第12話 守りたいもの

文字数 3,174文字

 負の感情、その言葉の意味自体はわかる。だが、トウマが「それ」で出来ているというのがわからない。威鉄の中で、感情は形のないものであるという認識が当然のようにある。新田さんの言葉よりも、トウマの「宇宙人」という発言の方がまだ信じられる。
 威鉄はまた眉間に深い皺を寄せ、思考を研ぎ澄ませようとトウマに関する記憶を蘇らせる。
あの子と出会ったのは今日のような雨の日。カラスに突っつかれていて、緑色の血を流していた。トウマと目が合ったとき、なぜか心の奥を覗かれているみたいな気分になって、目を逸らしてしまったことを覚えている。不思議な色の目、真っ白な髪。そして、緑色の血。トウマを心配して、周りを囲んでいた近所の人たちの中には新田さんもいた。そのとき、威鉄に話しかけてきたのも新田さんだ。この人はトウマを「怖い」と言っていた。てっきり威鉄は、緑色の血を流すトウマを恐れているのだと思っていた。だけどもしかしたら、違うのかもしれない。

「意味がよく……」
 威鉄がやっと口を開けば、新田さんは心配そうにこちらの様子を窺いながら、ゆっくりと、しかしはっきりと言葉を発した。

「この辺りに現れたってことはね、つまり、この近隣に住む誰かの負の感情なの」
 近隣に住む誰か? いったい誰だ。威鉄はご近所さんたちの顔を必死に思い出した。だが、わからない。負の感情だなんて形のないものに、それも他人の感情を毎回気に掛けることができるほど、威鉄は器用ではない。
 威鉄が黙りこくって、ふくよかな顔をじっと眺めていると、新田さんの表情がゆっくりと変わっていく。とても悲しい顔だ。これまで静かだった旦那さんは、新田さんが言葉に詰まるのを感じ取ったのか、代わりに話し始める。

「咲の場合は、子供のいない僕たちが知らず知らずに抱えていた『寂しさ』で構成されているんです。だから、僕たちの抱えている寂しさがいつかなくなったときには、咲は……」
 寂しさ――それもまた、負の感情というわけか。だけどなぜ、そんなことを知っているのだろうか。威鉄やアリの知らないことばかり、いや、知りたくなかったことばかり……。
 このことについて、トウマは何か知っているのだろうか。あの子は自身を宇宙人だと言い、たまに不思議なことを言う。あの子の発言ひとつひとつを思い出せば、何となく新田さんがとんでもないことを言っているわけではないように思えた。もしかすると、トウマ本人もすべて知っているのではないだろうか。そう考え始めると、だんだんと合点がいくような気がしてきた。宇宙人という言葉よりも、負の感情で出来ているという新田さんの言葉に信憑性があるようにも思えてくる。
 出会った頃、トウマが自分を宇宙人だと説明したのは、威鉄やアリに正体を知られたくなかったからなのかもしれない。宇宙人だと言われて信じ切っていたわけではないが、緑色の血を見てしまうと、信じないと言い切ることもできなかった。しかし、あんな幼い子が、自分の正体を隠してまで守りたかったのは何なのだろう?

「じゃあ、トウマも仮に……その誰かの負の感情が解消されたら……」
 威鉄が暗い声で呟くように言うと、悲しい顔のまま新田さんが頷く。旦那さんも威鉄と新田さんを交互に見てから、目を伏せた。
 明るくて幸せな場所から、暗いトンネルに放り込まれたみたいな気分だ。反響する自分の声、叫んでもどこにも届かないような恐怖。目の前が真っ暗になったような……。こんな感覚、久しぶりだ。威鉄さん、と自分を呼ぶ声が聞こえる。だけど、返事ができない。うまく声が出ないのだ。そのときだった。

「威鉄」
 直接、脳内に響くように聞こえたのはトウマの声だ。徐々に、視界に光が戻っていく。威鉄は座ったままで、心配そうな新田さん夫婦に見つめられていた。少しだけ頭を動かせば、空になったグラスを手に持ったトウマと咲ちゃんの姿も見える。旦那さんに大丈夫ですか、と声をかけられたので、ほんのり痛み出したこめかみを抑えつつ頷いてみせる。

