おじいさんと蝋人形

文字数 7,510文字

 北の町に、とても腕の良い蝋細工師がいました。たくさんのお金持ちが、その蝋細工師に蝋細工の人形を作ってくれるよう頼みました。蝋細工師はとてもお金持ちになりました。蝋細工師は年をとり、仕事を引退し、一人大きな屋敷で、新しい蝋の研究に没頭していました。世間の人たちが、蝋細工師のことを忘れた頃、やっとできたのです。蝋細工師がもとめていた蝋が。


「ああ、これだこれだ」

 その蝋は、指でさわると、体温で溶けてしまう、そんな不思議な蝋でした。蝋細工師の顔に笑顔が宿りました。ずいぶんと笑っていなかったのか、しわとしわがぶつかって、ぎこちないものでした。


 数年が経ちました。

「おじいさん、おはようございます」


「ああ、おはよう」


 おじいさんは杖をつきながら、よろよろと部屋から出てきました。そんなおじいさんを心配したのか、青年はおじいさんに手をさしのべようとしました。


「だめだよ。私にさわったら、君の指が溶けてしまうからね」


 おじいさんはそういいました。この青年は蝋細工師であるおじいさんが作った、蝋で、できた人形なのです。とても溶けやすく、人間が触れると、その体温で溶けてしまいます。

「ごめんなさい。じゃあ、服なら良いよね」

 人形は、おじいさんの重ね着したカーデガンの袖をつまみました。

「これならいい」


 おじいさんは笑い、人形と一緒に階段を下りました。


 白い食卓の上には、バターロールと豆の缶詰、温かい紅茶がありました。おじいさんは、バターロールをちぎり、ゆっくりと口に入れました。人形はおじいさんと向かい合い、椅子に座っています。人形には食事の必要はないのです。

 朝と夕、おじいさんは食事を取ります。食べる量も少なく、ほとんど毎食、出入りの業者が持ってくるパンと缶詰と紅茶と決まっています。おじいさんは全く料理ができません。人形は火には近づけませんので、紅茶はおじいさんがいつも自分で入れています。パンと缶詰は人形が用意します。たまにやってくる近所のおばあさんが、またこんなもん、ばっかり食べてるのかいと、鍋にスープを作って置いていきます。それがあるときは、おじいさんは自分で温め、うまそうでもなく、まずそうでもなく、黙ってずるずるとすするのです。


「おじいさん、朝、犬に会いましたよ」

 人形はおじいさんに、おばあさんが連れていた犬の話をしました。例のたまに来る近所のおばあさんです。


「そうかい、さわったりしなかっただろうね」


「ええ、さわりませんでした。きっと溶けてしまうだろうと思って、でも、綱は持たせてもらいました。とても足が速くて何度も転びそうになりました。でも、とても楽しかったです」


「そうかい、それは楽しかっただろうね。だけど、余り無茶をしてはいけないよ。お前の体は、熱に弱いだけでなく、衝撃にも弱いんだ。余り強い衝撃が加えられると、ぽっきり折れてしまうからね」


「はい、おじいさん。犬は、とてもやわらかそうでしたよ。僕を見てわんわんほえていました。犬はどんな感触なんでしょう」


「そうだね。毛の長い絨毯みたいな感じかな。おお、そうだ。鹿の毛皮があったはずだ。後でもってこよう」


 食事が終わった後、おじいさんは倉庫にしまっておいた鹿の毛皮を持ってきました。

「結構堅いんですね。もっとふわふわしてるかと思いました」


「いや、犬の毛はもっとふわふわしていて暖かいよ。鹿の毛は短いし、その皮は加工している、しかもずいぶん古いものだ。持ってきたものが悪かったかな」


 おじいさんは少し笑いました。

「あたたかいって、どんな感触なんでしょう」


 人形の言葉に、おじいさんは口ごもってしまいました。


 その日はとても寒い日でした。人形がいつものようにおじいさんの部屋の扉を叩き、おじいさんにおはようございますと呼びかけました。けれども、返事はありません。

 人形が扉を開けると、おじいさんは揺れ椅子に首をうなだれて座っていました。

「おじいさん、朝ですよ。どうしたんですか。朝ご飯を食べないのですか」

 人形はおじいさんの服の袖を引っ張りました。おじいさんはうんともすんともいいません。それどころか首をうなだれたまま、どさりと椅子から落ちてしまったのです。


「おじいさん」


 人形は驚き、床に倒れたおじいさんの肩をつかんで揺すりました。返事はありません。

「おじいさん、どうしたんですか。返事をしてください」


 人形はおじいさんの肩を揺さぶりました。ぐらぐらと揺れるだけで、何の反応もありません。人形は、おじいさんの体をつかんでも指が溶けないことに気がつきました。不思議に思い、今度は、おそるおそるおじいさんの手を触ってみました。今度も溶けません。人形は喜びました。
「うわぁ、さわれるようになったよ。おじいさんにふれても平気だ。うわあ、うれしいなぁ」

