第十五章 ヨブ記三十五章七~八節

文字数 3,116文字

『あなたが正しくあってもそれで神に何かを与えることになり神があなたの手から何かを受け取ることになるのだろうか。あなたが逆らっても、それはあなたと同じ人間に、あなたが正しくてもそれは人の子にかかわるだけなのだ。』ヨブ記三十五章七~八節


「彼女、何か隠しているわね」コナーはプルタブを勢いよく開けて缶コーヒーを傾けた。俺は頷いてペットボトルから水を一口飲んだ。長塚宅から引き揚げた俺たちは駅前の大通りに歩き出て、道端の小さいコンビニに立ち寄り飲み物を買った、彼女は無糖の缶コーヒーを、俺はただの天然水だ。舗装された道を歩きながら意見交換となった。
「彼女は知恵の家出について心当たりがあるわね、直ぐに否定していたけどあの様子だと説得についても疑問だわ」
「疑問と言うとしていないんじゃないかってことか?」
「そうは言わないわ、ただ話しかけていたってのは事実と全然違うんじゃないかってこと。ほら怒鳴りつけて無理やり行かせようとしていたとか、ね」彼女は缶を揺らした。その横を錆びた自転車にまたがってふらふらしている老人が通り過ぎて行った。
「それにしても日ごろから会話しないなんてあの母親どういう神経しているのかしらね?家庭よりもそんなに教会の行事が大事なのかしら。信じられないわね」
「むしろお前はそこらへんどうだったんだ?」
「むしろ家庭のためなら行事なんてすっぽかすわよ、それが当然じゃない?」彼女は馬鹿な事を聞くのねと言わんばかりに眉をひそめた。
「高校のころにアイルランドの親戚に会おうとしたんだけどね、ちょうど模擬試験の日程とかぶったのよ。でも模擬試験なんて受ける意味あるのかしらね、良かろうが悪かろうが本番には関係ないのに?見慣れた学校で椅子を温めるよりはダブリンのボクシングジムで親戚と殴り合うほうがずっとましだわ、そして実際にそうしたし」
「親戚はジムでも経営してたのか?」俺はこめかみを抑えると彼女は頷いた。
「ええ、ま、そういってもアマチュアがメインだったし本格的じゃないけどもね、基礎を習うならうってつけよ、今もまだやっているじゃないかな?」ダブリンに行く機会があればよろうとは内心思ったがあまり知りたくもない気がした。
「琥珀はどうなの、久子の話を聞いて何か思いつくこと、あった?」
「あくまであの話だけからの推測だぞ」俺は前置きの合図として指を一本立てた。
「おそらく久子はあの家庭の中できちんとした居場所が無い。母親とか妻という立場はあるが名目だけでその寂しさを紛らわすために教会の行事にのめり込んでいるじゃないかな」
「浮気するよりもましね、でもそれだけ?」コナーの言葉に首を振り答えた。
「彼女はこういってたな『娘たちは何もしゃべらないし何を考えているかわからない』って?たぶん、あの姉妹は幾度か母親と話そうとしたが無視されるか意見を握りつぶされたんだ、あるいは真面目に聞かずに適当に答えたとかな、それが日常的に続いてたんじゃないか?」
「そう推測できる理由は?」コナーが訪ねた時、ちょうど信号が赤信号になった。俺は立ち止まって車の流れを見送りつつ続けた。
「子供が親に何も言わないっていうのはある種のシグナルなんだ、つまり話しても聞かないから話さないってな、あるいは弱みを握られたくないがために。ある意味虐待された子供に見られる特徴の一つなんだ。もちろん、そうでない場合もある」
「じゃあ日常的に虐待があったと言うの?」
「ああ、だがあの様子を見ると肉体的よりも精神的な虐待の方が多かったんじゃないかね。優しい暴力という奴さ。あなたのためと言いながら自分の良いように仕向けるってね」
「確かあなたの話だと、そっちの方が重症だったはずじゃ……」
「実際にそうさ、信頼しているうちは、子供は血が流れているのに気づけない、だが気づいた時にはもう一滴の血も残っていない」
「詩的だけどなんだか趣味が悪いわ」信号が青に変わり、コナーが最初に歩き出した、俺はその後を追うように歩いた。
「とはいえ持ち出したのものが海外旅行用のトランク……だけとは思えないな」
「その点は同じだわ。あなたは知恵の部屋を見たのでしょ、なにかごそっと減ってたものとかあった?」
「……どうだろうな、下着とかはケースに入ってたし、あの時は夢奈も一緒に見ていたはずだから何か異変があれば彼女が気づいているはずだ、だがそうではないとすると何を持ち出したのか、あるいは何を詰め込もうとしたのか」
