おぬしはそれでも大御神か!?

文字数 11,412文字

 八百万ノ神乃宮(やおよろずのかみのみや)とはどこに存在するのか、実に多様多種の神様がそこに集って、神としてあるべき姿を勉強し、それぞれの特性や向き不向きを見出して、己の司るべき事物を定める、誠に貴き学舎の事である。
 最初は天地開闢から生命創造までを基礎として学び、万物を正しく生み出す力を身に付ける事より始まる。そこから適度な国の興亡、理想とされる食物連鎖の均衡、豊作と凶作の起こし方、天候の操作方法など多岐に渡る知識を得て、神々は己の進むべき道や司るべき事物を決めてゆく。宇宙や惑星を創造して管理する神になるか、他の神が創造した世界の中で何かを司る――例えば豊穣神や守護神、水神などの――神になるか、はたまた新たな神々を生み出す最高神となるか、実に多くの選択肢がある。
 その学舎の中でも、天羅余大御神(てらあますおおみかみ)は優秀な才能を以て、他の神の模範たる成績を示す見目麗しい女神であった。名は体を表すが如く、将来彼女はあらゆる自然を満ち溢れんばかりに豊かにする道へ進もうと決めており、未だ司るべき事物の定まらぬ神々にとっては羨まれ、仰ぎ見られる立派な大御神でもあった。
 そのように前途洋々たる彼女にも未だ定まらぬ事が一つあって、それは親しき学友と呼べる相手が一柱(ひとはしら)もいない事であった。
 神とは本来孤独故に内向的な一面を少なからず持っているものだが、彼女は決して他との交わりを恐れている訳ではない。それどころか、己から積極的に関わり合いを持とうとし、幾度となく同じ学舎の下で生活する神々へ挨拶をしていた。
 しかし、彼女を大御神と仰ぐ彼らは恭しく返事をしても、分を超えた感情など抱くまいと節度を弁えて、ただ礼儀正しく雅言を並べるだけであった。彼女と似通った道を目指す神々ですら、ただ親しき学友を欲するが故の奥ゆかしいその心中を察する事ができず、交友に至るという発想に考えが及ばないほどである。
 そうした状況が続く内に、天羅余大御神は憂いを帯びるようになり、「我(わ)はこのまま宮を出れば、数百年に一度の宴に戻ってきても、我の宴席に寄り添うてくれる神などおらぬであろう。我の心さえ豊かにできぬのに、どうして自然を豊かにできようか」と密かに嘆く有様であった。
 そんな彼女に転機を与えたのは、ある一柱(ひとはしら)の女神であった。
 八百万ノ神乃宮に新しく入ってきたその神を、善積命(よくつみのみこと)と言う。彼女は見た目や言動こそ若干幼いものの、磨けば光る才知を秘めており、また良い意味でも悪い意味でも慣例や決まり事に忠実であった。それでいて、物言いが非常に堂々としており、道外れな振る舞いをしている神を見つければ、その相手がいかなる存在であろうと臆する事なく意見するのである。
 宮の中には数多の神々が生活している故、たった一柱の神の事など余程の名声がなければ埋もれてしまうところを、善積命はその毅然たる態度から「天網神」と呼ばれ、一部の間では次第に有名となっていった。
 その名が天羅余大御神の耳に届くのも時間の問題であったが、ある日、それに至る前に善積命の方から彼女を訪ねてきたのである。
「おぬしが天羅余大御神か?」
 ついぞそのように不躾な態度を取られた事のない天羅余大御神は半ば面食らって、彼女の顔をまじまじと見つめた。随分と熱心な眼差しをした彼女の背丈は天羅余大御神の腰丈よりやや高いほどであった。
「確かに、我は天羅余大御神と呼ばれておりますが」
「おお、会えて嬉しいのじゃ!」
 彼女は嬉々とした表情を浮かべて天羅余大御神に詰め寄った。
「妾は善積命の名を賜った神じゃ。この学舎に入ってからと言うもの、おぬしの評判を度々耳にしておってな? 是非とも挨拶がてり教えを請いたいと思い、此方へ参った次第なのじゃ」
「我に教えを? 一体何を教えれば良いので御座いますか?」
 自分の元へ他の神が訪ねてくるのは初めての事であった故、彼女は戸惑っていた。
