第2話

文字数 3,546文字

 彼らは結婚し、そして一緒に暮らし始めた。しばらく子どもはつくらないでおこうというのが二人の間の取り決めだった。彼の方が躊躇(ちゅうちょ)したのだ。彼女はさほど今の仕事に愛着があるわけでもないらしかったが、彼としてはまだ自分が父親になるのだというイメージが湧かなかった。そこには父親になったあとに、急に人間として老け込んでしまった兄の姿がもたらす危機感も関与していた。もちろん父親になったからといって自分まで老け込む必要はないわけだが、彼としては怖かったのだ。人生が自分のコントロールを失ってしまうことが。子どもができたら明らかに俺の人生のプライオリティーはそちらに置かれてしまうだろう。彼女との関係だってそれによって変質するに違いない。なにも子どもそのものが嫌いなわけじゃない。それでもまだ急ぐことはないだろう。なにしろ俺はまだ二十代なのだから。

 しかしあっという間に三十がやって来て、三十一がやって来て、そして三十二歳になった。彼女との生活は想像していたほどエキサイティングとはいえないにしろ、それなりに満足のいくものだった。恋人同士のときのような高揚感はもはやない。それでもお互いに対する好奇心のようなものはまだかろうじて持続していたし、それは深い共同意識のようなものに進化していた。彼はこの歳になってようやくほっと一息つくことができた。もちろん仕事は忙しい。責任のある仕事も任されている。それでも帰る場所があるというのは素晴らしいことだった。それは物理的な場所、というだけの意味ではない。精神的な、自らが帰属するべき場所だ。俺はここに属しているのだ。

 それでも三十二になったとき、彼は何かが間違っている、と感じた。それはまさに誕生日の朝だった。前日遅くまで仕事をしていたせいで、朝起きて鏡を見て(ひげ)()るまで、そのことを忘れていた。でもそれは紛れもない事実だった。彼はこの朝に三十二歳になったのだ。三十二回地球が公転する間、この世に存在し続けていたのだ。今までだったらそんなことは特に何とも思わなかっただろう。でもなぜかその朝、彼にはそれは奇跡的なことであるように思えた。俺は三十二年も生きていたのだ、と。そしてそのあとすぐ、一種の天啓のようなものが彼の意識に差し込んだ。それは明るいものでも、暗いものでもなかった。ただの事実だった。しかし事実であるがゆえに、反駁(はんばく)しようのない説得力を持っていた。まるで剃刀(かみそり)で視界の一部を縦に切り裂かれ、そこから今まで見えていなかった真実が顔を出したかのようだった。そしてその先にあったのは、鏡に映る三十二歳の男の顔だった。そこには生気がなかった。そこにいる男は明らかに何かを欲していた。このまま同じように生きていたのでは、明らかに枯れて、いずれ何の意味もない抜け殻のようになってしまうことは目に見えていた。彼はその事実を目に焼き付けた。焼き付けざるを得なかったのだ。なぜならそれは真実だったからだ。彼はしばらくそこにじっとしていた。居間の方で彼女が彼を呼んでいた。ねえ! と彼女は言っていた。そこで何をしているの? でも彼には返事をすることができなかった。何かが間違っているという感覚はさらに強くなっていった。ねえ! と彼女が言った。そしてその「何か」の中には、彼女もまた含まれていたのだ。


 その一年後に彼らは離婚した。あくまで外見的に見れば特に問題があったわけではない。経済的にも問題はなかったし、たとえば暴力とか、不倫とか、そういった目に見える不和があったわけでもなかった。考えてみればまともな夫婦喧嘩すらなかった。でもそれが悪かったのかもしれないな、とあとになって彼は思った。そういう観点からいうと、彼女はとても不思議な女だった。そこにいるのに、ある意味ではそこにいないのだ。あるとき彼女は俺を温かく包み込んでくれる。でもその本質を捉えようとすると、どこかにするりと逃げ出してしまう。俺は彼女の核のようなものを掴みたいと思う。そしてそれを俺自身の核と照らし合わせて、新しい何かを生み出したいと思う。心からそう思っていたのだ。そうすることでなんとかこの停滞した日々を抜け出せるのではないか、と本能的に感じていた。でもそんなことは起こらなかった。彼女はどうやらずっとこのままでいいと思っていたらしかった。こんな風に穏やかに暮らす。二人は無事に年老いて、やがて墓に入る。そこでも似たような会話を交わすのだろうか?