「外部の協力者の線も考えた方が良いわね、とすると……」彼女は顎に手を当てて考え込んだ。俺は口を開いた。
「俺なら教会の集まりを探ってみるな、もし彼女が利人以外と懇意にしているならば彼女に援助した奴が居てもおかしくはない」
「でもそうなるとラインのメッセージはどういう意味を持つのかしら?あの会わせる顔が無いって……」
「さてね、あちこち突きまわってみるしかないだろう、何が出てくるか見てみようじゃないか?」俺の言葉に彼女は頷いた。
「まあいいわよ、足を使うのは私の役割、あなたは頭を使ってて頂戴、っとごめんなさい、電話が入ったわ」彼女は立ち止まって灰色のスマホを取り出したが、画面を見ると眉間に深い皺が走り、翡翠色の瞳が瞬いた。彼女はゆっくりと慎重な手つきで耳を傾けた。
「こちら、天ノ河探偵事所です、ご用件は?」
『…………』
「ええ、私がそうです。それで?」
 俺は彼女から視線を外して辺りを見渡した。歩道を自転車に乗った連中が我が物顔で走り抜け、カバンを背負った子供たちが下校最中ではしゃいでいる、車道沿いをみると牛丼のチェーン店に食材を運び込んでいる小型トラックが目に付いた。
「……随分と間抜けなせりふ回しね、何の映画を見て覚えたのかしら、今後の参考として教えてほしいくらいだわ」
『……』
「つまり女の私一人にあなた方は頭数揃えないと襲えないわけってことね、かわいそうに非力なのね」コナーの言葉尻に隠しようのない侮蔑が現れていた、しかし彼女の目がこちらに向いた。電話の相手は男だった、怒鳴り声がかすかにだが聞こえた。
「それはお勧めできないわね、彼、あなたたちの予想以上にクレイジーだから」そう言って彼女は通話を切った。どういうことだと訊ねると彼女は俺を見て首を振った。
「『今やっている仕事をやめろ』って」
「さもなきゃ……って奴か?今受け持っている依頼は?」俺は補佐と言う立場だが実際のところ、仕事の一切はコナーが仕切っている。俺はあくまで補佐だ。
「自動車事故に関わる保険会社からが一件ストーカー対策のが一件、それから家出した知恵さんのね」
「それで、向こうはなんだって?」
「お決まりの脅し文句よ、ほとんど聞くに堪えないわ。『手を引け、さもないと』ってね。別にどうってことはないけども……あなたの事も話してたわ」
「俺の事を?」
「ええ、『おたくの助手がある日歩けない身体になってもおかしくないな』って」彼女はそう言って俺の腕を叩いた。俺は首筋を撫でて鼻を鳴らした。
「言いたいことはわかるけど、よく聞いて。またあなたを拘置所から連れ出すのは御免こうむるわ。あの時みたいに大立ち回りはよしてよね」
「あの時はあの時だが、今度の場合は……そう、冷静に振舞うとするよ」
「バックアップを用意することね、もちろん私も手伝うわ。藪から棒が出たところで引きずり出して持ち主の顔を眺めるとしましょ?」
「いいとも、だがコナー一ついいか?」
「何かしら?」俺は首を振って見せた。
「俺が狂っているっていうのは秘密にしておいた欲しかったな」
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登場人物紹介

琥珀

本編の主人公、職業:調査員補佐

天ノ河コナーと共に探偵稼業を務め、様々な分野を独学している。冷静で落ち着いた性格だがかつて虐待された悪影響によって悩まされ日常生活に向いていない。

一方でカトリック信者として信仰し、神学を学んだという稀有な経験を持つ。

虐待を受けたという経験と研ぎ澄まされた思考は普通では見えない事件の裏を見ることで依頼を果たすための武器としている。



天ノ河コナー

本編の主人公 職業:私立探偵

探偵稼業を務めるアイルランドと日本のハーフ。大胆にして快活、積極的な姿勢とトレードマークは白いジャケット。琥珀の才能をいち早く気づき彼を探偵稼業に引き入れた張本人。親譲りのボクシングと生来の精力的な行動は琥珀曰く『ついていけない』と言わしめた。

 女扱いされるのを嫌い自らとして生きぬくその姿勢はタフでハード、一方でその姿は麗しい。

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