「言うまでもなかろう。妾は新参者じゃ、学舎において古参たるおぬしを訪ねるは勉学の事以外に何があると言うのじゃ? ああ、手土産の心配をしておるのじゃな? 安心せい、おぬしが古酒を嗜んでおると聞いて、お近づきの印を持ってきたぞ、ほれ!」
 善積命は右手に持っていた酒入りの瓢箪を持ち上げて、天羅余大御神の胸前へと差し出してきた。彼女はそれを受け取ると、その瓢箪から微かに淡く、落ち着いた甘みのある香りを感じて、中身が吟醸酒だと気付いた。
 吟醸酒は天羅余大御神の最も好む酒であった。彼女は味に酔うよりも香りに酔う嗜み方を好んでおり、夜更けに一柱寂しくも一口一口大切に吟醸香を口に含んでは、ここ最近心に浮かぶ憂いを紛らわすのである。
 それはさておき、天羅余大御神は素直に嬉しかった。彼女の好みを知る神はあっても、それを贈り物として携えて来てくれる神はおらず、また彼女を大御神と敬う神はあっても、そこへ親しみを以て接する神はおらず。それらに比べれば、善積命は無作法なれど、ただ単に仰々しいだけの神々よりは十分な心遣いと親しみを持っていたのである。
 彼女は今こそ学友を作る好機だと意気込んで、早速善積命をもてなした。
 善積命は極めて聡明であった。物事の理解が早く、一度教えれば決して同じ質問をせず、間違いを指摘された時には柔軟に対応して、正しい考え方へと思考を切り替える。新たな知識を得れば得るほど、確実に成長している様が見て取れた。
 唯一欠点があるとすれば、それは聡明過ぎるが故の思い込みが激しいところであった。
 誰よりも先んじて物事を理解するせいか、一度そうだと解した事に関しては、例えそれが誤解であっても己のみで中々気付けないのである。それ故、彼女は学舎で最も優秀な才能を持つ天羅余大御神の力を借りて、その日学んだ事の復習をしようと考えたのだ。
「さすがは大御神じゃ、評判に違わぬ叡智を持っておるな。その上、新参者である妾にこれほど真摯に向き合って、あたかも遠方より来る友を相手にするが如く歓待してくれるとは。他の神がおぬしを模範とするのも頷けよう」
 善積命は天羅余大御神のもてなしを受けてすっかり上機嫌になっていた。
「そんな、我は大した神ではありません」
「よいよい、謙遜なぞするでない」
 天羅余大御神は謙遜して見せたのではなく、慎重に言葉を選んだのである。妙な言い回しをして必要以上に評価されては、学友となる前に一定の距離感が生まれてしまい、他の神同様にこちらを仰ぎ見るようになりかねないと思ったのだ。
「善積命も聡明であられます。我に教えを請いたいと仰る故、勉学で躓いておられるのかと思いきや、ほとんど完璧に近い形で学べており、我がした事と言えば、一つか二つの覚え違いに些細な指摘をした事ぐらいでしょう」
 これを聞いた善積命は豪快に笑った。
「大御神よ、おぬしは口が上手いの、ええ? 折角じゃが、妾に世辞はいらんぞ」
「お世辞ではありません。まさか、御柱(みはしら)のように賢明なる神がこの宮に入られていたとは露とも知らず、こうして我に会いに来て下さった事は幸甚の至りです。ご迷惑でなければ、今後は我も御柱に教えを請いたいものです」
 天羅余大御神は徹底して相手の顔を立てて、二度目三度目と自分との付き合いを持ってもらえるように言葉を尽くした。ただひたすら、親しい学友を欲するが故である。
「おお、それは良い!」
 善積命は身を乗り出す勢いで彼女に迫った。
「実はのう? 妾もおぬしと同じ事を考えておっての。今回ばかりではなく、今後も大御神の助力を賜りたいと思い、暇乞いをする時にでもそれを願い出るつもりじゃった。よもや、妾と同じ事を考えているとは思わなかったぞ」
「な、なれば、また我に会いに来て下さいますか?」
 天羅余大御神は期待の籠もった声色を抑え込むのに必死であった。
「もちろんじゃ! ああ、なんと、今日は吉日であったらしい。かの天羅余大御神にお近づきになれたばかりか、次にまた会う約束を取り付ける事ができるとは、妾と同期で宮に入った皆がこれを知れば、さぞ羨ましがるじゃろうて」
 善積命は誰の目にも明らかに浮かれていた。
