第1話 名前に縛られた女

文字数 5,632文字

 トゥルルルルルル……コール音が鳴る。衝動的に切ってしまいたいのをなんとかこらえて待つ。
 「はい、警察署です。何がありましたか?」
 真面目そうな男の声がした。
 「……妻が……子供を誘拐しました」
 雄大(ユウダイ)は、浅い呼吸の狭間でようやくそれだけを言った。
 「今、奥様はどちらにおられますか?」
 「自宅です」
 うるさいくらいに心臓がなる。
 「住所を教えてください」
 「はい……」
 自宅の住所を伝えながら、夢なら覚めてくれと必死に祈った。
 しかし、電話を終えた雄大の目の前に広がる光景は変わらない。
 嬉しそうに赤子をあやし、絵本を読み聞かせている妻―――。
 たった数分前まではこの光景をずっと見ていたいと思っていた。警察に電話をかける直前に読み終えたノートが、ダイニングテーブルの上に無造作におかれている。
 あるいは、俺が日記など勧めなければこんなことにはならなかったのかもしれない。今更、そんなタラレバ話をしたところでどうしようもない。それでも雄大は考えずにはいられなかった。―――どこで間違ったのか。
 キッチンの小窓から吹いた風がそのページを1枚めくった。


 1991/6/22(土) 雨
 夫が「日記でも書いてみたらいい」と言うので書き始めます。ただいまの時刻は21時過ぎです。夫はソファーで漫画を読んでいます。私が振りかえると、すぐに気づいて見つめ返してきます。漫画に全然集中していないみたいです。私が変顔をして夫を見ると嬉しそうに目を細め、小さく手を振りました。口の動きだけで「あいしてる」っていたずらっぽく笑います。照れるのでわざと素っ気なく、日記に何を書けばいいかわからないと聞いてみました。夫が「まずは自己紹介でもしてみたら?」と提案してくれたので、自己紹介します。
 私の名前は正子(マサコ)です。読んで字のごとく「正しく生きる子」これが私の名前の由来です。母がこの名前を周囲に披露した時、
 「もう少し女の子らしくて柔らかさのある名前が、いいんじゃないの?」と何人かが母にアドバイスしたそうですが、頑として受け入れなかったらしいです。
 どうしてもこの名前がよかったんだよと、母は私が小学生の頃に真剣な顔で言いました。それをそのまま書いた作文で賞をとった時、母はすごく嬉しそうでした。
 「正しく生きなさい。もし心の弱さに一瞬でも負けたのなら、その罪を一生背負うことになるのだから」
 母のことを考える時、繰り返し繰り返し何度も言い聞かされたこの言葉を一緒に思い出します。母は私が誰かを羨む言動をするのを特に嫌いました。
 「その心の弱さが罪を犯すのよ」
 心の弱さというものを目の敵にしていて、手をあげられる事もしばしばありました。私をヒステリックに責めたり叩いたりする時には、いつも左手でポケットの中のなにかを握りしめていたのを覚えています。何度か見せてくれと母に頼んだのですが、母はその度に辛そうな顔をして、「見せられるもんじゃないんだよ」と断るのでした。皮肉にもそれが何なのか、今の私にはわかるのですが、今日はその経緯を書きたい気分じゃないのでおいておきます。
 母は先述の1点を除けば非常に理性的で穏やかな人でした。いつも食卓には手作りの料理やおやつが並んでいましたし、他の子が持っている物を羨む必要がないほどいろんなものを買い与えてもらいました。したいと言った習い事はすべてさせてくれましたし、私が病気をしたときには付きっきりで看病してくれました。私が、母の逆鱗に触れない限り母は優しく、非の打ち所のない人だったと思います。
 だから母はきっと私を愛してましたし、もちろん、私も母を愛してます。

