4.昼食

文字数 5,761文字

 僕らは応接間の窓際に座り込んで、コンビニ弁当やペットボトルのお茶を広げた。よく考えたら食堂のテーブルを使う手もあったが、誰もそうした提案をする者はなく、当然のようにみんなしてここに来て座り込んでしまった。
「まず、こっちでわかったことを報告しておくよ」
 サンドイッチを片手に、梶原が言った。
「この館は1912年に、イギリスの貿易商、フィリップ・アダムスという人の家として建てられたものらしい。登記上の名前はアダムス邸で、この時点では鹿翁館なんて呼び方はされていない。アダムス氏は1930年まで日本にいたけど、その後帰国して、ここは空き家になった」
 と、ここで梶原はサンドイッチをかじり、紙パックの牛乳に口を付ける。
「その後、この館がどうなったかという公式記録はない。どうも、戦争が始まってごたごたしている内に存在を忘れられちまったらしいな。ただ、ちょっと面白い記事を学生が見つけてくれたよ。1940年に発行された地元の超ローカル紙に、この山に鹿の霊が現れたという記事が載ってるんだ」
「鹿の霊?」
「ああ。山に芝刈りに来たおっさんが、森の中で自分を呼ぶような声がして、行ってみると霧が出てきて、白くてでかい雄鹿に出会ったらしい。おっさんは山から逃げ出して無事だったそうで、取材を受けた専門家は、それをウェンディゴだと断定したそうな」
 長家が言った。
「ウェンディゴって、カナダの精霊じゃなかった?」
 梶原は頷き、それから補足した。
「クトゥルフ神話にも出てくるよ。カナダやアメリカの先住民に伝わるウェンディゴと、クトゥルフのやつは大きく性格が異なるけどね」
 長家は渋い顔をする。
「クトゥルフというのは? どこの神話なの?」
「そうか。ラヴクラフトを読んだことがないんだっけ? 昔から伝わる神話じゃなくて、『指輪物語』みたいに近現代になって小説が基になって作られたタイプの神話だよ。ラヴクラフトという人の小説が基になって作られたんだ」
「ふーん」
「まあともかく。これが直接この館と関係あるかわからないけど、もしかするとこうした話から、この館が鹿翁館と呼ばれるようになったのかもね」
 僕はなるほどと頷いた。だが、そうしておきながら、何か引っかかるものを感じた。
「それで、そっちの方はどうだった? 床がきれいになったのはわかったけど」
 僕はのり弁を食べながら、書斎での調査結果についてざっと説明した。僕らの調査は、数時間の作業のわりには順調に進んだかもしれないが、肝心の教授の失踪の手掛かりという点では皆無だった。このアプローチで本当に何か発見できるかは怪しくなりつつある。
 しかし、僕の報告を聞いた梶原は、特に失望した様子もなく、熱心に聞いていた。梶原は言った。
「今日の午前だけでも結構な進展があったな。長家の知り合いからの返事によっては、決定的なことがわかるかもな」
 なかなかポジティブな発言である。しかし、このくらい楽観的でないと、歴史研究なんてやってられないとも言える。