 人形は、おじいさんの手を握ったり、おじいさんのほほをさわったりしました。


「おじいさん、見てください。全然平気ですよ。ほら、僕、おじいさんにさわれるようになったんです」


 人形がいくら呼びかけても、おじいさんは返事を返してくれません。

「おじいさん」


 人形は、不安になってきました。どうして返事をしないのだろう。まだ眠っているのだろうか。人形はおじいさんを持ち上げ、ベットに運びました。おじいさんはとてもたくさんの服を重ね着していましたが、見た目より軽いように感じました。


「そうだ。おばあさんに相談しよう」


 朝、犬と散歩をしているおばあさんのことを思い出しました。まだ、散歩の途中かも知れません。人形は外に出ました。

「大変なんです」


「おや、おはようさん。今日はまた、ずいぶん急いでいるようだね」


 おばあさんは、不思議そうな顔をしました。

「大変なんです。おじいさんが目を覚まさないんです。じっとして動かないんです」


「なにかあったのかい? 顔が変わらないから、なんだか、わかりにくいねぇ」


おばあさんは首をかしげました。人形の表情はいつも通りの無表情です。


「早く来てください」


 人形は、おばあさんの腕をつかんで、引っ張りました。二歩三歩と歩かぬうちに、人形の指の先がじわじわと溶け出しました。人形は慌てて手を離しました。

「おやおや、あんた慌てすぎて、自分の指が溶けちゃうことを忘れたのかい」


 おばあさんは糸のように袖にくっついた蝋を指ではらいました。

「どうしてだろう。おじいさんを触っても溶けなかったのに」


 人形は不思議に思いました。しかたなく、犬のロープをつかみ、抗議の声を上げる犬とおばあさんを引っ張りながら、おじいさんの待つ家へ急ぎました。


 おばあさんは、おじいさんを見ると、ああ、いっちまったんだねと、ベットに横たわっているおじいさんの首筋を触り、口の前に手の甲をあてました。


「おばあさん、おじいさんはどうしたんですか? あっ、そうだ。僕おじいさんにさわれるようになったんですよ。おばあさんはだめでしたけど、見てください。ほら」


 人形は、おじいさんの手を握りおばあさんに見せました。


「そうかい、そうかい、それはね。いいかい、よくお聞き、あんたの大切なおじいさんはね。死んじまったんだよ」


「死んだって、どういう事なんです」


 人形には、死の意味がわかりませんでした。ですが、じわじわと心の中で、感じたことのないような感情がふくれあがってきました。
「動かなくなっちまうことだよ。冷たくなって、静かになって、神様に召されちまうんだ。もう、会えなくなっちまうことだよ」
「会えないって、どういうことですか? 冷たくなったって、ほら、僕はこんなに冷たいですよ。冷たくったって、こんなに動けるんですよ」
 人形は、手をめいいっぱい振りながら、その場で足踏みをしました。

「そういう事じゃないんだよ。あんたと、おじいさんは違うんだ。もう動けないし、しゃべることも息をすることもない。もう何もできないんだ。死んでるんだよ。神様がお決めになったことだから、こればっかりは、どうしようもないんだ。わからなくても仕方ないね。おじいさんは、人間で、あんたは、ああ、悪く思わないでおくれよ。人形なんだ」


 人形は何が何だかわからなくなってしまいました。おじいさんは人間で、僕は人形、違うことはわかっています。でも、おじいさんと一緒に暮らしてきました。おじいさんといっぱいお話をしました。いろんな事を教わりました。人形は冷たくても動くのに、どうして人間はだめなの?

「もう、おじいさんは僕とお話しできないの」


「ああ、そうだよ」


「おじいさんは散歩したり、食事をとったりもしないの」


「ああ、そうだよ」

「もう、一緒には、いられないの」


「ああ、そうなんだよ」

 人形は、とても悲しい気持ちになりました。

 それでも、人形の顔には、なんの変化もありません。



 それからおばあさんは、後は、私にまかせておきな、と、腕まくりをして、息子夫婦を電話で呼びつけ、おじいさんの親戚にも知らせました。その間、人形は、部屋の隅でずっと立ちつくしていました。

