第5話
文字数 3,819文字
アグリィは暖かなベッドの中で目を覚ました。まだ目が覚め切っていない頭で、ここはどこだろうと考えた。部屋の中を見回すと簡素な机と空っぽの物置棚が見える。
(そうだ、ここは……)
私の部屋だ。アグリィは呟いた。アグリィがオースティンズに拾われてから数日が経った。いまだにアグリィはその実感を持てずにいる。
オースティンズの弟子になってから数日。その間、仕事を与えられるでもなく、魔法を学ぶこともなかったアグリィは困り切っていた。
オースティンズはまずアグリィの部屋を作らなければと動き回った。物置になっていた部屋を開け、掃除をして家具を置いた。近隣の村に薬を届けにいくついでに古くなった机や棚をもらってきたり、アグリィの分の食器を用意したりと忙しく動いていた。
アグリィがその間したことと言えば、オースティンズの後をついて回って部屋に置く家具の好みを尋ねられただけだ。それだって今までの人生で自分の物を持った経験がないアグリィには答えようの無い質問だった。
アグリィは衣装棚から服を取り出してもそもそと着替え始めた。この服だって近くの村からオースティンズが調達してきた物だ。もちろん農村に新品の服があるわけもなく、着古された古着だが、アグリィが元々着ていたボロ布とは比べ物にならない。何せちゃんと服の体裁が整っているし、ボロ過ぎてどこかに引っ掛けて真っ二つに裂けてしまう心配をしなくていい。
体だって火蜥蜴 が沸かしてくれる湯で毎日拭いている。おかげで泥と垢で隠れていたアグリィの本来の肌が見えるようになってきていた。こびり着いた汚れの落ちたアグリィは更に一回り小さくなったようで、着替えた服もぶかぶかと袖が余っていた。
「おはよう。アグリィ」
「……」
リビングに行くとオースティンズが既に起きて朝食の準備をしていた。朝であっても整えられた白髪混じりの髪、猫のような青い瞳。今は料理中だからか、かけている茶色のエプロンがよく似合っていた。
ふとアグリィは、オースティンズがじっと自分を見つめていることに気がついた。何かいけないことをしてしまったのか、焦りながら自分の行動を思い返して気がついた。
「あの……おはよう、ございます」
「うん」
アグリィの挨拶に納得したように頷いて料理に戻るオースティンズ。
おはようございます。朝の挨拶。アグリィがこの家に来てから教えられた習慣だった。言葉自体は以前から知っていたけれど、アグリィに挨拶をする人間は前の屋敷にはいなかった。
アグリィが鍋を覗き込むオースティンズの後ろ姿を所在なさげに眺めていると、かまどの火から散った火花があっという間に大きくなり、トカゲの姿になった。ここ数日、アグリィが火の側に来ると決まって現れる火蜥蜴だ。
彼は(彼女は?)鼻先をアグリィに擦り付けて火蜥蜴流の挨拶を済ませると、服の端を咥えてテーブルの方へと引っ張った。そうしないとアグリィがいつまでも立ち尽くしていることを知っていたからだ。火蜥蜴に促されるままアグリィは椅子に座った。
「さあ出来たぞ。頂こう」
オースティンズが麦粥 の入った皿を持ってくる。テーブルにはミルクの入ったコップも置かれていた。朝から暖かい食事が食べられるのは、魔法で簡単に火を起こせる魔法使いならではの贅沢なのだそうだ。
確かに、種火から火を起こして料理をするのはかなり手間がかかる。前の屋敷の料理人たちがぼやいていたことをアグリィは思い出した。
オースティンズは手を組んで食前の祈りを捧げ始める。アグリィは構わず木のスプーンを手に取った。自分のことは気にせず先に食べて良いとオースティンズに言われたのは昨日のことだった。
湯気の立つポリッジを頬張る。鍋からよそわれたばかりのポリッジは熱く、ほふほふと熱気を逃がしながら飲み込んだ。寝起きの冷えた体に熱が宿った気がした。
コップに入ったミルクを飲む。濃厚な味のミルクは、村に出向いて貰ってきた時にしか飲めないらしい。アグリィがこの家に来てから初めて飲んだが、美味しくてついごくごくと飲み干してしまった。
「あ……」
空になったコップを見て、おかわりが入っている瓶を見た。瓶にはまだ一杯分のミルクが残っていたが、アグリィはそれに手をつけていいのか分からなかった。
「ほら」