 その時、食堂で物音がした。何かが床に落ちたような音。三人は、各々飯を食う手を止めて、お互いの顔を見合う。
 そして、誰ともなく立ち上がり、応接間から食堂へ通じる扉へと向かう。
 座っていた位置の関係から、自然と僕が先頭になり、僕がノブをひねって扉を開ける。
 そして、入り口からざっと見回してみたが、特に何か異常があるようでもなかった。窓は閉まったままだし、テーブルや椅子、燭台なども、前に見たとおりに見える。
 と、僕が入り口の前に突っ立っていて二人の邪魔になっているのに気付き、数歩、食堂内へ入った。二人も中へと入り、周囲を見回す。
 書斎で本でも倒れたのを聞き間違えたのかな? と思い始めたとき、僕はようやく物音の正体に気付いた。僕は暖炉の方を指さして言った。
「ああ、あれか」
 そして、暖炉に近づく。その時には二人とも、原因に気付いたようで、僕に付いてきた。
 暖炉の下には、木製の鹿の仮面が転がっていた。その付近にはよく見ると、錆びて途中で折れた釘と、紐が落ちている。どうやらこの仮面は、釘と紐を使って壁に掛けられていたが、ついに限界を迎えたらしい。
 僕は仮面を手に取り、いろんな角度から鹿の厳めしい面を確認してみた。どうやら落ちた際に割れたり、傷付いたり、といったことはなかったらしい。
「どうする? これ」
 僕が尋ねる。梶原はしばらく唸った後、言った。
「まあ、その辺のテーブルに置いといてくれ」
 僕は言われたとおり、仮面をテーブルに置こうとした。
 と、その時、鹿の目が光ったような気がした。僕は思わず仮面を取り落としてしまった。仮面は再び、床に転がる。
「おいおい。大事に扱ってくれよ。貴重品かどうかはわからんけどさ」
 梶原は努めて冗談めいた声で言った。
 僕は再び、仮面を拾い上げながら弁解する。
「いや、悪い。いやなんというか、鹿の目が光った気がしてさ」
 そう言うと笑われるかと思ったが、意外にも笑い声は全くあがらなかった。代わりに梶原が言った。
「変な錯覚を見ることもあるさ」
 そう言われて、ふと、僕は、さっきのが本当に錯覚だったのか、それとも本当に何かが光ったのかを確かめる必要があるような気がした。それで思い切って、鹿の瞳を直視してみることにする。
 するとやはり、鹿の右目が光った。
「あれ、ちょっと待ってくれよ」
 僕はそう言いながら、二人の間を避けて、窓際の方へと早足で向かった。遅れて二人も付いてくる。
「おいおい、どうした、道村」
 梶原の問いに答えるのも煩わしい。僕は窓際の、日の当たるところに来ると、日光の中に仮面をかざし、鹿の右目を見た。
 鹿の右目にはなにやら、レンズのようなものが嵌まっていた。眼鏡のようなものではなく、カメラや顕微鏡のようなやつだ。
「二人とも、鹿の右目を見てくれ」
 僕はそう言って、二人に見えやすいように鹿の仮面をかざして見せた。二人はそれぞれに驚きの声をあげた。
「なんだこりゃ。仮面の片目になんでこんなものが嵌まってるんだ?」
 梶原は素直に感想を口にした。一方、長家は少し考えるようにして、それから、恐る恐る、といった感じで口を開いた。
「あの、それって、仮面を付けたとき、レンズ越しに何か見える仕組みになって……るんじゃ……」
 言い澱んだ理由はよくわかる。僕だってこのレンズを見た瞬間、それは思いついた。問題は、こんな不気味なものを、誰が付けるか、ということだ。
 三人は鹿の面を見ながら、しばらく沈黙した。
「……中に針が仕込まれていて、頭に刺さって死んだり……しないよな」
 梶原が言う。僕は仮面を裏返して、一応確認しながら、言った。
「あれって確かアステカの遺物じゃなかったか? これはどう見ても日本製だろ。その点は心配ないと思うが……ウェンディゴってのはヤバいのか?」
「人を惑わすだけで実害はないとする説もあるし、ウェンディゴに取り憑かれると人肉を欲するようになるという話もある」
「じゃあ、吸血鬼になるのと大差ないじゃんかさ……うん。見た感じ、レンズ以外に仕掛けらしい仕掛けはない」
「そうか。それは良かったが……どうするかな」
 おそらく三人とも、迷信の類いを信じてはいないはずだった。しかし、この手の歴史的研究には、死者の呪いだのなんだのという話はつきものである。呪いで死んだとされる考古学者は大勢いる。それに、現に三人の恩師はこの館で失踪しているのである。となると、どうしても心情的に、こんな不気味な仮面を付けて大丈夫なのか、ということは、考えずにはいられなかった。
 だが、いくら考えても始まらないのも事実である。
「よし、じゃあ僕が付けよう」
 言ってからすごく後悔したが、もう遅い。二人は心配気にこちらを見ながらも、頷いた。
 梶原が言った。
「わかった。何も無いとは思うが、万一何かあったら、即座に救出する」
「もし吸血鬼になるようだったら……いや、その場合は大丈夫か。すでに日光が当たっているし」
 そう言って僕は笑ったが、笑ったと言うよりは引きつっただけな感じになってしまった。

 僕は一応、吸血鬼対策として日光の良く当たる窓際に、窓側を向いて立つと、深呼吸して、それからゆっくりと仮面を付け……ようとした。
 ……眼鏡が邪魔で付けにくい。
 僕は眼鏡を外して胸ポケットに収めると、再び仮面を付けてみた。
「……どうだ?」
 梶原が問う。……しかし、なんとも答えようがなかった。
 僕は仮面を付けたまま、食堂の中をゆっくりと歩き、周囲を見回してみる。
 黙っていて二人を心配させるのもなんなので、とにかく喋ってみる。
「まず、今のところ何かに取り憑かれたりした感じはないし、仮面が外れなくなったということもない。呪い的な症状はないよ。ただ、特に何もない。レンズ越しの風景は少し拡大されて、若干歪んで見えるけど、それだけだ」
 だが、ふと、暖炉の上の、この仮面が掛かっていた場所を見上げたとき、変化があった。
「おっ」
「どうした?」
「そこの、この仮面が掛かっていたところ」
 僕が指さすと、二人ともそちらを見る。
「そこに、レンズ越しだと何か見える。白い線で仮面のあたりを囲っている」
「ほう。それで? 他には何か見えるか?」
「えーと……」
 僕はもっと近づいてみた。すると、白線の囲いの中に、何か文字が見えた。
「何か書かれているよ。えー、V、I、E、J、O……C、I……」
「Viejo Ciervo。老いた鹿って意味」
 長家が言った。
「ちょっ、ちょっと待てよ。じゃあ、その仮面を使って館内を見て回ったら……」
 興奮気味に梶原が言い出したその時、やけに古めかしい、ベルの呼び出し音が食堂に響き渡った。
「あっ、例の専門家からだよ」
 長家はそう言ってスマホを取り出し、通話を始める。さすがにあっちに住んでいるだけあって、流暢な英語だった。
「隣に行こう」
 梶原は小声で言い、僕は頷いた。そして、二人でそっと応接間に戻った。