 天羅余大御神は平静を装いながらも内心で浮かれていた。
 この日の事を切っ掛けに、二柱(ふたはしら)は共に学び高め合う事を理由に、何度も顔を合わせるようになった。
 最初は勉学に関する事のみに集中して、話題もそれに限り、相手の内面的な部分には探りを入れなかった。天羅余大御神はこれまでに他の神と個神的(こじんてき)な関わりを持った事がなく、相手との距離を縮めるには具体的にどうすれば良いのかを理解していなかったのである。より正確に言えば、彼女と交友関係を持とうとする神がいなかった故に生じた、経験の不足が問題であった。
 季節の挨拶やお愛想は慣れている故すぐに口から出てくる。だが、砕けた言葉遣いとなると急に語彙を失って、形式的な話題以外にどのような話を振れば良いのか思いつかなくなるのである。そんな歯痒い思いをしている内に、いつも最後にはお暇する善積命の後ろ姿を見送る彼女であった。
 そうして八度目の面会を迎えた時、善積命は天羅余大御神に向かって、こう話し出した。
「のう、今宵は満月じゃ。餅搗く白兎を肴に酒を通せば、赤心も池に映る兎の如く跳ねるとは思わぬか?」
 これを「今夜、月見酒を一緒にどうか?」との意だと察した天羅余大御神は、唐突な誘いの言葉に気分の高揚を覚えつつも、それを表に出すまいと気持ちを落ち着ける。
「きっと、よく跳ねる事で御座いましょう」
 かくて、その日の深更に二柱は吟醸酒の入った酒壺と盃を持ち寄って、満月を仰ぐ庭園の縁側に腰を下ろした。しばらくの間は会話もなく、善積命は次々と盃を空にしていたが、天羅余大御神の方は一杯の盃の酒を一寸刻みにして口に含むばかりである。
「大御神よ、もしや、妾はおぬしに迷惑を掛けておるかの?」
 先に沈黙を破ったのは善積命であった。
 彼女がどのような心中からそう聞いてきたのか、天羅余大御神は分からなかった。
「突然、どうなされたのですか?」
「いやな、おぬしが妾の事を煙たがっておるのではないかと思ってな」
 善積命は伏し目がちになりながら盃の酒を一気に呷った。
「妾は勘違いをしておるのやもしれぬと、不安になったのじゃ。あの時、おぬしは妾の来訪を快く受け入れて、お近づきになる事を許してくれたが、それは辞令であって、実は妾の事を好ましく思っていなかったのではなかろうか、と。そう感じるになったのも、おぬしが一向に砕けた雰囲気を見せず、気心の通じる隙を作らぬ故。正直に申せば、今宵の月見酒におぬしを誘ったのは、おぬしの本心を聞きたかったからなのじゃよ。妾は真に受けやすいのじゃ。その上に鈍い事も自覚しておる故、世辞などはいらぬ、本当にいらぬのじゃ。天羅余大御神よ、妾の事を迷惑だと思うておるのならそう申せ。仮に、おぬしの言葉が妾を傷付けたとしても、それを周りに言い触らしたりなどは決してせぬと約束する。じゃから、忌憚なく申せ。のう、どうなのじゃ?」
 天羅余大御神の目を見つめる善積命は不安気ながらも真剣そのものであった。
 天羅余大御神はただただ衝撃を受けていた。不器用な己の言動が彼女にそのような印象と感情を与えていたとは思わなかったのだ。これから親しき学友となるやもしれぬ相手を悲しませるのは彼女の本意ではない。しかし、善積命の不安を払拭するには、彼女の言葉を否定するだけでは足りないと考える。
「我はそなたの事を迷惑だと思っておりません。むしろ、その反対なのです。実は――」
 天羅余大御神は酒の力を借りようと、普段は度が過ぎれば泣き上戸になる故から抑えている一口を、酒壺ごとに飲み干して、その勢いのままに己の苦心を吐き出した。
 未だ一柱の学友すら作れずに悩んでいる事、そんな己を慰めてくれるのは夜毎の吟醸香のみである事、諦めかけていたところへ善積命が現れた事、それからも足繁く会いに来てくれて嬉しかった事、こうして月見酒に誘ってくれた時にも密かに心を弾ませた事など。
 そう話していく内に、彼女は酔いが回ってきてすすり泣き始めた。
「我は、我は、どうすれば善積と仲良くなれるのか、分からなかったのです。我が至らぬばかりに、善積にはいらぬ気苦労を掛けて、誠に申し訳なく思います。誠に、ううっ、誠に……」