悩んでいるアグリィを見かねて、オースティンズがミルクをコップに注いだ。差し出されたコップを受け取り、アグリィは小さく頷く。ありがとうの意味だった。
それが伝わったのか伝わらなかったのか、オースティンズは苦笑しながら口元を指して言った。
「飲み終わったら拭きなさい。私のようになっている」
アグリィの口の周りには白いミルクがついて、髭のようになっていた。アグリィは口元を拭って俯いた。数日前から繰り返されている、朝の何でもない食事のひと時だった。
皿もコップも空になり、アグリィはほうと息を吐いた。満腹を感じるなんて前の生活では考えられないことだった。
けれど、だからこそアグリィは不安になってしまう。こんな美味しいご飯を自分なんかが食べていいのか、清潔な服を着ていいのか、自分はまだ何の役にも立っていないのに、と。
「さて、食事が終わったところで今日の話をしよう」
いつの間にか膝に乗ってきていた火蜥蜴を撫でていると、オースティンズが話し始めた。
「部屋の準備も出来たことだし、今日から魔法の勉強に入ろうと思う」
「……! はい」
オースティンズの言葉はアグリィが待ち望んだ物だった。元々そのために自分は引き取られたのだから。
「魔法使いには覚えることが沢山ある。様々な材料を使った水薬の作り方。悪霊や魔物から身を守る方法。触媒を利用した呪 い。精霊や悪魔の力を借りた魔法。もちろん、それらを一度に覚えろとは言わない。一つずつ時間をかけて手ほどきをしていくことになる。……だが最初にひとつ、覚えて欲しいことがある」
オースティンズはそこで言葉を切った。まさしくこれから言うことが重要だと強調するように。
「まず覚えておいて欲しいことは、魔法は自分の幸せのために使わなければならないということだ」
アグリィは首を傾げた。素直に何を言われたのか分からなかったからだ。
オースティンズは猫のような瞳をきらりと光らせて続けた。
「魔法を覚えて自分が楽しいと思える研究に没頭するも良し。自分の生活を便利にするも良し。他人に奉仕することに喜びを覚えるなら、人の為になる魔法の使い方を探るのも良い。けれど、他者に乞われるまま魔法を使ってはいけない。自分の幸せに繋がらないのに魔法を使ってはいけない」
オースティンズは昔を思い返すように語った。おそらく彼自身が魔法を学ぶ時に伝えられた言葉なのだろう。その語り口は淀みがなく、自分の中にはっきりと刻み込まれた教えなのだと分かった。
「納得いかない顔をしているな」
「っ、すみま、せん」
「良いとも。疑問を覚えることは魔法使いとして重要な資質だ。今後も疑問を持った時は質問をしなさい」
心中を覗かれたアグリィとしては、その言葉に肩を竦めて小さくなるしかなかった。重要そうに話すのだから、魔法の秘儀だとか、弟子にしか伝えられない凄い秘密かと思ったのだ。
「魔法とは感情の術だ。理性と知識によって手綱を握るが、その本質は酷く揺らぎやすい」
「……?」
「魔法使いの間に広く伝えられる話がある。昔、家族を奪われた魔法使いがいた。彼は自身の持つ魔法の知識と悪魔の力を借りて家族を奪った者を殺した。けれど彼の復讐心はそれで満足しなかった。彼の復讐の矛先は、標的だった者の家族になった。家族を殺した後は親戚に。その後は止まらなかった。殺すたびに次の復讐相手を探し、もっと多くの人を殺し、魔法使いの領分を超えた力を求めた」
「どう、なったの……?」
「ついに見境なく被害を振りまき始めた彼を、何人もの魔法使いや魔女が力を合わせて滅ぼした。彼は一人きりだったにもかかわらず、偉大な魔法使い達が何人も死んだ。それ以来、彼は魔王と呼ばれ、畏れと教訓を持って伝えられている。魔法の使い方を間違えた者として」
「……怖い」
「そうだな。怖く、悲しい話だ。ただの魔法使いだった彼が魔王になってしまったのは、復讐に取り憑かれてしまったからだ。その先に彼の幸せはなかった。だからこそ彼は止まらずに進めてしまったのだ。幸せというのはな、手に入れた物を引き留める重石になるのだ」
行き過ぎた魔法の力がいけないことはアグリィにも分かった。けれどアグリィにはオースティンズの言う自分の幸せが分からなかっていなかった。