 応接間に戻ると、僕たちは昼飯の残りに手を付けるのも時間が惜しいとばかりに、立ったまま今後の相談を始めた。
「さっきも言いかけたけど、とりあえずその仮面を付けて、館中を一度確認した方がいいと思う。他にも何かメッセージなりがあるんじゃないか?」
 梶原の提案に、僕は頷いた。
「もちろんそうすべきだと思う。ただ、ひとつ問題がある」
「なんだ?」
 僕は、胸ポケットから眼鏡を取り出して、かけ直した。
「これだよ。眼鏡を掛けたまま仮面を付けるわけにはいかないし、裸眼で仮面を掛けると見えにくい。さっきの文字も、僕が近視かつ乱視じゃなかったら、もっと遠くからでも読めたはずなんだ。だから……」
「わかった。仮面は俺がつけるよ」
「いや、本人が嫌がらなければだが、長家さんがつけた方がいいと思う」
「なぜ?」
「さっきのでわかったろ? 仮面越しに見えるメッセージはスペイン語で書かれていたっぽいじゃないか。僕らには読めないじゃん」
「なるほど。じゃあ、一応掛け合ってみよう。もちろん嫌がるようだったら……」
「ああ、無理強いはしないさ」
 僕はそう言ったが、たぶん長家は何の躊躇もなく仮面を付けるだろうとも思っていた。

 ほどなくして、長家も応接間に戻ってきた。長家は入ってくるなり、言った。
「まだあのメモの内容が完全に解明されたわけじゃないけど、わかったことはいくつかあったよ」
 そう言いながら、長家はスマホの画面を見せた。例のメモを撮った画像が表示されている。数字がびっしり書かれているやつだ。
「暗号の専門家にこれらのメモを見せて意見を求めたんだけど、これは暗号ではなく、数秘術の一種なんだってさ。ゲマトリアを用いて、六芒星数について計算しているらしい。数秘術とかゲマトリアとかの説明は必要?」
 僕と梶原は首を横に振った。数秘術は、文字を数字に置き換えて、数字に何らかの意味を付加しようとする試みの一種で、占いや、聖書の解読でよく使われる。666が悪魔の数字とか言われたりするのがこれ。ゲマトリアはヘブライ文字による数字の表記法で、ゲマトリアを用いた数秘術は聖書解読の定番である。要するにオカルトの極みと言える。
「細かい話は省くとして、このメモで何を計算しているかというと、六芒星のそれぞれの頂点に対応させる数字を決めようとしているんだってさ。6つの数字を合計するだかなんだかしたときに、888になる数字の組み合わせを作りたがっているとか。888というのはイエス・キリストを指す数字だとされるけど、復活を意味する数字でもあって、おそらくこの筆者は重い病気か何かで、数秘術を用いて永遠の命か何かを求めようとしたんじゃないか、とのこと」
「しかし、そうだとしたら、この館にもっとオカルティックな雰囲気があるべきじゃないかと思うんだけどな」
 梶原が納得のいかない表情で言った。
「それは私も思うけど、その点は鹿の仮面が教えてくれるかもね」
 長家は、僕の手にある鹿の仮面を見た。
「あ、そうそう。この仮面なんだけど……」
 僕が言いかけると、長家は手を差し出していった。
「私が付けろってことでしょ。いいよ」
「いいの?」
 僕は、仮面を差し出しながらも、念のため訊いた。長家はそれを受け取って、表、裏とひっくり返して眺めながら、言った。
「まあ、私が付けるのが一番手っ取り早そうだしね。ただ、吸血鬼になりそうだったらさっさと退治してね」
 吸血鬼のくだりはもちろん冗談だろうが、あまりに普通に言ったので、本気なんじゃないかと心配になってしまいそうになる。
 仮面を調べ終えると、長家は仮面を付け、辺りを見回した。しばらくそうやってきょろきょろしていたが、やがて、仮面を外して、言った。
「ここには何も無いね。やっぱり書斎が一番怪しいと思うから、とりあえず、それを片付けたら行ってみようか」
 長家が目線で指したのは、食べかけの昼食だった。
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