第三十一章 ルカによる福音書十二章四十八節

文字数 2,978文字

『しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任されたものは、更に多く要求される。』ルカによる福音書十二章四十八節

 
 その男はかつて荒川運輸に勤めていた山田勝男と言う男だった。だらしない中肉中背の体格に上下から圧縮したように弛み、くすんだ顔の皮膚。そして縮れ短くざっくばらんにカットされた髪の毛。彼の着ているのはスーツだったがそれがかすむ様に疲れ切った雰囲気が醸し出されていた。その向かいにコナーが腰を下ろしてハイボールのジョッキを半分空けていた。すでに彼女たちの間には空になった皿と竹の筒に放り込まれた無数の串があった。
 俺はコナーの隣に滑り込むように座った。彼女はちらりと俺を見て頷き、指し示した。
「彼があなたと話したいと言っていた琥珀よ、私の助手で今調べている依頼に力を貸しているの」コナーの言葉にくたびれた小男は愛想笑いを浮かべて俺を見た。
「さっき話してたのは君のことだったか、ああ、なんというか、うん、普通に見えるけどもね」なんとも間延びした声音で話す彼に俺は唇の端を曲げた。俺はコナーに振り返った。
「コナー、この話し合いでの経費はいくらだ?」
「調査費用を勘定に入れなければ、ここの酒と焼き鳥代くらいよ、それがどうしたの?」
 俺は山田に視線を戻した。
「失礼だが、荒川運輸をやめたのはいつで?」
「ああ、ちょうど一年前だよ。春崎さんところの娘さんが家出した次の年に辞めさせられてね。で、まあ、今は、そう……」彼は言いづらそうに口をまごつかせた。テーブルの下でコナーが俺の足を軽く蹴った。俺は頷いた。
「OK,とりあえずはそこまで聞いておきましょう。それで……」本題を切り出そうとしたときに店員がやってきた。どうやら二人のうち誰かがコールボタンを押していたらしい。コナーはジョッキを開けてお代わりを頼み、山田は日本酒と焼き鳥のいくつかを頼んた。俺は酒は頼まずクラブソーダと焼き鳥のいくつかを無造作に頼んだ。別に食べたくも飲みたくもないが相手の警戒心を解くには一緒に食事をするのは簡素な手段だ。
 店員がひっこんでから俺は改めて口を開いた。
「荒川運輸に勤めていたころ、春崎義彦と同僚だったんだろう?彼についてあんたから見た彼の印象や、なにか話せるネタはないかな?」
「別にかまわないよ、ただ俺から聞き出したなんてことは言わないでくれないかなあ、ほら、気恥ずかしい、し?」
「いいだろう、話してくれ」俺は頷いて促すと彼はグラスの日本酒をちびりと飲んだ。
「そう、彼はかなり仕事熱心だったよ。最初の頃は毎日毎日トラックに乗り込んで荷物を運んでいたし、出世してもいつも熱心に働いていたよね。俺がようやく事務仕事始めた時には彼はもうその事務仕事を統括する立場にいたし」
「それで?」
「なんていうかな、ものすごく自信があるっていうか、ぐいぐい人に要求するんだよね、それでまあ……けっこう手を出したりするんだよね」
「殴りつけると?」俺が訂正すると彼はくちごもりながらも頷いた。
「あの人はさ、悪気はないんだよ。でも自分がここまで頑張っているからって他の人のも同じようにしろっていうのが大体だったね、それはそれでいいんだけどもやっぱり喧嘩することは多かったかな」
「だったらどうして彼は未だに会社にいるのかしら?日本の会社なんて和を乱す輩は嫌われるんでしょ?」コナーがここで口を開いた。俺はそれに頷いた。しかし山田は首を振った。
「結局のところ、彼は押しが強いし大体相手が引っ込むんだよ。それにきちんと仕事の成果を出しているからそれを出されると黙るしかなくてさ」
「……」俺もコナーも何も言わなかったがコナーが腕を組んで口をへの字に曲げているのを見て何を考えているのか手に取るように分かった。右手の真新しい傷はそんな彼女らしい傷だ。
「なるほど、ところで一年半前のことを話してくれないか?」
「たしか知恵ちゃんだったかな、その子がおかしくなった時の頃だね?そうだね、そう……ああ、うん」彼が話そうとしたときに注文していたものが届いた。すべて出そろったところで彼は一串取って口に運んだ。俺も軟骨揚げを一つ食べて飲み込んだ。俺は何が出てくるのか待ち構えた。
「その、今から二年前、つまり知恵ちゃんがおかしくなる半年前に僕たちの代の内半分がリストラしなくちゃいけなかったんだ。それでまあなんというか、わかるだろう?すごく社内がぎすぎすしてさ、僕も彼もすっごく苦労したんだ。もう笑えないくらいにさ。でも春崎さんはすごい人でね、ほら知恵ちゃんが引きこもりになった時からすごく堂々と振舞い始めたんだ」山田はさらに続けたが、俺の網にかかるものがあった。
「自分の娘がひきこもりになったからその分、親として頑張るところを見せるんだって言ってさ、そのおかげかな、僕はリストラされてあの人は継続されるってことになったんだよ」彼は苦笑した。そこで口を開いた。
「その、知恵がひきこもりになってから自信に満ち溢れるようになったのか?それともなる前からか?」
「さあ、どうだろう?でもやたらと元気に振舞ってたから聞いた時に、そう話してたしな」
「まさかと思うがそれを言い触らしてなかったか?」
「ああうん、ことあるごとに言ってたよ。でもそれで奮起してたからすごい話だよね」
 コナーは眉をひそめて唇を小さく舐めていた。そして俺を見ていた。それに対して、俺は何も答えなかった。

