第1話 星供養
文字数 2,000文字
九条兼実より文が届いたのは、十一月初めのことであった。
――世俗の為の祈ではなく、聊かの願いに依り星供養の修行をお頼みしたい。
凶星には「転禍為福」、吉星には「福寿増長」の祈祷を。人の命数を司る星々を祭り供養する修法を星供養という。
明恵はしげしげと文面に見入っている。我は横合いからその淡い薄墨色の料紙を覗き見た。
「聊かとは、どの程度の願いであろう」
兼実は源頼朝に与し、その後ろ盾によって摂政関白に登り、頼朝の征夷大将軍宣下を実現させた人物である。今は出家して、法名を円証という。
明恵は此の月、後鳥羽院より神護寺の別院、栂尾十無尽院を賜ったばかり。山住みの支度を始めたところであったのに。慌ただしい。
「あれも法師なれば、自ら修せばよいのに」
そんな言葉がふと口を衝く。明恵は薄く笑った。
「ずいぶんお加減がよろしくないようだから」
そういう明恵自身もさして頑丈ではない。それでいて求道心は並外れ、大層な無茶をする。冬極寒の最中にも夜を徹して坐禅する。暁天に至るまでに五体遍身冷え通り、凍死寸前になったこともある。
「このように懇切な仰せ、お断りはできますまい」
「だろうな」
我は溜息をついた。法会は七日間。開白から結願まで、明恵の体力が保つかどうか。護持するこちらも大変だ。
「吉祥」
明恵が我を呼ぶ。人界にあるときの仮の名だ。やわらかな声に振り返ると、明恵は丁寧に両手をついた。
「感謝します」
「いらぬ」
我はぷいと顔を背け、彼の前から立ち去った。
残照の中、我は風に乗って槙尾の山から九条にある兼実の屋敷に向けて飛翔した。眼下に京の町が広がる。薄暮の中を都の民が黒々とした蟻のごとく忙しげに這い回っているのが見える。末法の世。平安の都と謳われた地にかつての面影はない。時代は移る。人と同じく、都にも寿命があるのだろう。
刻限のせいもあろうが、九条通りを行き交う人の姿はなかった。月輪殿と称される屋敷の内も人少なで、ひっそりと静まり返っている。彼の一族にかつての勢いはない。頼朝からそっぽを向かれ、もはやその家運も風前の灯火といった趣か。
見れば、兼実は家人に支えられながら殊勝にも経を読んでいた。己巳生まれ、五十八歳。癸巳生まれの明恵とは親子ほどの歳の開きがある。しかしそれ以上に老いさらばえて見えた。病は篤い。快癒は望めまい。『世俗ならぬ願い』とは、なるほど、確かに彼個人の延命除災などではなさそうだ。では、この期に及んで何を願う。
九条家の再興か、極楽往生か。それとも――。
昨年九月。旧都奈良の興福寺から、法然らを処罰せよと朝廷に奏上があった。彼らの興した専修念仏が『一門に偏執し他宗を軽んずる』というのが表向きの理由だった。詳しくは知らぬが、坊主同士の諍いは生臭くてならぬ。明恵が山に籠もりたがるわけだ。
その折は別段何の沙汰もなかったが、法然は兼実とその娘、宜秋門院の戒師にあたる。
――ならば。
願いとは法然の身に関することやも知れぬ。
明恵は子細を問わなかった。
十一月二十日。月輪殿に赴くと、兼実は床から起き上がり、明恵の手を握りしめてはらはらと涙を落とした。明恵はその痩せた手を優しく握り返し、労るような笑みを浮かべた。
本日のために設えられたという道場は美々しかった。
壇の中央に掛けられた星曼荼羅が蝋燭の火に赤々と照らし出されている。その正面に明恵が座す。我は傍らに侍し、承仕を勤める霊典という僧が外の間に控えた。
「オォー…ム」
日没。最初の一声が堂内に響く。我は彼の中に入り、彼の眼でこの世を眺めた。
明恵の前では絵仏も生身の仏となる。仏の瞳に光が宿り、口元が慈愛を湛えてにいっと微笑む。この瞬間が面白い。
明恵の意識はやすやすと世界と一体化する。体は地に座しながら、心は自在に遊ぶ。
昏い天に星が流れる。真言に招かれて星々が飛来する。
真っ先に参じたのは巳年の本命星、武曲星だ。七つ星に続いて七曜が、羅睺と計都が。星々は曼荼羅に描かれた御仏の姿そのままに明恵の周りを舞った。明恵も舞う。我も舞う。
時は意味を失い、我らは共に歓喜に酔いしれた。
明け方。新たな蝋燭を届けに来た霊典と入れ替わりに星々は去り、我らはうつつに戻った。
そして、満足した我は、兼実への興味を失った。
明けて二月。我は法然流罪の宣旨が下ったことを知った。その処罰を軽減すべく、兼実は病を押して奔走しているらしい。
――露の身はここかしこにて消えぬとも心は同じ花の台ぞ。
はかないこの命。この世では会えずとも、きっとまた同じ蓮の花の上で。
「それは?」
首をかしげると、明恵は目を細めて静かに微笑んだ。
「法然上人から九条殿に贈られた歌だそうです」
「そうか」
美しいな、と我が言うと、明恵は深く頷いた。
四月。法然の帰京を待たずに兼実は世を去った。
――いずれまた。同じ星の下、同じ花の上で。
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