 彼にはそれは耐えられなかった。俺はどこかに進まなければならないのだ、と彼は思った。そしてそのためには、こんな生活を続けるわけにはいかない。若い頃にはそれでよかった。そこには本当のコミュニケーションというものがあった。でも今はない。今そこにあるのはただの温かい泥沼のようなものだけだ。俺はいつまでもそこで休んでいるわけにはいかないのだ。俺はここから出て、どこかに進まなければならないのだ。

 離婚を切り出したとき、彼女はそれほど驚いた表情を見せなかった。あるいは彼の心の内なんて、とっくにお見通しだったのかもしれない。特に問題もなく、円満に彼らは別れた。涙もなかったし、後ろ髪引かれるような思いもなかった。事実は事実だ、と彼は思った。別にどちらが悪いわけでもない。でもこの生活は明らかに間違ったものとなっていた、と。

 それでも実際に離婚して一人になると、孤独がどっと彼の心に押し寄せてきた。一度持っていたものを手放すというのがこれほどきついことだとは想像もできなかった。せいぜい独身時代の生活に戻るだけだろう、と思っていた(ふし)があったのだ。しかしそれは一種の修行の日々だった。彼は世界に一人だけ取り残されたような気分になった。自分からこういった境遇を望んだとはいえ、まさかこれほどまでに孤独になるとは思ってもみなかった。深い洞窟で、一人で暗闇と闘い続けているような日々だった。そんな中で彼はとにかく仕事に励んだ。それ以外できなかったということもある。なんとか外部に意識を向けていなければ頭がおかしくなりそうだった、ということもある。でも一番の理由は彼女のことを思い出さないようにしたい、ということだった。それはある程度までは成功した。でもある程度から先は決して成功しなかった。そしてさらに彼は孤独になった。


 そろそろ目的地が近付いてきていた。俺は孤独の底で、稲の匂いを嗅いだのだ。おそらくすでに稲刈りは終わってしまっているから、想像していたほどもうその匂いは残っていないかもしれない。それでも俺はあそこに行かなくてはならない。そこでもう一度何かとの繋がりを回復するのだ。

 下りる予定の出口の少し前で、パーキングエリアに寄った。そこは広い駐車場と、トイレしかない規模の小さなパーキングエリアだった。彼はそこに車を停めて、ただじっと呼吸をしていた。窓を少しだけ開けた。エンジンを切ると、急に世界が静かになったような気がした。背後からスピードを出して通り過ぎるたくさんの車のタイヤの音が聞こえた。夕方にはまだ早かったが、空気の中に冷ややかな夜の気配を感じ取ることができた。俺はずいぶん遠くまで来たんだな、と彼は思った。ここは実家に大分(だいぶ)近い場所ではあったが、それでもすごく遠い場所のように感じられた。俺はこの三十数年間で、いろんなことを駄目にしてきたんだ、と彼は思った。そのときには自分のためになると思っていたことが、結局は全部裏目に出てしまった。その結果残ったのは何だ? 空っぽの容器みたいなものだけじゃないか? 今では彼は実家近くの田んぼに行ったところで自分の心が救われないことを知っていた。俺はきっとただ移動したかっただけなんだ、と彼は思う。記憶の底にあった何かを求めて。それはとても重要な何かだった。俺という人間の中心にある何かだった。それでももうそれもおぼろにしか残っていない。俺は自分が何者であるのか、ということの手掛かりすら失ってしまったのだ。彼は一度目をつぶった。(まぶた)の奥で様々なイメージが去来していた。でもそのどれも、今の彼には関係のないものだった。

? と彼女が訊いた。分からない、と彼は思った。そして首を振った。なにしろ俺は自分が何のために生きているのかすら分からないのだから。彼はしばらくそのままじっとしていた。何時間も何時間もじっとしていた。やがて本物の夜があたりを包み込んだ。人気(ひとけ)のないパーキングエリアで、彼はたった一人、どこにも行けずに立ち止まっていた。前に進むことも、後ろに退()くこともできなかった。ここはどこなんだろう? としばらくして彼は思った。でも誰にもそんなことは分からなかった。


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