 彼女は善積命の着ている装束の袂を手にして、己の涙を拭き始めた。
「ああ、これこれ、それは妾の装束じゃ! 拭い布ではないぞ!」
「ううっ、重ね重ね、誠に申し訳なく」
「なんと、おぬしは酒が飲めるのに弱いのか。道理で、先程からちまちまとしか飲んでおらんかった訳じゃな。これでは妾の酔いも冷めると言うものじゃ」
 善積命は大きく溜息を吐いて、彼女を慰めようとその背中を擦った。
「じゃが、妾は安心したぞ。優秀なおぬしには苦労も悩みもなかろうと思っておったが、それこそが妾の最大の勘違いであったらしい。ところで、かような醜態は他の神にも見せた事はあるのかの?」
「いいえ、ありません」
 天羅余大御神は酔いのせいで頭が回っておらず、その質問の意図も考えずに即答した。
「そうか、ならば妾とおぬしはもう友じゃ。おぬしは酒に弱いところを、妾は心の弱いところを見せた。お互いにまだ他の神にすら見せた事のない一面を、この月見酒を通じて晒し合ったのじゃから、これはもう友となる他に道はあるまいて」
「友に? こんな我でも、友として下さるのですか?」
「じゃから、そう申しておろう」
 この善積命の言葉を最後に、天羅余大御神は彼女の膝上に頭を伏して、意識を失うように眠ってしまった。
「ん? おい、こんなところで寝入っては体に毒じゃぞ?」
 結局、そのまま彼女は目を覚ます事なく、呆れた善積命の手によって寝屋まで運ばれたのであった。その翌日、幸か不幸か記憶の定かであった彼女が善積命の顔をまともに見る事ができなかったのは言うまでもない。
 兎にも角にも、こうして念願の学友を手にした天羅余大御神は善積命との距離を急激に縮めていった。厳密には、彼女の事を気に入ったらしい善積命に懐かれてしまい、学舎の下で何かと絡まれるようになったのである。
「大御神よ! 此方じゃ!」
 宮の大広間を歩いていた時の事、天羅余大御神は遠くの方で己を呼ぶ善積命の姿を認め、呼ばれるままに近寄っていった。
「如何がなさいましたか?」
「気付かぬか? ほれ、儂もついに位が昇格して、新しい装束を頂いたのじゃ。まあ、昇格したと言っても、宮に入って一定の期間が過ぎれば誰でも昇格する位じゃから、偉いものではないがの。それより、どうじゃ、似合っておるか?」
 彼女はその場で袖を広げながら足を弾ませて、丁寧に正面と後ろ姿を見せてくる。
「はい、とても麗しゅう御座います。ああ、いえ、愛らしいとでも表現しましょうか」
「そうか、かたじけない。どうしても、おぬしにこの姿を見せたくての、今日はずっとおぬしの事を探しておったのじゃ。さて、早う戻らねば、あやつめ、今頃待ちくたびれて腹を立てておろう」
 善積命は顔に笑みを湛えながら、去り際に何度も後ろを振り返ってはそこにまだ天羅余大御神のいる事を確認して、飽きもせずに手を振るのであった。いつからか、天羅余大御神の前に限っては、善積命の自称が「妾」から「儂」に変化していた事からも、余程気を許しているのだと見える。
 毎度こんな調子であるから、天羅余大御神も次第に善積命へ愛着心のような感情を抱き始めて、あたかも己の妹ができたかのような心地であった。
 それから彼女は一つの事に気付いた。善積命の言動は無作法と言う訳でもなく、単に遠慮しない素直な心から生じているものに過ぎないのだ、と。それは彼女が「天網神」と呼ばれ、一部の神から一目置かれている事にも窺える。例え、少々礼の欠いた物言いだったとしても、そこに嫌味や含みがない故に少しも不快に感じないのだ。
 それに親近感や信頼感を覚える神もあるほどで、善積命の周りには自然と彼女を慕う神々が集まり始めた。彼女の側には常に他の神の姿がある。酒宴が催される際には必ず招待されているようであった。
 その数多ある交友関係の中の一柱に過ぎないのだと、天羅余大御神はある種の寂しさを感じる一方で、彼女が自称を「儂」とするのは己の前のみであり、加えて勉学や月見酒などの個神的な付き合いに誘ってくれるのも唯一己のみだとも知っており、その事に関しては言い表しようもないほどの喜びを感じていた。