「お母さん、もう帰ろう」
「ええ……」
 咲ちゃんが、空になったグラスをテーブルに置いてから新田さんの手をクイクイと引っ張っている。新田さんはまだ心配そうだったけれど、咲ちゃんの言う通りにした方が良いと判断したのか、椅子から立ち上がり、旦那さんと顔を見合わせている。そのうち、威鉄が動かないでいるのを気にしながらも、二人は咲ちゃんと一緒にこの家を後にしたのだった。
 どうして威鉄に話す気になったのか。そもそも、なぜ新田さんは咲ちゃんの正体を知っていたのか。わからないことがたくさんで、頭の中がこんがらがっている。
 新田さん家族が出て行ったあと、テーブルには新田さん夫妻に出したお茶のグラスと、トウマや咲ちゃんが飲んで空になったジュースのグラスが残っている。ぼうっとそれを見やっていれば、威鉄に代わり鍵を閉めてくれていたらしいトウマがリビングに戻ってきた。少しだけ、動悸がする。威鉄は胸を擦り、深く息を吐いた。

「威鉄」
 トウマが笑いかけてくる。
「だいじょうぶだ」と続けてから、何だかちょっと苦しそうな顔でまた笑うのだ。

「咲の親から聞いたんだろう? 咲が教えてくれた。でもあの二人は、威鉄を傷つけたかったわけじゃない。ただ、おれと……威鉄やアリの今後のためにわざわざ……」
 ああ、ああ。一生懸命説明するこの子が愛おしい。それと同じだけ、失うときが来るのが恐ろしい。
 新田さんが話していた、トウマはここら近隣に住む誰かの負の感情であるというのが本当なら、その人のことを知りたいような気がする。いや、知るべきなのかも。トウマの存在は、いまや威鉄とアリにとって大きなものだ。その人には悪いが、トウマを構成する負の感情とやらは、誰のものでどんなものなのか? この先、この子と生きていくにしても、知る必要はあるのかもしれない。でも、いまの威鉄には、目の前に立つトウマにそれを聞くことができっこない。
だって――この子は震えている。

「威鉄。おれは――」
 トウマは両の掌を握り締め、今や泣き出しそうな表情で威鉄を見ている。こんな幼い子供が、涙を我慢している姿なんて見ていられない。
 気づくと、威鉄の動悸やこめかみの痛みは消えていた。自分より、この子を守りたいという気持ちが勝ったのかもしれない。そうか、強くなるとは、こういうことなのか……。そんな風にも思った。
 威鉄は椅子を立ち上がり、トウマと視線を合わせるため、向かい合わせになってしゃがんだ。不思議で綺麗な色の瞳に、自分の顔が映る。トウマの白い頭に大きな手を置く。ぽん、と音もなく軽く叩き、「夕飯は何がいい」と普段通りに訊ねる。

「威鉄……」
 トウマは唇を震わせ、頬を赤らませながらも必死に瞬きを堪えている。きっと、いま瞬きをすると涙が零れてしまうからなのだろう。威鉄はわずかに目を細め、微笑んでみせた。

「トウマ。そんな顔をするくらいなら、無理に話さなくていいんだ」
 トウマの瞳から、ぽろりと涙が落ちる。一度溢れたそれは、勢いを増していき、止まらなくなった。そんなトウマを抱き締める。威鉄の逞しい腕の中で、トウマはわんわん泣いた。

「威鉄、威鉄。おれはいつかここから居なくなるべきなんだ」
 ちくんと、胸が痛む。そこで、この子が自分は負の感情で出来ているということを知っているのだと実感する。もし、自分がいつか消えなくてはならない存在だったとしたら、どんな気持ちか。そして、それを知りつつ生きていくのはどんなに悲しいか……。
 トウマを抱き締める腕に力が入る。

「大丈夫だ。おまえがそう言った」
 威鉄が低く囁く。薄い生地のTシャツの胸元はトウマの涙でびっしょりだ。それでも、抱き締め続ける。この子を離したくなかったから。この子を感じていたかったから。

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