「今は分からなくても良い。けれど忘れないように覚えていて欲しい。きっといつか分かる日が来る」
「……はい」
「さて、説教臭くなってしまったな。魔法を教えていく話だったのに」
オースティンズはどっこいせと腰を上げた。そして部屋の端から持ってきた物をテーブルの上に置いた。
「これは……?」
「糸車だ」
それは滑車とハンドルのついた糸車だった。
「君に最初にやってもらうことは、糸作りだ」
オースティンズは穏やかに微笑んだ。
(そうだ、ここは……)
私の部屋だ。アグリィは呟いた。アグリィがオースティンズに拾われてから数日が経った。いまだにアグリィはその実感を持てずにいる。
オースティンズの弟子になってから数日。その間、仕事を与えられるでもなく、魔法を学ぶこともなかったアグリィは困り切っていた。
オースティンズはまずアグリィの部屋を作らなければと動き回った。物置になっていた部屋を開け、掃除をして家具を置いた。近隣の村に薬を届けにいくついでに古くなった机や棚をもらってきたり、アグリィの分の食器を用意したりと忙しく動いていた。
アグリィがその間したことと言えば、オースティンズの後をついて回って部屋に置く家具の好みを尋ねられただけだ。それだって今までの人生で自分の物を持った経験がないアグリィには答えようの無い質問だった。
アグリィは衣装棚から服を取り出してもそもそと着替え始めた。この服だって近くの村からオースティンズが調達してきた物だ。もちろん農村に新品の服があるわけもなく、着古された古着だが、アグリィが元々着ていたボロ布とは比べ物にならない。何せちゃんと服の体裁が整っているし、ボロ過ぎてどこかに引っ掛けて真っ二つに裂けてしまう心配をしなくていい。
体だって
「おはよう。アグリィ」
「……」
リビングに行くとオースティンズが既に起きて朝食の準備をしていた。朝であっても整えられた白髪混じりの髪、猫のような青い瞳。今は料理中だからか、かけている茶色のエプロンがよく似合っていた。
ふとアグリィは、オースティンズがじっと自分を見つめていることに気がついた。何かいけないことをしてしまったのか、焦りながら自分の行動を思い返して気がついた。
「あの……おはよう、ございます」
「うん」
アグリィの挨拶に納得したように頷いて料理に戻るオースティンズ。
おはようございます。朝の挨拶。アグリィがこの家に来てから教えられた習慣だった。言葉自体は以前から知っていたけれど、アグリィに挨拶をする人間は前の屋敷にはいなかった。
アグリィが鍋を覗き込むオースティンズの後ろ姿を所在なさげに眺めていると、かまどの火から散った火花があっという間に大きくなり、トカゲの姿になった。ここ数日、アグリィが火の側に来ると決まって現れる火蜥蜴だ。
彼は(彼女は?)鼻先をアグリィに擦り付けて火蜥蜴流の挨拶を済ませると、服の端を咥えてテーブルの方へと引っ張った。そうしないとアグリィがいつまでも立ち尽くしていることを知っていたからだ。火蜥蜴に促されるままアグリィは椅子に座った。
「さあ出来たぞ。頂こう」
オースティンズが
確かに、種火から火を起こして料理をするのはかなり手間がかかる。前の屋敷の料理人たちがぼやいていたことをアグリィは思い出した。
オースティンズは手を組んで食前の祈りを捧げ始める。アグリィは構わず木のスプーンを手に取った。自分のことは気にせず先に食べて良いとオースティンズに言われたのは昨日のことだった。
湯気の立つポリッジを頬張る。鍋からよそわれたばかりのポリッジは熱く、ほふほふと熱気を逃がしながら飲み込んだ。寝起きの冷えた体に熱が宿った気がした。
コップに入ったミルクを飲む。濃厚な味のミルクは、村に出向いて貰ってきた時にしか飲めないらしい。アグリィがこの家に来てから初めて飲んだが、美味しくてついごくごくと飲み干してしまった。
「あ……」
空になったコップを見て、おかわりが入っている瓶を見た。瓶にはまだ一杯分のミルクが残っていたが、アグリィはそれに手をつけていいのか分からなかった。
「ほら」
悩んでいるアグリィを見かねて、オースティンズがミルクをコップに注いだ。差し出されたコップを受け取り、アグリィは小さく頷く。ありがとうの意味だった。
それが伝わったのか伝わらなかったのか、オースティンズは苦笑しながら口元を指して言った。