 善積命に対する感情がより特別なものに成り始めたのは、次の出来事が契機である。
 以前に、この八百万ノ神乃宮を出て別の世へ降ったとある天津神(あまつかみ)が数千年振りにお戻りになるとの報せが入り、三日三晩に続く大宴会が開かれる事となった。
 大宴会当日、天羅余大御神は当然の如く列席していた。上位の神々と共に天津神の上座手前に酒席を設けられており、下座の酒席に比べて酒も肴も彩りが豊富であって、そのような待遇を受けるは光栄の極みであった。これも彼女が大御神と敬われるが故である。
 しかし、天羅余大御神の心の内は少しも華やかではなかった。
 それどころか、憂鬱な気持ちで満たされていたのだ。何故なら、如何に名誉ある待遇を受けようとも側に気心の知れた相手がおらねば、万年の美酒も冷水に劣り、珍味たる肴にも一切箸が向かないのである。周りの神が隣席の神と会話を弾ませるその陰で、彼女だけが一柱黙々と酒を口に含んでいた。
 天羅余大御神は退屈のあまり、心の中で「ああ、これがただの酒宴であれば、病と称して欠席もできたであろうに。せめて、善積が側にいてくれれば、この苦痛からは解放されよう」と愚痴を零したのだった。
「おお、大御神よ、ここにおったか」
 天羅余大御神は束の間、善積命を求めるあまりに幻聴を耳にしたと思った。
 だが、己の隣に善積命が腰を下ろして、その肩が体に触れた瞬間、それは幻聴にあらずと悟った。つい今程心の中で呼び求めた彼女が目の前に現れた事に驚きを隠せなかった。
「そなた、何故ここに?」
「おぬしを探しておったに決まっておろう。見目麗しいおぬしを肴にせねば、下座の酒は不味くて飲めたものではないのじゃ。いやしかし、酒席は数万とあり、下座から上座までは遠すぎる故、半日を掛けてもおぬしを見つけられぬと思ったぞ」
 ほっと胸を撫で下ろす善積命とは対照的に、天羅余大御神はやや慌てていた。
「善積命よ、此方は上座に近う御座います。天津神の御目に触れれば、お咎めを受けましょう」
「はて、先程、天津神の勅にて、無礼講との御意思を賜ったと記憶しておるがの? それが証拠に見よ、他の神は儂を見咎めたりなどしておらぬぞ。のう、良いではないか、それほど体面が気になるのであれば、おぬしの膝に儂を載せて、その袂で隠せば良かろう。おぬしの体は大きく、儂は小さいからのう」
「何を仰るのやら、もしや、酔っておいでなのですか?」
「何を申す。儂は酒樽を百樽呷っても酔わぬ酒豪ぞ? 儂は正気じゃ、おぬしと酒が飲みたいだけなのじゃ。のう、他に構わぬのなら、儂に構ってくれぬかの?」
 事実、彼女は酒に滅法強い故、酔っているのかいないのかは判断が難しかった。
 天羅余大御神はすっかり困り果てて、ここで長い間やり取りをしてはいらぬ注目を集めかねないと考えて、こう提案する。
「分かりました。では、我が善積命の席へ参ります故、それでご満足頂けますか?」
「うむ、良い。ちと儂の席までは歩かねばならぬが、それもまた楽しかろう」
 その後、天羅余大御神は善積命の酒席の隣へ移動し、その日のみならず残り二日間の大宴会も彼女の席に留まり続けた。無論、天羅余大御神が下座に現れた事は周りの神を驚かせた。何より、「天網神」たる善積命が己の席に天羅余大御神を連れて来た事によって、その二柱の仲の深さが密かに囁かれるようになったである。
 それについては、天羅余大御神は満更ではなかった。仲が良いのだと周囲に認められる事はすなわち、二柱が親しき学友であると証明される事に他ならず、今まで以上に善積命との距離を縮める機会も増えるだろうと考えたのだ。
 三日三晩の大宴会が明けた次の日になっても、天羅余大御神は善積命の事が頭から離れずにいた。
 連日連夜側にいたからでもあり、また善積命の取った行動がとても愛おしく思われたからでもある。八百万の神が一堂に会したあの大宴会において、本来ならば知己の酒席を探すのも億劫になるところを、彼女は周囲の目も憚らず、酒を共にしたい一心で己の姿を探してくれたのだ。しかも、どうした偶然か、天羅余大御神が彼女を求めている時に姿を現したのである。
