外気温38℃

文字数 1,998文字

繰り返し故郷の夢を見る。
唾を吐いて捨ててきたあの町を。夢の中で私は念じる、故郷が本当に無くなるように。事故が、あるいは災害があの町を完全に破壊してしまう様子を思い描く。破壊された故郷がそのまま上昇する海面に沈み、地図からも人の記憶からも永久に消えるその瞬間を、念じて念じて私は目をさます。

「おはよう」

私は同居者に朝の挨拶をする。私たちが住むこの部屋には完璧な防音室があり、私はそこを彼の部屋にしている。声をかけると彼は元気に返事をするのだが、その声がとても大きいから。
グァ! ガ! ガ!
彼はペンギン。私は彼に朝食を用意する。生魚を何匹も。

私たちはタワーマンションの上層階に住んでいる。この部屋の窓からの眺めは抜群。海面の上昇から街を守る堤防と大水門、そして海が見える。海はここから適度に遠く、更に極地の氷が解けても安心だ。今やタワマンは海から離れた高台に建てるのが常識。かつて臨海エリアに建てられたマンションは、堤防に挟まれてずいぶんと価値が落ちた。
今日も暑くなりそう。予想最高気温は38℃。かつてこの国にあった春と秋を私たちから後の世代は知らない。今はもう、短い冬と長い夏しか訪れない。

地球温暖化により絶滅の危機に瀕している生き物を引き取って飼育する。それが意識が高い富裕層の娯楽になっている。特に人気がある動物はペンギン。飼育は難しく金もかかるが「それが良い」。そしてとても可愛い。だから私も飼うことにした。
私はずっと昼も夜もなく働いてきた。よりよい条件を求めて職を渡り歩き、稼いだ金は一銭もムダにせず運用し、自身に投資してのし上がり、今は国外に本社がある企業にいる。給与は年俸制で、残業をする者は無能だというカルチャーがあり、社会問題への意識が高い社員が多い。そこでさらに上に行くためにペンギンが必要になったのだ。投資のつもりだった。

覚えている。同僚から紹介された「仲介業者」に問い合せたら「孵化までもう間もなくという卵を保護しています」と返事が来たのを。「飼育するのでしたら孵化の瞬間から関わることを奨めます。ペンギンとの絆が深くなります」とのこと。そういうもの? と半信半疑で業者の飼育室に赴いたら、孵化の介助をすることになった。雛が殻をうまく割れないとき、外から殻を突いて助けてやる。本来は親鳥がする事だが、こういう場合は人間がやる。

雛の殻を割る力がどんどん弱っていくのを、居たたまれない思いで見ていたら
「この子が殻から出てこられるように手伝います」
「私がサポートしますから、あなたがやって下さい」「親鳥の気持ちになって」
と獣医から指示されて真っ青になった。
私には「子を救いたい親の気持ち」なんかわからない。どうしろと? 誰も子どもの頃の私を助けてくれなかったのに。
それでも卵の中の雛に必死に心を合わせ、「上手ですよ」と励まされつつ、責任の重さにぼろぼろと泣きながら、ピンセットで殻を突き、剥がし……苦闘の末に彼は私の掌の中にやってきた。
フワフワの毛に包まれた赤ちゃん。子どもは産まないと決めていた私が大切な命を預かった。
私が君のママだよ――。

同僚が子どものために奔走するわけを私もようやく理解した。業者に勧められるまま保険、医療、餌宅配、シッター……彼のために必要なサービスを次々と契約した。今住んでいる部屋もそうだ。ペンギン飼育に防音室がお誂え向きの物件だった。こうして彼と暮らして3年目になる。彼は成鳥になったが、身体が小さく歩き方がぎこちないことを獣医に指摘されている。「自然の中では生きられない弱い個体」だという。でもそれは、ここで私と生きていく分にはどうでもいいこと。

6月の台風が地方を舐めつくして去った翌日、ただ一人子どものころから繋がっている友人が連絡をくれた。あの町から逃げた者同士。いわば戦友。

「ニュースは見た? **町は台風で相当なことになっている。住民は皆無気力だし海も近いし復興はないね。極地の氷が減る時代になっても女性の人権がない田舎なんて消えればせいせいする――」

慌ててネットニュースを開いて震えが止まらなくなった。夜ごと消えろと念じた故郷が、夢で思い描いたのと全く同じ姿になっているのを見て、

私だ。

私がこれをやったと感じた。私の呪い、念力がこれを実現したのだ。馬鹿げているがそうとしか思えなかった。怖ろしくてたまらず鎮静オイル(CBDオイル)を何滴も飲んだ。


――。
南極は無音の世界だという。
でもかつてそこには賑やかな一団が住んでいた。
空調の効いた部屋の壁に映画を映し、彼と一緒に観る。退勤後のルーティン。映画は昔の南極の姿を記録したものだ。崖のように切り立った氷から、彼の仲間たちが次々と元気に海に飛び込んでゆく……。
ああ。
私も君も故郷を離れて正解だったのよ。
私たちは聞く。氷とともに故郷が割れ崩れ、海に溶けて消えていく音を。その最後のひびきを。遠く離れたこの場所で。
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