第1話
文字数 1,939文字
ぶすっとした顔をして座っている青年がこちらに寄越している視線はじっとりと暗い。
小ざっぱりとした服装。定期的に床屋で整えてもらっている髪。
前も後ろもわからないくらい長く伸びた前髪に隠された目と鼻から、滝のように涙と鼻水を流して、引きこもっていた部屋から出てきたというあの日が幻のようだ。
目を合わせて話すこともできるようになったのだな。
場違いな感慨にふけってしまうほど、彼との会話は平行線のまま交わる気配がない。
「僕がフラれたのは仕方ないけど、恋人がいるなんて不誠実です。彼女は僕以外にもたくさんの人から好かれてるのに、その気持ちを踏みにじってるんですよ?」
早口で畳みかけるようにしゃべる彼が言う”彼女”とは、ここ青少年支援センターのボランティアスタッフだ。
「でも僕の考え方は間違ってるって言われたんです。ストーカーっぽいって」
不満げに面談を申し込んできた彼を前に、半年前にあった研修を思い出していた。
「ブランド物の、真っ白ですってきなエプロンがあります」
まるでモデルなのかと思うほど立ち姿がカッコイイ女性精神科医が、指をひらひらさせながらフリルを表現している。
「でも残念ながら、ちっちゃなシミがあります」
すらりとした人差し指が、自身の胸の辺りを示した。
「このお母さんは、おしゃれなエプロンの小さなシミを恥じて、隠そうと躍起になっている人と同じ気持ちでいるんです」
女医が示したホワイトボードには、タワーマンション高層階で高収入の夫と2歳の子どもと暮らす、専業主婦である母親の虐待事例が板書されている。
「そういう人に”あなたは幸せなのよ”と説いたところで耳を塞ぐだけ。説教されることはわかっているから、どう反論しようかということで頭はいっぱい。アドバイスなんか聞いちゃくれないから、まずほめるんです」
女医の凛々しいまなざしに見渡された会場が不審の声に揺れた。
恵まれた環境にありながら、ちっぽけな不満を募らせ虐待をする母親にほめるところなんかあるだろうか。
「ステキなエプロンを選んだセンスはさすが。育児と家事両方がんばってるね。なんでも、ちょっとしたことでもいい。とにかくほめる。彼女の存在を認めて初めて、”でもこのエプロン、シミがあるんです”と打ち明けてくれる」
ざわついていた会場が一気に静まり返った。
「セレブな生活していて何甘っちょろいことをと思ったとしても、母親を責めたところで子どもは守れない。”シミ”をつけてしまった原因を探るために、虐待を止めるために、まず母親に心を開いてもらうことが必要なんです」
叱られたって言い返してやる。彼の意固地な目もそう言っているようだ。
「
きつかった青年の目がほんの少し緩む。
「前だったら、呼ばれてもなかなか来なかったよね」
青年は首を埋めるようにうなずいた。
「自立してきたねぇ。えらいえらい」
「え?」
険悪だった目が丸くなった。
「自立ってね、人に迷惑をかけずに生きることじゃないんだって。一度も、誰にも迷惑かけずに生きる人間なんていない。
これは「子どもの居場所」事業を長年運営している施設長から聞いた言葉だ。
「トラブったままじゃだめだと思ったから、相談してくれたんでしょ?」
頑迷だった瞳がうろうろと泳ぎだした。
「縁がなかったことは残念だったけど、辛い思いから立ち直ったあなたは、きっといつか誰かを支えられる」
「縁がない…。運がなかったってことですか?」
「まぁ、そうねぇ」
「運なら、しかたないか…。タイムセールの卵を買えなかったからって、手に入れた人恨んでもオムレツは作れませんよね」
多少のずれはスルーしよう。受け入れるきっかけは何でもいい。
「今、出張カフェの買い出し係をやってくれてるんだっけ」
「予算内でいいもの買ってくるって、リーダーにほめられたんですよ」
胸を張った彼に戻ってきた笑顔にほっとする。
こだわりが強く、第三者の立場に立つことが苦手な彼はどうしても周囲ともめることが多い。
だがその特性は、丁寧な仕事ぶりとなって発揮されることもある。
「自立してるなんて、初めて言われました」
討ち入りに来たかのようだった彼の口元もすっかり穏やかだ。
「…次の仕事も、がんばります」
ぎゅっと握りしめられた両手の甲をそっと叩いて、面談は終了となった。
転んでしまったら手を貸すし、迷ったら一緒に地図を見よう。
失敗したって、できないことがあったっていい。それは当たり前のことなんだから。
一歩踏み出せるその日まで寄り添い続ける。
暗闇の中にいる命に、いつかこのエールが届きますように。