 会場の中をうろうろと彷徨っていたであろう善積命の様を思うと、天羅余大御神は堪らなく愛おしく、胸の内が締め付けられるような気持ちになるのであった。
 この一件以降、天羅余大御神は宮の中を歩きながらも善積命の姿をつい探し求めてしまうようになった。そのほとんどが無意識の内による衝動であったものの、時には意識的に、善積命が己の名を呼んで駆け寄ってくるのではないかと期待して、周囲に目を配る事もあった。
 待ち焦がれていた善積命との面会の日が来たると、勉学の事など手に付かず、彼女の一挙一動についつい目が奪われる体たらくである。今まではなんともなかった彼女の言動にも心を動かされるようになり、ともすればその場に彼女を引き留めるために、酒の力を借りて泣き落としを使おうかと考えるほどであった。
 月日が経つにつれて、天羅余大御神はこうした己の感情の変化を自覚して、ある疑問を抱くようになった。はたして善積命に対して感ずるこの愛おしさは慈しみから生じるものであろうか、と。
 ついぞ他の神に執着した事がなかった故、その感情がどのような性質を持ち、心のどこから湧き出づるものなのかを解し難かったのである。解せねばどう向き合うべきかも分からず、己がどういった行動を取るべきかも決断できなかった。このまま半端な心持ちで善積命と接すれば、いつぞやのように彼女を不安な気持ちにさせ、ようやく親しくなった学友を失いかねないのであった。
 天羅余大御神が新たな憂いを抱え始めて間もなく、ある日善積命は彼女の元を訪ねてきた。
「大御神よ、おぬしの意見を聞きたいのじゃが、まずはこれを見てくれぬか?」
 そうして彼女が取り出だすは一つの惑星であった。
「これは一月後に提出する課題なのじゃが、儂は上手くできておるかの? ひとまず、先人の生み出した地球と言う惑星を模倣してみて、今のところ問題はないと思っておるのじゃが、おぬしはどう思う?」
 この時、天羅余大御神は一つ、己の感情をはっきりさせるためにこれを利用して誓約(うけい)を行ってみようと思いついた。彼女は善積命の生み出した地球を受け取って、心に「善積命に向かいて生じる之なる我が愛おしさは慈しみなりや。正しければ我が産み落としたる女の子(めのこ)は男の子(おのこ)を愛す、非ざれば女の子は女の子を愛す」と念じて、その惑星にこっそりと一人の女の子を産み落としたのであった。
「我が見る限り、何一つ問題ないと存じます。今しばらく、様子を見られては如何ですか?」
 彼女はそう言いながら、善積命に地球を返した。
「そうか、おぬしがそう申すのであれば、儂も自信を持てよう!」
 善積命は顔を綻ばせて、彼女の元から去っていた。
 その数日後、彼女は再び天羅余大御神を訪ねてきた。
「大御神よ、大変なのじゃ!」
 彼女はいつになく慌てふためいた様子であった。
「どうなされたのですか?」
「幾日か前に、おぬしに見せた課題があったであろう? あれに少々不具合が生じてな。儂はこの地球に住む全ての人の子は、男の子は女の子を、女の子は男の子を愛すようにと造り出したはずなのじゃ。それが、何をどこで間違えたのやら、なんと女の子を愛す女の子が現れよった! 解せぬ、誠に不可思議な現象じゃ!」
 甚く動揺した所作で取り出だす彼女の地球を、天羅余大御神も覗き込んだ。
 その女の子を愛す女の子とはまさしく、天羅余大御神が誓約を行うために産み落としたあの女の子であった。それを認めた彼女は覚悟を決めたように天を仰いで、一度深呼吸をして、再度善積命に向き直る。
「善積よ、それは我が誓約のために産み落としたる女の子です」
「ん? それはどういう意味じゃ?」
「我は、我が本心を占いました。もし、我が善積に対して抱くこの感情が慈愛ならば男の子を愛す、そうでないのならば、すなわちそれが特別な情愛ならば女の子を愛す。そう念じた女の子を産み落としたのです」
 まだ己の置かれた状況を理解できずに、善積命は首を傾げる。