 「書けたよーー!」
 正子がノートを夫である雄大に渡した。
 「俺が読んでもいいのかい?」
 漫画を一旦脇におき、ノートを受け取りながら雄大が聞き返す。
 「思い付いたままに書いてるから読みにくいかもしれないけどね。あなたに隠し事をするのは嫌だから」
 正子の反応を待って雄大はノートを開いた。ノートのページ半分を埋め尽くす女の子らしい丸い字を目で辿る。
 「うん、いい感じだと思う。本当に正子はお義母さん大好きだよね」
 パタリとノートを閉じて正子に返す。雄大は立ち上がりそのままキッチンに向かった。
 「なにか飲むかい?」
 日記を書き終わった正子を労うように声をかけた。
 「んー?ココアがいいかな?」
 追いかけてキッチンにきた正子が、雄大の隣に立つ。インスタント飲料の並ぶ棚をしばらく見てからそう答えた。
 「了解。美味しく作るね」
 雄大はケトルでお湯を沸かし、ペアのマグカップにそれぞれコーヒーとココアを作る。
 「そうだ!美味しいおやつがあるんだよ」
 戸棚をごそごそと探して、なにかを見つけた正子がいう。目を向けた雄大に「じゃーーん!」クッキー缶を差し出して見せ、笑いかける。
 「今夜はクッキーパーティだね」
 雄大は微笑み返してテレビの前におかれた机にマグカップを並べた。すぐ側の3人がけソファーに座る。
 「クッキーとあなたと!」
 正子は踊るようにして雄大の隣に腰かけた。にひひっという効果音が似合いそうな笑顔を雄大に向けた。
 「乾杯」
 マグカップをコツンと鳴らして一口すする。
 「アチッ!」
 猫舌の雄大が小さくそういうと
 「ふーふーしてあげましょうか?」
 正子が聞く。どこか嬉しそうな表情だ。
 「してもらおうかな?」
 雄大が答えて正子にマグカップを預けた。
 正子が受け取りふーふーと冷ますのを雄大はじっと見つめる。
 正子がそれに気づいて照れたように笑い、目をつぶる正子の唇へ雄大はそっと近づいた。

 6/23(日) 雨
 昨日に引き続きの雨で、洗濯物が乾かなくて嫌になります。昨日書いた日記を夫に見せたら「正子はお義母さん大好きだよね」といわれたので、夫のことも紹介してみます。夫の名前は雄大さんです。私の4歳年上です。近所に住んでいた幼馴染みでした。結婚したのは私が高校を卒業した年……18歳の頃です。もう結婚4年が過ぎました。結婚を報告した周囲の中には、付き合ってもないのに結婚するのかと驚く人もいました。しかし、
 「私のことを一番近くでみていてくれたのが雄大さんです。その結婚生活がうまく行かないなら、私に結婚は向いてないのでしょう」
 と私が返すと、
 「もちろん、雄大さんは素敵な人だと思うし、正子ちゃんも素敵だよ。お似合いの二人だと思う。おめでとう」
 と皆あわてたように祝福の言葉をくれるのでした。他人様と言うのは全く勝手なものです。……雨のせいでしょうか?今日は気分がクサクサしてます。せっかく雄大さんと過ごせる休日が2日とも何処にも出掛けられずに終わってしまいそうです。その勿体なさが原因のような気もします。それならなおさら、鬱々とした気分で過ごすのはもったいないですね。……いいことを思い付きました。雄大さんの大好物のコロッケを作ろうと思います。久々のコロッケです。
 まだ26歳だと言うのに、最近太ってきた様子の雄大さん。雄大さんはビール腹と言ってお腹をポンポンと叩き笑うのです。ビールを飲まない雄大さんのお腹が、ビール腹というのはちょっと面白い気もするので、ついつい許してあげたくなるのです。しかし、健康診断の数値が悪くなるのは嫌です。ビールでできてないビール腹を引っ込めてもらうため、普段は揚げ物も炭水化物も減らしています。
 だけど、今日みたいな日は雄大さんの笑顔が見たいので特別です。雄大さんの笑顔ほど私を元気にしてくれるものはないのですから。