小ざっぱりとした服装。定期的に床屋で整えてもらっている髪。
前も後ろもわからないくらい長く伸びた前髪に隠された目と鼻から、滝のように涙と鼻水を流して、引きこもっていた部屋から出てきたというあの日が幻のようだ。
目を合わせて話すこともできるようになったのだな。
場違いな感慨にふけってしまうほど、彼との会話は平行線のまま交わる気配がない。
「僕がフラれたのは仕方ないけど、恋人がいるなんて不誠実です。彼女は僕以外にもたくさんの人から好かれてるのに、その気持ちを踏みにじってるんですよ?」
早口で畳みかけるようにしゃべる彼が言う”彼女”とは、ここ青少年支援センターのボランティアスタッフだ。
「でも僕の考え方は間違ってるって言われたんです。ストーカーっぽいって」
不満げに面談を申し込んできた彼を前に、半年前にあった研修を思い出していた。
「ブランド物の、真っ白ですってきなエプロンがあります」
まるでモデルなのかと思うほど立ち姿がカッコイイ女性精神科医が、指をひらひらさせながらフリルを表現している。
「でも残念ながら、ちっちゃなシミがあります」
すらりとした人差し指が、自身の胸の辺りを示した。
「このお母さんは、おしゃれなエプロンの小さなシミを恥じて、隠そうと躍起になっている人と同じ気持ちでいるんです」
女医が示したホワイトボードには、タワーマンション高層階で高収入の夫と2歳の子どもと暮らす、専業主婦である母親の虐待事例が板書されている。
「そういう人に”あなたは幸せなのよ”と説いたところで耳を塞ぐだけ。説教されることはわかっているから、どう反論しようかということで頭はいっぱい。アドバイスなんか聞いちゃくれないから、まずほめるんです」
女医の凛々しいまなざしに見渡された会場が不審の声に揺れた。
恵まれた環境にありながら、ちっぽけな不満を募らせ虐待をする母親にほめるところなんかあるだろうか。
「ステキなエプロンを選んだセンスはさすが。育児と家事両方がんばってるね。なんでも、ちょっとしたことでもいい。とにかくほめる。彼女の存在を認めて初めて、”でもこのエプロン、シミがあるんです”と打ち明けてくれる」
ざわついていた会場が一気に静まり返った。
「セレブな生活していて何甘っちょろいことをと思ったとしても、母親を責めたところで子どもは守れない。”シミ”をつけてしまった原因を探るために、虐待を止めるために、まず母親に心を開いてもらうことが必要なんです」
叱られたって言い返してやる。彼の意固地な目もそう言っているようだ。
「
いろいろ
辛かったでしょう。なのに面談を申し込んでくれて驚いた。ありがとう」きつかった青年の目がほんの少し緩む。
「前だったら、呼ばれてもなかなか来なかったよね」
青年は首を埋めるようにうなずいた。
「自立してきたねぇ。えらいえらい」
「え?」
険悪だった目が丸くなった。
「自立ってね、人に迷惑をかけずに生きることじゃないんだって。一度も、誰にも迷惑かけずに生きる人間なんていない。
適度に
助け合い支え合うことが、本当の自立なんだって」これは「子どもの居場所」事業を長年運営している施設長から聞いた言葉だ。
「トラブったままじゃだめだと思ったから、相談してくれたんでしょ?」
頑迷だった瞳がうろうろと泳ぎだした。
「縁がなかったことは残念だったけど、辛い思いから立ち直ったあなたは、きっといつか誰かを支えられる」
「縁がない…。運がなかったってことですか?」
「まぁ、そうねぇ」
「運なら、しかたないか…。タイムセールの卵を買えなかったからって、手に入れた人恨んでもオムレツは作れませんよね」
多少のずれはスルーしよう。受け入れるきっかけは何でもいい。
「今、出張カフェの買い出し係をやってくれてるんだっけ」
「予算内でいいもの買ってくるって、リーダーにほめられたんですよ」
胸を張った彼に戻ってきた笑顔にほっとする。
こだわりが強く、第三者の立場に立つことが苦手な彼はどうしても周囲ともめることが多い。
だがその特性は、丁寧な仕事ぶりとなって発揮されることもある。
「自立してるなんて、初めて言われました」
討ち入りに来たかのようだった彼の口元もすっかり穏やかだ。
「…次の仕事も、がんばります」
ぎゅっと握りしめられた両手の甲をそっと叩いて、面談は終了となった。
転んでしまったら手を貸すし、迷ったら一緒に地図を見よう。
失敗したって、できないことがあったっていい。それは当たり前のことなんだから。
一歩踏み出せるその日まで寄り添い続ける。
暗闇の中にいる命に、いつかこのエールが届きますように。