 やがておじいさんの親戚の人たちがやってきました。

「あー、寒い寒い、なんでこの家はこんなに寒いんだ」

 コートを着て、のしのしと歩く、太った男が言いました。

「そうよね。どうしてかしら、お金持ちのくせにけちっているのかしら」

 黒い手袋をつけた女の人が言いました。

「ねぇ、暖炉! 暖炉がある! つけてつけて」

 女の子が、暖炉を指さし言いました。

「ああ、そうだね。薪はどこかな」

 父親らしき男は、辺りを見回し、部屋の隅でほこりをかぶった薪を見つけました。

 火をくべる音がします。部屋全体が徐々に暖かくなっていきました。人形は自分の体が溶けていくことに気がつき、あわてて部屋の外に出ました。部屋から出て、ドアを閉めるとき、親戚の人の声が聞こえました。

「こんな寒いところに居るから、死んでしまうのよ」


 それから人形は、屋敷の地下室にじっと閉じこもっていました。屋敷から人の気配が消えると、人形は、地下室から出ました。

 屋敷の中は、ずいぶん散らかっていました。

「そうじ、しないとね」


 人形は、屋敷の掃除を始めました。食べ物をゴミ箱に捨て、お皿を洗い、床をぞうきんでぴかぴかにしました。おトイレもお風呂もぴかぴかです。ただ一つ、おじいさんの部屋にだけは、入りませんでした。その中には、もう、誰もいないことを、人形は知っていたからです。


 それから数日たちました。人形は、屋敷の中で、何をしていいのかわからず、じっと立っていました。食器棚の扉はずっと閉じられたままです。洗濯物もいっこうに増えません。お話をすることもできません。屋敷の中で人形はひとりぼっち、立ち尽くしていました。

 とんとんと、ドアをたたく音がしました。

 誰だろう。また親戚の人だろうか、近所のおばあさんはノックなんかしないし、人形は、玄関扉の、のぞき穴から外を見みました。ひげを生やした見知らぬ男の人が立っていました。人形は扉を開けました。


「やぁ、どうも、初めまして、おや、あなたがロジャーさんですな。私は亡くなられたおじい様の顧問弁護士です」


 男は、手袋を外し手を出しました。人形は一歩後ずさりました。

「おお、これは失礼、溶けてしまうのでしたな。おじい様から聞いておりますよ。おじい様の遺言を伝えに来ました」


 人形は遺言という言葉の意味を知りませんでした。ですが、久しぶりにおじいさんに関する話を聞いて、興味を覚えました。人形は、弁護士の男を家の中に招き入れ、客間に通しました。弁護士は人形に進められるまま、ソファーに座りました。
「あの、遺言って、なんですか?」
 人形は弁護士の向かいのソファーに座り聞きました。

「遺言というものはですね。亡くなられた方が、その御遺族にあてた、手紙のようなものです。財産の話なんかも載っていますよ」


 そういいながら弁護士は鞄の中から一通の封筒を人形に差し出しました。その膨らんだ封筒には、人形の名前が書かれていました。

 おじいさんの手紙だ! 人形はうれしくてうれしくて仕方ありません。いつもの青い瞳で、手紙をじっと見つめました。


「あの、開けても良いですか」


「ええ、もちろん」


 人形は、弁護士が差し出したペーパーナイフを使い、慎重に慎重に封筒を開けました。

 おじいさんの字だ。人形はおじいさんの手紙を何度も何度も繰り返し読みました。その間、弁護士はじっと人形を待ちました。

「わからないよ」


 人形は顔を上げつぶやきました。
「なにがです」

「どうして、おじいさんは、手紙の中で何度も謝っているんだろう」


「なるほど、うーん、それは、おそらく、君を残して死んでしまったことを、申し訳なく思っているのでしょう。生前、あなたのおじい様は、自分が死んでしまった後のことをとても心配していました。あなたがひとりぼっちになってしまうことをとても心配していたのです。だから、あなたとずっと一緒にいられなくなってしまったことを、謝っているのでしょう」


 弁護士はそう答えました。実は、依頼人である老人は、人形を作ってしまったことを、自分のわがままで生み出してしまった命のことを、とても後悔していたのです。ですが、弁護士は、そのことを人形には伝えないことにしました。それが依頼人の、のぞみだと考えたからです。

「僕も、おじいさんとずっと一緒にいたかった。僕も謝りたいよ。僕がいなかったら、おじいさんはもっと長生きできたのかもしれない。おじいさんは僕の所為で死んだんだ」


 人形は、親戚の人が言っていた言葉を思い出していました。「こんな寒いところに居るから死んでしまうのよ」人形にとっては快適な温度でも、人間にとっては冷たすぎるということを、人形は気づいたのです。現に弁護士の先生も、ソファーの上で、とても寒そうに両の腕をさすっています。それを見ても、人形には温かいミルク一つ出せないのです。