 正子はダイニングテーブルで本を読む雄大の肩にノートを乗せた。そのままなにも言わずそそくさとキッチンに向かっていく正子。対面キッチンの向こう側についたのを見届けると、雄大は渡されたノートを開いた。
 その間にエプロンをした正子は冷蔵庫を開け、冷蔵庫から必要な食材を手早く出した。ジャガイモを洗って電子レンジへ入れる。レンジが回っている隙に人参をフードプロセッサーで細かく刻む。グリーンピースのサヤを剥こうとしたところで雄大はストップと声をかけた。
 「俺の笑顔をみたいならそれはいれない方がいいんじゃない?」
 雄大がノートから顔をあげて言う。
 「ノートを読んでたんじゃないの?はやいね。……ジャガイモを潰してくれるのならいいわよ?」
 微笑んで答える正子に
 「もちろん。手伝わせてもらうよ。君の笑顔は俺の元気の源だからね」
 雄大は大袈裟にそういって笑う。ちょうど出来上がりを知らせてきた電子レンジの扉を開ける。耐熱ボウルの中のジャガイモの皮を冷めないうちに手早く剥いていく。
 「なかなかうまいじゃない」
 その様子を正子が誉めた。
 あげたての黄金色のコロッケ。正子はそれを高さが出るようにお皿に盛り付けていく。続いて付け合わせのレタスやプチトマト、ニンジンなどで彩りを添える。仕上げにブロッコリーをのせようとした手を、雄大がつかんだ。
 「なくてもいいんじゃないかなぁ?」
 幼子のように眉をしょんぼりさせている。正子はため息をついて言った。
 「コロッケひとつ減らすのとブロッコリーを食べるのどっちがいい?」
 「うぅ……頑張る。ブロッコリー……」
 嫌いな野菜が多い雄大の食事バランスは正子の飴と鞭で辛うじて保たれているのであった。
 「そういえば、どうして日記を書いたらって言い出したの?」
 雄大が幸せそうな顔でコロッケを頬張る様子を見つめていた正子が聞く。
 「ん?っとね………」
 雄大はちょっと待ってというように手を出した。咀嚼スピードをあげ、飲み込んでから続ける。
 「俺、明日からしばらく平日の帰宅が深夜帯になると思うんだよ」
 「あれ?6月って忙しい時期だっけ?
 ついこの間、年度変わりの怒濤の残業に次ぐ残業の日々が終わったばかりだったと思うけど?」
 不思議そうな正子に雄大が説明する。
 「後輩の指導を任されそうなんだよ。だからしばらくは、残業で自分の仕事の遅れをカバーするようになると思う」
 認められてうれしい反面、自身の力がどこまで通じるか不安といった表情の雄大。その頭を正子が撫でる。
 「気合い十分だね!応援してる!でも無理して、体壊さないでね?」
 「ありがとう。……それで、こうやって話す時間が減るとさ、きっと正子に寂しい思いをさせるだろうから……」
 「あぁ、なるほどね!雄大さんに話すつもりで書けばいいというわけね!それなら続くと思う。でもさっき、私が見せないっていったらどうするつもりだったの?」
 「文章書くだけでも少しは気が紛れるだろうから、それはそれでいいかなって思ってたよ」
 「ありがとう。交換ノートにしたら良かったんじゃない?って聞こうとしたけど、それだと雄大さんの負担増えるものね。それに私の順番の時に書けなかったら、約束守れなかったって凹んじゃいそうだし。それ想像して避けてくれたんだね」
 正子が気遣ってくれたことがうれしいと続けた。
 「私、あなたと結婚して本当に良かった」
 正子がそう笑いかけると
 「俺も」
 と雄大が照れ笑いでコロッケを指差して言った。
 「コロッケのためだけ!?」
 むぅっとむくれた正子の顔を愛おしいなぁと見つめる雄大であった。

 6/24(月) 雨
 今日から雄大さんは残業三昧です。寂しくないかと聞かれたら寂しいですが「私と仕事どっちが大切なの!?」なんて言って相手を困らせるのはよくないことなのでしません。でも、私が寂しいだろうなって、言わなくても察してくれる雄大さんはやっぱりすごいです。雄大さんが私の事を思って日記をすすめてくれたのですから、毎日書きたいと思います。
  さて、3日連続雨が降られるともう洗濯物を干せるスペースがありません。仕方ないのでコインランドリーにいきました。
 できれば行きたくなかったので今日は晴れてほしかったです。コインランドリーには、父親のイメージがついているのです。普段仕事、仕事でまともに家に帰ってこなかった父が愛用していた場所です。今も恐らく愛用しているでしょう。コインランドリーはいくつもあるので、鉢合わせる可能性は低いとわかってはいます。それでも避けられるなら避けたいのです。かといって、「乾燥機がほしいか?」と聞かれたら、「他にもっと欲しいものがあります」と答える程度の気持ちですが。
 父親を嫌いだとは言いません。女ぐせが悪いとか、気分で怒鳴るとか、お酒を飲んで暴れるとかそういうことは一切ない普通の人です。むしろ働き者で会社での評価は高かったように思います。私が物心ついた頃にはすでに自宅には寝に帰るだけの生活でした。なのであまり遊んでもらった記憶はありません。というか、多分遊んでもらってないと思います。
 しかし、父親というのは一説によれば「外で稼ぐ」のが家族における役割らしいと聞いたことがあります。
 幼少期の私が与えられていた生活の水準を鑑みるに、父は平均以上に稼いでいたと思います。役割をきちんと全うしてる人を避けたくなるなんて、酷い人間になった気分です。父のことを思うと重い気分になるのは私の心が弱いからでしょう。
 これではいけません。世の中に完璧な人はいないのですから、役割をキチンとこなした父の事を正当に評価し直すべきです。

 日記を読んだ雄大は寝室で寝息をたてている正子のおでこにキスをして
 「今日もたくさん考えたんだね」と頭を撫でた。正子がまた自分を責めて苦しんでいる様子には気づけたが、
 夜中の2時過ぎに帰ってきた雄大にはそれ以上、どうしてあげることもできなかった。
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