何かがいる街。

文字数 4,032文字

 宿泊するホテルのある街に入ると、シャッターが下りた店舗が並ぶ商店街が僕を出迎えた。
 下ろされたシャッターはどの店も色あせているか錆びついているかのどちらかで、寂しい街になってからかなり時間が経過しているらしい。僕はバイクのヘルメット越しに見える光景に、一抹の虚しさを感じた。
 信号が赤になり、左折のウィンカーを出して止まる。交差点を左折して橋を一本渡った先にある古いホテルが、今回の目的地だ。書かなければならない原稿を書き上げる為に、都会の雑踏や誘惑から離れて来たのは良かったが、少し集中できる環境にあり過ぎるなと僕は思った。
 何気なく視線を前に移すと、交差点の先五〇メートルほど先に、黒く細長い物体が見えた。何だろうと思って凝視すると、その細長い物体は僕の視線に気づいたのか、舌をひっこめるようにして、寂れた商店街の建物の間に消えていった。
 蛇だろうか?と僕は思ったが、それにしては大きすぎる。目の錯覚かもしれないと思うと、目の前の信号が青色に変わる。僕はバイクを走らせて、宿泊するホテルに向かった。

 ホテルの駐車場に入ると、宿泊客の車は国産車が一台、一〇年落ちの外国車が一台という寂しい物だった。平日だからという注釈は必要かもしれないが、先程のシャッター通りと並んでこの街の寂しさをより一層引き立てている。格安料金で泊まれるのだから、雰囲気が寂しいのは仕方がない事だった。
 バイクを専用の駐車スペースに停めてヘルメットを脱ぎフロントに向かう。応対に出てくれたのは六十前後の背の低い男性従業員で、このホテルに長く勤務しているのが、言葉遣いと風貌から見て取れた。
「近くに、コンビニとかはありますか?」
「この辺りにはございませんねえ、あるのは雑貨屋兼酒屋が一件と、寂れた居酒屋と整備工場がそれぞれ一件です」
 僕の質問に従業員の男性はつまらなそうに答えた。むかしは栄えていて観光客を楽しませるものに溢れていたのかもしれないが、今となっては過去の記憶に過ぎないのだろう。
 僕は彼の案内で宿泊する客室に案内された。窓の外を見ると山に囲まれたこの街一番の風景が僕を出迎える。さらに遠くの方を見渡すと、岩肌が露わになった遠くの山も見えて、僕は中国の山水画に描かれるような無駄のない世界に来たらしい。手元にある案内のチラシを見ると、天然温泉と地元産の食材を使ったレストランがホテルにあると書かれていた。外へ一歩も出ずに入浴と食事が済むという事は、余計な事を考えずに執筆に集中できるという事だ。
 再び窓の外に視線を移すと、このホテルに入る時に左折した交差点の辺りに、先程の黒く細長い物体が見えた。今度は先ほどよりも長く僕の視界に入り、蛇が草むらの中を移動するような速度で、僕がやって来た道路の方へと消えていった。
 僕が声にならないうめきを漏らすと、従業員の男性は「どうかしましたか?」と質問してきた。
「いいえ、何でもありません」
 僕は否定するように答えた。そして非常口や各施設の利用時間や注意事項の説明を受けると、僕は持ってきたノートパソコンを引っぱり出して執筆に取り掛かった。山水画のような世界に居るという実感が僕に不思議な集中力を与えてくれて、何時もよりキーをたたくリズムを早くしてくれる。しかもWi-Fiがロビーしかないホテルなので、執筆が止まった時にインターネットの動画サイトを閲覧する気が起こらない。一応Wi-Fiのルーターは持ってきていたが、連絡をよこす人間は居なかった。
 二千文字程度書き終えて時計を見ると、時刻は午後三時四十一分になっていた。夕食には早すぎるし、かといって出掛けるほどの余裕のある時間ではない。ネットサーフィンもスマートフォンアプリのゲームも、こういう山奥にこもって仕事をこなしに来た人間に相応しい行為ではない。
 僕は机から離れて、再び窓の外を見た。日が傾き始めていたが、時間を潰して外の空気を吸うにはちょうどいい時間だと思い、外へ出る事にした。
 ホテルを離れて小川に掛かる橋を超えて、街の中心部に向かう。中心部と言ってもそれは単なる地理的な意味に過ぎず、商業や観光客が集まると言った意味の中心部とは程遠い、シャッター通りの中心地だった。
 僕は舗装が荒れた歩道を歩きながら、シャッターの降りた商店街の店舗を見て回った。洋品店にレストラン、地元の民芸品店にスナックなど。観光客が出入りし、地元にお金を落として経済を循環させていたのだろう。だが今は文化財として保護されていない遺跡の様に見える。その光景が常に視界に入ると、僕は無言の圧力を加えられているような不安があった。
 暫く歩くと、ホテル従業員の男性が言っていた雑貨屋兼酒屋が見えた。シャッターが閉じられた通りの中では唯一営業している店舗で、人のいる気配がした。
 近づくと、地元の人間らしき女子高校生が一人出て来た。僕は離れていく彼女の後ろ姿を見送った後、店舗の前に来て覗き込んだ。店内は新しい蛍光灯を入れていないのか薄暗く、鼠色の内装と相まって陰気な雰囲気が漂う。こういう店舗には生産終了になった古いウイスキーが残されている。という事を経験から知っていた僕は店舗に入り、少し物色する事にした。
 レジには一人の老婆が座っており、客が商品を見ようとしてしても挨拶すらしなかった。まるで首をひっこめて、水の中で動かずにじっと様子を伺うカメのようだ。僕は老婆から向けられる澱んだ眼差しを受けながら、洋酒が並べられた商品棚に向かった。
 並べられているのは、東京都内でも購入できる安い国産ウイスキーと、少し値段が高い国産ウイスキーの旧ボトル。それに売れずに何十年も時間が経過してしまった古いテキーラのボトル。ウイスキーの古酒ならば価値はあるだろうが、テキーラの古酒に希少価値があるかは分からなかった。
「観光の人かい?」
 突然、背後で老婆が口を開いた。僕は驚いて後ろを振り向き、レジの老婆と視線を合わせた。
「そうです」
「夜になったら、街に出ちゃいけないよ。人を喰う魔物が出るから。この街が寂れちまったのは、そいつのせいさ」
 文面だけを見れば冗談のような言葉だったが、話した言葉には奇妙な説得力が宿っていたし、突拍子の無い事を口にしても老婆は微笑みすら出さなかった。老婆が笑っていたのなら、僕も笑い返しただろうが出来なかった。
 僕はそのまま何も買わずに店から出ようとしたが、後味が悪いような気持ちしたので、コーラを一本買い逃げるようにホテルに戻った。

