おとぎ話的教訓と彼女の「スプーン」

文字数 2,525文字

何者かに操られるように、ミチカがホットミルクを暴力的にかき回したことによって、マグカップからミルクが竜巻のように渦を巻いて噴き上がった。ミチカの見ていた世界が一瞬にして真っ白になるほどの衝撃だった。

 ミチカは驚き、後ろに仰け反るように倒れた。それによって間一髪でホットミルクの竜巻[Hotmilk・Tornado]のファーストインパクトから逃れることができた。すると竜巻は突然進路を変えおばあさんに体当たりした。
「うわあぁぁああぁ! あ、熱っ! 熱いっ!」
 逃げ回るおばあさんを意思をもったように追いかけるホットミルクの竜巻。おばあさんは草原の果てまで走って逃げ、竜巻はどこまでもおばあさんを追いかけていった。

 そんな話だった。




 夢の話なので尻切れとんぼな終わり方だったが、どこかおとぎ話的な内容で、おとぎ話的教訓があるように僕には思えた。

 おばあさんは彼女を騙そうとしていて、それを彼女のお母さんが守ってくれたということなんじゃないだろうか。そのことを彼女に伝えたかったが、小学生になるまえの歳の子が死について、それも親の死を、どのように理解しているのかがわからなかった。僕の両親は健在で、幸いなことに幼い頃にそういう辛い目に遭ったことはなかった。彼女よりずいぶん経験不足だった。

 僕は空を見上げてみる。雲が多い空だった。雲の隙間に薄く遠慮気味な青い空が見えた。空を見るために雲の奥を覗きこんでいると雲と視線があった。ばつが悪かった。そこから僕は雲しか見えなくなった。
 せめて彼女に、「お母さんは空から見守ってくれてるよ」ぐらいのことを言ってあげたいのに、その言葉が正解じゃないようにも思えた。白い雲が次第に灰色になり、みるみるうちに黒色に近づいていった。

 「おまえにも会いたい人がいるんじゃないかい?」おばあさんが言った。僕に言った。
 おばあさんにそう言われ、すぐに頭に浮かんだのは2年前に別れたカオルの顔だった。僕は咄嗟に「死んでなんかいません!」と叫んだ。カオルは今も東京で元気にやっている…はずだ。

「かまうもんか!」
 おばあさんも負けじと大きな声で返してきた。腹を立てたというわけではなく、むしろ挑戦的に面白がっているようだった。実際に「ふおっふぉっ」と笑ってもいた。
「生きてようと死んでようとかまうもんか」ふぉっふぉっ。
 その手に銀のスプーンを握りしめて、白く丸い骨壷のような陶器から顆粒状の粉を山盛りに掬った。「会わせてやるよ」とおばあさんは肩を上下に揺らしていた。会わせるも何も、これは僕の話じゃないんだ。これは彼女の夢の中の話なんだ。僕がこの典型的な魔女風の、怪しげなおばあさんに直接話しかけられるはずがない。頭はひどく混乱していたが、自分は騙されないという自信があった。騙されてはいけないと思った。

 この夢の主である彼女が唯一の味方だった。だが彼女の姿が見当たらない。もうすでに、この世界に彼女はいなかった。存在そのものが消えてしまったように思えた。彼女の夢の中に僕は置き去りにされたのか。不安に押しつぶされそうだった。いつの間にか僕は、ところどころキラキラと輝く顆粒状の粉を入れたホットミルクをスプーンでかき混ぜていた。

「おまえほどの体格なら三杯は必要じゃろう」とおばあさんが言った。「さっきの小さな子なら一杯でも多すぎるぐらいじゃがね」ふぉっふぉっ。
 おばあさんが二杯三杯と粉を足した。僕は条件反射的にそれを受け入れ、すぐにスプーンでかき回し粉をミルクに溶かした。暗示にでもかけられてるのだろうか。おばあさんの思いのままに操られていた。それでもかろうじて危険な状況だと察知していたし置かれた立場も理解できていた。つもりだった。そこで僕は彼女に倣って、スプーンで竜巻を起こしてやろうかと考えた。しかし、僕の右手はスプーンの重みをスプーンの重み以上に感じ始めていた。

 僕の右手を、スプーンがマグカップの底に引きずりこむ。一瞬そんな幻覚を見た。僕は力いっぱい目をつむり頭を左右に振ってから、鉄の塊のように重みのあるスプーンを持つ右手に力をこめて再びかき回した。だけど、マグカップの表面に一周の円を描くことさえできず、手前から時計回りに1時のあたりで右手が止まった。午前だろうか午後だろうか。どちらでもいい。マグカップの中の時計が1時を指した瞬間、鳩時計が「ポッポー」と鳴くように、彼女の「スっプーン」と言う声がした。
 そうか…。それはカオルの口癖だった。僕は彼女に救われたんだ。

 そんな話だった。



 僕らの親世代は、自分が自分であるために勝ちつづけていかなければならないと、しゃがれ声で唄う男をカリスマとして崇めている人が多い。事実、僕の父もしゃがれ声を真似てカラオケでよく歌ってたっけ。
 僕の彼女、いや、元彼女のカオルは女性にしては珍しくそのカリスマのファンだった。それも母の影響だと言って笑ってたっけ。聴かされたのは僕とおなじく父からだったけど。カオルの父は、自分が好きでもないカリスマの歌をずっと聴きつづけ、唄いつづけたのだ。愛する妻を思いながら、そうやって我が子に受け継いだのだ。

 おかげでカオルは僕に勝つことの意義を説いてくれた。そのほとんどがカリスマの受け売りであり、父を経由して母から継承されたものだった。僕が何かに負けそうなとき、くじけそうなときにも、彼女はいつも言葉をかけてくれた。カオルの言葉に僕はいつも救われていたんだ。それが丸々受け売りだったとしても、ひとさじ分くらいはカオルの言葉だった。

 相変わらずだね。君も、僕も。



 勝ちつづけられるように強くなれば、僕は君を忘れられるだろうか。
 自分のことも守れず、夢の中の君を守ることもできず。反対に君に守ってもらったりもしてる、こんな僕にそんな大仕事をやってのけることができるだろうか。それにまだ、ホットミルク・トルネードと決着がついていないんだ。次はどうせ一人で闘わなくちゃいけないんだろう。

 ここにはいない君に答えを求めるように、僕は空を見上げてみる。
 はるか上空。白い雲に隠れるようにして「オレに聞くなよ」と青い空が困ってた。

 僕は久しぶりに未来を欲しがった。



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