「ど、どうしたのじゃ? 少し怖いぞ、おぬし」
「我は、我は善積命を愛してしまったのです。その女の子が女の子を愛したように、女神たる我が女神たるそなたを好いてしまったのです。事ここに至っては隠しようもありません。我が想いに行き場を作るためにも、善積の答えを聞かせてはくれませぬか?」
 そう迫る彼女に追い詰められて、いつの間にか善積命は壁際を背に逃げ場を失くしていた。
「そ、そうじゃな、儂もおぬしが好きじゃぞ? 他の神と比べても、おぬしは特別じゃ。だがの、おぬしと同様の位置におるかと問われれば、必ずしもそうとは言い切れぬ。確かにおぬしは見目麗しく好ましゅうて、儂とて幾度となく見惚れる事もあったが、それは……」
「回りくどい言葉はお止めになって下さい。天と地を分かつが如く、明瞭たる答えを賜りたいのです。さあ、お答えを!」
 善積命は窮地に立たされていた。
 彼女の想いを受け入れるにしても受け入れないにしても、事が急過ぎて適切な答えが思い浮かばないのである。拒めば友を悲しませる上に失ってしまうであろうし、受け入れればこの勢いのままにどのような所業を致すかも分からない。正直なところを明かすと、後もう少しの段階と時間を経ていれば、善積命は彼女の想いを受け入れていたかもしれないのであった。
 この場の窮地を脱するべく、彼女はふと先程の天羅余大御神の言葉から糸口を得る。
「で、では、大御神よ。儂とおぬしでもう一度、誓約を行うと言うのはどうじゃ?」
「誓約ですか? 一体どのようになさるおつもりなのですか?」
「これも何かの運命であり、縁であるならば、天意に任せようではないか。『天羅余大御神と善積命は結ばれる運命にあるのか?』として、もしそうであるのならば、この女の子を愛す女の子在る地球が課題として認められて受理される。もしそうでないのならば、不浄な惑星だと課題としては認められず突き返される。どうじゃ、これならば、双方天意に従うまでの事となり、文句もあるまい」
 天羅余大御神はしばらく考え込んだ後、やがてゆっくりと頷いた。
「良い考えだと存じます。では、そのように致しましょう」
 かくて、二柱の運命は一月後の結果に委ねられた。
 善積命はこの誓約が成否の否と出るであろう事を確信していた。
 何故ならば、女の子が女の子を愛す事などありえない現象だからである。これまで学んできた生命創造の歴史を振り返っても、先人の生み出した数々の惑星や生命を見ても、まったく前例がないのだ。そんな不具合のある惑星が課題として認められるはずもないのである。彼女はそう信じて疑わなかった。
 そして、来る一月後の事。
 善積命の提出した課題は認められた。
 これにより、善積命は渋々ながらも誓約の結果を遵守して、天羅余大御神の想いを受け入れた。その後すぐに、彼女は天羅余大御神の要望によって半ば強制的に同じ屋根の下で暮らすように仕向けられて、事あるごとに愛を囁かれるようになった。
 八百万ノ神乃宮のとある神によれば、宮の中を歩いていると時にその二柱を見掛ける事があり、天羅余大御神に迫られて、「嫌じゃ嫌じゃ!」と身を引きながらもどこか幸せそうな善積命を拝む事ができると言う。

                                       了
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登場人物紹介

●天羅余大御神(てらあますおおみかみ)……

 優秀な才能を持つ見目麗しい女神。親しい学友が一柱もいないことが悩み。

 内向的な性格であり、夜ごと吟醸酒を一柱寂しく嗜んでいる。

 一人称は「我(わ)」、口調は「です/ます」。


●善積命(よくつみのみこと)……

 新しく学舎に入ってきた女神、通称「天網神」。

 幼い見た目とは裏腹に、慣例や決まり事に厳しく、物言いが堂々としている。

 一人称は「妾」あるいは「儂」、口調は「~じゃ」。

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