第1話

文字数 1,978文字

 見舞いの品って、やっぱりいい物を選んでるんだな。
 どの房もとびきり甘い。どこにも酸味が隠れていない。噛みしめるとあふれる果汁に、のどが喜びで震えた。
「持って帰れば?」
 ここぞとばかりにがっつくおれに、勇人が苦笑いを浮かべる。
「みかんの粒ってさ、宝石みたいだよね。あ、宝石と言えば。幸福の王子って、本当に幸せだったと思う?」
 勇人は房の形を崩さないように、ゆっくりとていねいに皮をむいていく。
「高二男子が、童話か」
 筋もとらないおれへの抗議か。はたまた質問をはぐらかそうとしたおれへの抗議か。勇人が厳しい目を向けた。
「勇人の感じる幸せと、おれの感じる幸せって違うよな。だったらおれがどう思おうと、幸福の王子が幸せだって感じたなら、幸せなんじゃないの」
 勇人がしげしげと顔を見てくる。
「意外。比呂なら『幸せって、言い切ったもん勝ちでしょ』とか言うと思ってた」
 冷暖房完備の病院でも窓際は日ざしが強い。まだ四月だというのに、制服のブレザーを脱がなければ座っていられないくらいだ。
「比呂って、どんな状況になってもたくましく生きていきそうだからさ」
「なんだそれ」
 勇人は体をひねって、引き出しからなにかを取り出すと握りしめた。両手で弄んで、ときどき視線を外しては、また弄ぶ。口を開いては、唇を横に結んだ。
 おれは気づかぬふりをして、新たに見舞いの品を物色する。
「死のうと思ったんだ」
 思いもかけない言葉だった。病院で発するには問題のある単語だろう。一瞬、ほかの患者のことが気にかかったが、外科は元気な患者も多い。幸い、病室でじっとしている人はいなかった。
「これ」
 勇人が見せてくれたのは、こけしのような素焼きの猫だった。
「生き直しの猫って言うんだって」
 突然のことに状況が飲みこめない。体中の血が逆流し、脳に血が集まるのがわかる。おれは動揺を悟られないように、ズボンのポケットに汗ばむ両手をつっこんだ。
 おれに触る気がないと知ると、勇人はまくらに深く背を預け、淡々と話し始めた。
 勇人が言うには、猫を握りしめて死ぬと別人になれるらしい。
 今の記憶を持ったまま、今の年齢と同じ、別の記憶を持った誰かとして目覚めるというのだ。ただひとつ避けられないこともある。それは寿命を変えられないということだ。
「病気を苦にして生き直しを選んでも、結局は死ぬんだって」
 生き直し、猫、死ぬ、生き直し、猫、死ぬ。頭の中で、同じ言葉がくり返される。
「どうして――」
 いろいろと聞きたいことはあるが、うまく言葉が出てこない。
「なんかさ、生きてる意味がわかんなくなっちゃったんだよね。経済状況も、親の仲も悪くない。成績だって、運動神経だって人並みよりはちょっと上。たぶん、このままでもそこそこいい人生を送れると思う」
 聞く人が聞けば自慢話だけれど、勇人の顔に嬉しさは微塵も見いだせない。
「でもさ、夢とか、目標とか、ぜんぜんわからなくて。ずっともやもやしてたし、苦しかったんだ」
 雲が流れて、病室に影を落とす。
「生き直した自分が夢を追ってたら、毎日胸躍らせる日々を送ってたらって考えたら、止められなかった」
 ガラスの固い感触が、コツンと頭に当たる。
「で、失敗に終わって、骨折して入院と」
「まあね」
 勇人はようやく、緊張の表情をほどく。
 病室を陰らせた雲はすでに移動していて、青空だけが残っていた。
「生き直せなかった今の気分はどうよ」
「正直、ほっとした。病室に駆けこんできた親の顔を見たらさ。生き直してたら、こんな顔すら二度と見られなかったんだなって」
 勇人がもし生き直せていたら――。
 おれから勇人の記憶は全部なくなるのに。
 失恋したような惨めさと、罪悪感が交互に押し寄せる。このままでは余計なことを言いそうだ。
 おれはブレザーを乱暴に羽織り、カバンを肩に掛けた。
「なら、よかった。じゃあ、おれ、そろそろ帰るわ」
「えー、もう」
 話せてすっきりしたのだろう。猫を戻した勇人の顔は、いつものように穏やかだった。
「じゃ、またね」
「おう」
 閉まるドアを背中で感じると、ポケットの中に手を入れる。人肌に温まった、ざらざらとした固い感触が指に触れた。
 とがったふたつの耳に、寸胴の体。背後には、ツタのように曲がりくねったシッポがついている。
「お前、ちゃんとした名前があったんだな」
 もうずいぶん薄れてしまったけれど、目を瞑れば蘇る母の声。
「かわいいでしょ。お母さんとお揃いなのよ。だから、なくさないように、しっかり握っててね」
 小五よりずっとごつくなった拳に、あの日の震える母の手を重ねる。
「一緒に、生き直せると思ったのかな」
 猫に聞いたところで、答えが返ってくるわけもない。
 あれから六年。
 じゅうぶん幸せだと胸を張れる毎日を送っている。それでもおれは、今も借り物の人生を生きているようで落ち着かない。
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