 俺は口火を切った。今までは徐行してて安全運転だったが、ここでアクセルを踏み込んだ。
「ところで南アジア、タイに社内旅行で行ったそうじゃないかな?」
「ああうんそうだけど?そんな事話したっけ?」
「いいや、こっちで調べたんだ。ところで……買ったかい?」俺は営業用の笑みを被った。山田は何のことだろうというように眉をひそめた。
「エキゾチックな果実、年を取らぬセクシュアルでピュアな人たち……ドリアンよりも美味しい果実……あのころはこんなうたい文句が多かったんじゃないかな、違うかな?」俺は笑みを浮かべたままだった。コナーは困惑の表情を浮かべ、山田はかなりばつの悪い顔を浮かべた。
「あ~、その、琥珀君、と呼んでいいかな?それについては、ほら、周りに人が多いし、そのコナーちゃんもいるからね?」
「知ったことじゃない、それに別にあんたがそれを買ったかどうかというのは実のところあまり関係ない」そして続けた。
「春崎義彦は買ったか?そしてどういうのを買ったんだ?その様子を見ると覚えていると踏んだんだが?」俺の言葉に彼は唇をぎゅっと横に縛り、眼を逸らした。だが俺はじっと見つめたままだった。沈黙は周りの客の騒々しさに消えていく。狩人は必要ならば自分の糞尿の中でだって待ち続ける。耐え忍ぶのは十八番だった。そして根負けしたのは彼だった。
「……そう、かなり若い子をホテルの部屋に連れ込んだよ、でもあっちの人はさ、若く見えるからさ」
「それだけか?」
「そ、それだけだよ。皆買ってたし、ほら……浮かれてたから」
 口ごもる山田に俺は頷き、ただ一言言った。
「ありがとう、それが聞きたかったことだ」その声は我ながら低く響いた
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登場人物紹介

琥珀

本編の主人公、職業:調査員補佐

天ノ河コナーと共に探偵稼業を務め、様々な分野を独学している。冷静で落ち着いた性格だがかつて虐待された悪影響によって悩まされ日常生活に向いていない。

一方でカトリック信者として信仰し、神学を学んだという稀有な経験を持つ。

虐待を受けたという経験と研ぎ澄まされた思考は普通では見えない事件の裏を見ることで依頼を果たすための武器としている。



天ノ河コナー

本編の主人公 職業:私立探偵

探偵稼業を務めるアイルランドと日本のハーフ。大胆にして快活、積極的な姿勢とトレードマークは白いジャケット。琥珀の才能をいち早く気づき彼を探偵稼業に引き入れた張本人。親譲りのボクシングと生来の精力的な行動は琥珀曰く『ついていけない』と言わしめた。

 女扱いされるのを嫌い自らとして生きぬくその姿勢はタフでハード、一方でその姿は麗しい。

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