「そんなことはないですよ。あなたがいたから、あなたのおじい様は、とても幸せな晩年を過ごしました」
 依頼人のおじいさんと弁護士の先生は何度かお話をしました。その時の様子を、人形のことを話すおじいさんの様子を弁護士の先生は思い出していました。

「でも、ぼくがいなければ」


「あなたがいなければ、あなたのおじい様は、一人寂しく誰にも気づかれず、この家とともに朽ちていったでしょう。あなたがいたから、おじい様は、皆に送られていったのです」


「そう、それならいいんだ。おじいさんがそれで良いなら、それでよかったんだ」


 弁護士は人形の顔を見つめました。人形の顔には、なんの表情もなく、しぐさも声も、何一つ感情らしいものが感じられませんでした。悲しんでいるのか、自暴自棄になっているのか、よくわかりませんでした。やれやれ、これは困った仕事を受けてしまったな。と、苦笑いしました。


「さて、そろそろ仕事の話をした方が良いですかな。私は君のおじい様に頼まれ、君の後見人になったのです」

「後見人?」


「わかりやすく言うと、君が受け継いだ財産と、君の生活の面倒を見るということかな」
「僕の財産?」

「ああ、そうだよ。君はおじい様から、財産の一部を受け継いでいる。君のおじい様は、かなりの額の財産を持っていた。一部は親戚に渡ったが、かなりの部分、おじい様は君に残された。たとえばこの屋敷は君のものだし、ここから北に行った山や湖の近くの別荘だって君のものだ。現金や株式もずいぶんある」


「そうですか」

 財産といわれても、人形は今ひとつぴんと来ませんでした。そもそも人形は生きていく上で必要なものが極端に少ないのです。日差しを遮り、涼しいところがあれば、人形は何もいりません。


「私は君のおじい様に報酬をもらって約束したんだ。君の財産をしかるべく管理し、君の様子を時々見に行くことをね」


「おじいさんが」

 おじいさんが、自分のために、何かをしてくれた、そのことだけは理解できました。



 弁護士の先生が帰った後、人形は、おじいさんの部屋へ行きました。その部屋には、もう長いこと入っていません。おじいさんは背もたれのある揺れ椅子に座ってよく本を読んでくれました。人形は行儀良く向かいの椅子に腰掛け、おじいさんのお話を聞いていました。やがて、人形が文字を覚えると、人形が読んだ本について、お話しました。

「お菓子の家はアリに食べられないの?」

「三匹の子豚の、煉瓦の家の扉は、煉瓦でできていたの? 木で、できていたら壊されちゃうよね。窓もなかったの?」

「ガラスの靴は、どうしてシンデレラにしか合わなかったの?」

 たくさんの質問を人形はしました。おじいさんは人形の話を楽しそうに聞いて、人形の質問に丁寧に答えてくれました。
「お菓子の家の周りに、アリ殺しの薬をまいていたんだろうね。だから食べられなかったのだろう」

「子豚の家の入り口のドアも、煉瓦で作ることは可能だよ。開放型のドアは重くて現実的ではないだろうから、おそらく引き戸だったんだろう。窓に関しては、オオカミが入れないくらい小さく作ればいい」

「靴なんてものは、みんな多少のずれがあるものだ。シンデレラもしかり、そんなぴったり合った靴なんて存在しないし、靴のサイズの合う女性なんてたくさん居る。では、なぜ、王子はシンデレラを見つけることができたのか。シンデレラが履いていた靴は、ふつうの靴とは違う、ガラスの靴だ。靴下をはいていたなら別だが、素足のままガラスの靴を履いた場合、靴の底に足の指紋が残る。おそらく、王子は、女性達にガラスの靴を履かせ、その靴に残った指紋とシンデレラの足の指紋を照合したんだろう。それを元に、本物のシンデレラを見つけたのだ」

 人形とおじいさんは、そんな話をしました。

 おじいさんは時々、本を読みながら眠ってしまうことがありました。人形は慎重に本をおじいさんの手から取り出し、毛布をおじいさんに掛けました。

 夕日が部屋に差し込み、揺れ椅子に影ができました。


 人形は思い立って、おじいさんのお墓にいくことにしました。ときどき電話がかかってくる弁護士の先生におじいさんのお墓のことを聞き出しました。

 村から少し離れた丘の上に墓地があります。風がびゅーびゅー吹いていて、たくさんの石が並べられています。人形は一つ一つ確認しながらおじいさんのお墓を探しました。大きな石におじいさんの名前を見つけました。枯れた花が散らかっていました。


「おじいさん」


 人形は指先でそっとおじいさんの墓石を触ってみました。それは、とてもつるつるしていて、少し自分の肌に似ている、人形はそう思いました。


おわり


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