもとに押しかけた。

◇◇◇

「真夜中にドンカンうっさいわ!」
「誠に申し訳なかった!!」
「話聞けやあ!」
「申し訳なかったぁ!!」
「黙れいうとんじゃぁ!」

 部下は藺相如が人を怒鳴るのを初めて聞いた。確かにちっとも恐れてないな、と思った。
 深夜、戸が叩き割れそうなほどの打撃音と大音声に藺相如は飛び起きた。様子を見に行かせたら、廉頗が門前で仁王立ちしていた。半裸で。罪人用の鞭を持って。
 あまりに近所迷惑だったので。やむなく邸内に入れた。

「わしをこの鞭で殴れぃ!」
「阿呆か! そんな趣味ないわ!」
「このわしの気がすまんのじゃぁ!」

 小一時間の後、散々藺相如に罵倒されて気が済んだのか、一向に藺相如が鞭で打とうとしないから諦めたのか、廉頗はやっと服を着た。藺相如も胸を撫で下ろした。肉だるまは圧迫感があって暑苦しい。

「わしは自分が卑しいことが心底わかった。貴兄がそんなに国のことを考えていたとはつゆとも考えてなかったのだ。誠に申し訳ない」
「ま、まぁ、わこてくれたらええねん」
「わしは貴兄のためなら首を刎ねられても惜しくないぞ」
「わかったから早よ帰って」

 翌朝、藺相如の宅の扉が修繕される姿が見られた。

◇◇◇

 この騒動の前も後も、藺相如は常に廉頗が動きやすいよう見えない敵を排除した。
 だが藺相如は道半ばで病に倒れて没した。廉頗が藺相如の訃報を知ったのは戦場で、その慟哭は天を震わすほどであった。敵も味方もその哭に打たれ、一刻は干戈の音が止んだいう。
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