「飲み終わったら拭きなさい。私のようになっている」
アグリィの口の周りには白いミルクがついて、髭のようになっていた。アグリィは口元を拭って俯いた。数日前から繰り返されている、朝の何でもない食事のひと時だった。
皿もコップも空になり、アグリィはほうと息を吐いた。満腹を感じるなんて前の生活では考えられないことだった。
けれど、だからこそアグリィは不安になってしまう。こんな美味しいご飯を自分なんかが食べていいのか、清潔な服を着ていいのか、自分はまだ何の役にも立っていないのに、と。
「さて、食事が終わったところで今日の話をしよう」
いつの間にか膝に乗ってきていた火蜥蜴を撫でていると、オースティンズが話し始めた。
「部屋の準備も出来たことだし、今日から魔法の勉強に入ろうと思う」
「……! はい」
オースティンズの言葉はアグリィが待ち望んだ物だった。元々そのために自分は引き取られたのだから。
「魔法使いには覚えることが沢山ある。様々な材料を使った水薬の作り方。悪霊や魔物から身を守る方法。触媒を利用した
オースティンズはそこで言葉を切った。まさしくこれから言うことが重要だと強調するように。
「まず覚えておいて欲しいことは、魔法は自分の幸せのために使わなければならないということだ」
アグリィは首を傾げた。素直に何を言われたのか分からなかったからだ。
オースティンズは猫のような瞳をきらりと光らせて続けた。
「魔法を覚えて自分が楽しいと思える研究に没頭するも良し。自分の生活を便利にするも良し。他人に奉仕することに喜びを覚えるなら、人の為になる魔法の使い方を探るのも良い。けれど、他者に乞われるまま魔法を使ってはいけない。自分の幸せに繋がらないのに魔法を使ってはいけない」
オースティンズは昔を思い返すように語った。おそらく彼自身が魔法を学ぶ時に伝えられた言葉なのだろう。その語り口は淀みがなく、自分の中にはっきりと刻み込まれた教えなのだと分かった。
「納得いかない顔をしているな」
「っ、すみま、せん」
「良いとも。疑問を覚えることは魔法使いとして重要な資質だ。今後も疑問を持った時は質問をしなさい」
心中を覗かれたアグリィとしては、その言葉に肩を竦めて小さくなるしかなかった。重要そうに話すのだから、魔法の秘儀だとか、弟子にしか伝えられない凄い秘密かと思ったのだ。
「魔法とは感情の術だ。理性と知識によって手綱を握るが、その本質は酷く揺らぎやすい」
「……?」
「魔法使いの間に広く伝えられる話がある。昔、家族を奪われた魔法使いがいた。彼は自身の持つ魔法の知識と悪魔の力を借りて家族を奪った者を殺した。けれど彼の復讐心はそれで満足しなかった。彼の復讐の矛先は、標的だった者の家族になった。家族を殺した後は親戚に。その後は止まらなかった。殺すたびに次の復讐相手を探し、もっと多くの人を殺し、魔法使いの領分を超えた力を求めた」
「どう、なったの……?」
「ついに見境なく被害を振りまき始めた彼を、何人もの魔法使いや魔女が力を合わせて滅ぼした。彼は一人きりだったにもかかわらず、偉大な魔法使い達が何人も死んだ。それ以来、彼は魔王と呼ばれ、畏れと教訓を持って伝えられている。魔法の使い方を間違えた者として」
「……怖い」
「そうだな。怖く、悲しい話だ。ただの魔法使いだった彼が魔王になってしまったのは、復讐に取り憑かれてしまったからだ。その先に彼の幸せはなかった。だからこそ彼は止まらずに進めてしまったのだ。幸せというのはな、手に入れた物を引き留める重石になるのだ」
行き過ぎた魔法の力がいけないことはアグリィにも分かった。けれどアグリィにはオースティンズの言う自分の幸せが分からなかっていなかった。
「今は分からなくても良い。けれど忘れないように覚えていて欲しい。きっといつか分かる日が来る」
「……はい」
「さて、説教臭くなってしまったな。魔法を教えていく話だったのに」
オースティンズはどっこいせと腰を上げた。そして部屋の端から持ってきた物をテーブルの上に置いた。
「これは……?」
「糸車だ」
それは滑車とハンドルのついた糸車だった。
「君に最初にやってもらうことは、糸作りだ」
オースティンズは穏やかに微笑んだ。