 ホテルに戻ると、僕は乱れた自分を落ち着かせるために原稿に向かった。そして六〇〇文字程度の文章を追加すると、時刻は午後五時四分になっていた。
 僕はその時間に地下にある大浴場が開かれる事を知っていたので、着替えの下着とタオル類を持って、地下の大浴場に向かった。大浴場の浴槽は少し古かったが、清掃が行き届いており嫌な感じはしなった。身体を洗って熱い温泉に身体を沈めると、自分の中にある小さな不安や問題が熱でふやけて、輪郭が曖昧になるのを感じた。
 緩んだ気持ちで風呂を後にし、客室に戻って最後の百五十文字を書いて今日に行う分量を書き終える。そして準備を整えると、一階のレストランに向かった。
 レストランに入ると、僕は一八〇〇円の地元産の食材を使ったサラダとスパゲッティ、各種ハム盛り合わせとグラスの白ワインを頼んだ。アルコールを頼んだのは、今日はもう執筆をしないのと、久々のホテル外泊で特別な気分を味わいたかったからだ。供された料理は意外にも味のレベルが高く、特に地元産のわさびドレッシングを使ったサラダと、地元の精肉会社が作ったピスタチオ入りのボロニアソーセージは絶品だった。だが調子に乗って白ワインをもう一杯注文して、早いペースで飲んでしまったのがいけなかったのか、想像よりも酔いの周りが早く、何時もとは違う感じになってしまった。
 会計を済ませてレストランを後にすると、僕を案内してくれた従業員の男性と顔を合わせた。
「お酒を飲まれたのですか?」
 いつもとは違う酔い方をしている僕に向かって、彼は声を掛けて来た。
「はい。ゆったりしたお風呂の後、レストランで美味しいお料理を頂いたので」
「そうですか、ありがとうございます」
 僕の誉め言葉に従業員の男性は嬉しそうに微笑んだ。何もない地方都市の古ホテルが褒められたのが嬉しかったのだろう。
「失礼ですが、これから外には行かれますか?」
「いいえ、何か?」
 続けて訊かれたので、僕は反射的に答えた。
「なら結構です。夜になるとこの街は人を喰う魔物が出ますので」
 従業員の男性が先ほどの老婆と同じ言葉を口にしたので、僕は自分の酔いが一気に醒めて行くのを感じた。
「そんな、悪い冗談はやめてください。さっきお店のお婆さんにも同じことを言われましたよ」
「冗談ではありません。事実なのです。魔物が出るようになったせいで、この街は観光地として機能しなくなったのです」
「そんな馬鹿な」
 僕は否定した。
「噓だと思うならば、外に出てみてください。何があっても、当ホテルは一切責任を負いませんよ」
 従業員の男性がそれまでの柔和な態度を一変させて言うので、僕はその挑発に乗ってロビーを横切り、ホールから外に出た。館内から漏れた照明の光が車の少ない駐車場を照らし、僕が乗って来たバイクのシルエットを朧気に浮かび上がらせている。
 何もないじゃないか。と勝ち誇ったように僕は背後を振り向こうとしたが、闇の中で人間や動物とは異なる、もっと巨大で恐ろしい何かが動く気配がした。身体中が硬直してその場に動けなくなると、足元に昼間見た黒く細長い物体がぼくの足元に伸びていた。背後を振り向くと、ホテル入り口のガラス戸の向こうに、呆れた表情のホテルの従業員数人が立っているのが見えた。
 次の瞬間、黒く細長い物体が僕の足にまとわりついて、僕を闇の中に引きずり込む。


(了)

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