4.新たな門出

文字数 1,960文字

 一睡もしていない茜を見て、春さんは、一瞬「あら?」という顔をしたが、それ以上、何も尋ねなかった。春さんとの朝食を終えてから、茜は、「春さん、お願いがあるのですけど」と切り出した。
 春さんの了承を得た茜は、6ヶ月の休養を要すとの診断書を発行した精神科医に翌日午前中の予約を入れた。機構の産業医と上司に、翌日午後の時間をあけてもらった。

 翌日の午後、茜は、機構本部内の小さな会議室の小さなテーブルをはさんで、上司、産業医と相対していた。
「精神科医は、M1989は機構の官舎より『くすのきの里』で療養する方がベターという意見なわけだ」上司が精神科医・スリナリ先生の診断書を見ながら、面白くなさそうに言った。機構内では、茜は愛称の「茜」ではなく機構登録番号のM1989で呼ばれる。
「それで、トライム先生のご意見は?」と、上司が診断書を産業医のトライム医師に投げた。トライム産業医は、穏やかだがキッパリした口調で「私も、スリナリ先生のご意見に賛成です。官舎で同僚とひんぱんに出くわすのは、M1989の療養にとってマイナスです」

「しかし、6ヶ月間も向こうにいる必要がありますか?」上司が眉根にしわを寄せる。
「業務起因性のウツには、まず3ヶ月の休職で対応します。3ヶ月経っても改善が見られない場合、さらに3ヶ月、休職を延ばします。M1989の場合は、スリナリ先生が初めから6ヶ月の休業を指定しています。彼女の症状が非常に重いからです」そこで、トライム先生は、茜の顔をちらっと見てから、思い定めたように「私は、彼女は、復職までに1年以上かかる可能性すらあると見ています」と言い切った。

 上司が、「はぁ」と小さくため息をつき、「わかりました」とあきらめ顔で言った。「毎月、トライム先生にM1989の回復度をチェックしていただき、復職可能と判断されたら、6ヶ月未満でもただちに復職させる。そういう条件付きで、『くすのきの里』での療養を認めましょう」
「それから、M1989」と、上司が茜に厳しい視線を向けてきた。「『くすのきの里』は、将来ある子供たちを養育する場だ。間違っても、君の敗北と脱落を子供たちに伝えるんじゃないぞ」

「はい、わかっています」茜は神妙に答えた。茜に、子どもたちに自分の経験を伝えるつもりは、全く、ない。子どもたちの人生は、子どもたちが生きるもので、茜が生きたものとは違うものになるはずだから。

 その日の夕方、茜は、西の空からほとんど水平に射してくる冬の夕陽に照らされて、「くすのき山駅」から「くすのきの里」に続く石畳の道を登っていた。

 スロ太に「お迎え」が来た夜、茜は、この世界での人間の死、この世界での茜たちクローン人間の死、そして、地球の人間たちの死について、考え続けた。
 さんざん考えたあげく、茜は、「死んだ経験がないのだから、確かに認識できるのは、今こうして、生きているという事実しかない」という一点にたどり着いた。確実に死に向かって進んでいるとしても、今、この瞬間、私は生きている。

 私には、「死ぬとは、どういうことか?」を突きとめることはできない。私に明らかにできることがあるとしたら、それは「生きているとは、どういうことか?」だけだ。

 茜は、日本昔話を演じるための遺伝子改造クローンとして生み出された。だから、日本昔話を演じる以外に自分の存在価値はないと、思っていた。
 しかし、それは、茜が生きている価値は、日本が消滅するのを防ぐ道具として機能することだけにある――そう考えるのと、同じではないだろうか?
 その考えは、本当に正しいのだろうか? 「私が生きていること=クローン・キャストとして機能すること」ではないのではないか? だから、クローン・キャストであり続けることが私が生きていることを食いつぶして、私を病に追い込んだ。それが真実ではないだろうか?
 
 あの夜、「死ぬこと」から「生きること」に考えを移した茜の腹の底から、「生きているとはどういうことかを知りたい」という強い一念が突き上げてきた。
 6ヶ月間クローン・キャストの仕事を離れている間に、「自分が生きていること」が何であるかを見つける。そのための居場所を「くすのきの里」にする。眠れぬ夜が白々と明けだす時、茜は、そう決心したのだ。

 茜は、「くすのきの里」の門にたどり着いた。私は、20年前に後にした「くすのきの里」に、今、戻ろうとしている。それを、過去への逆行ではなく、「新たな門出」にする。黄金色の夕陽を頬に受けて「くすのきの里」の門に立った茜は、自らに、そう誓っていた。

                                           おわり
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